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パスカル「パンセ」-ささやかな慰め [パンセ]

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今日(214日)の東京は、先週末に続き雪が降っている。幸い、久しぶりに自宅でのんびりと一日過ごす予定だ。上の写真は、今朝撮影したベランダの鉢植えの梅の花だ。昨春は多くの実がなり喜んで梅酒を造ったが、その後、初夏にアブラムシが大量発生し、薬を撒いて退治した。その際、葉っぱの大半や小枝の多くを取り除いたため随分寂しくなった。その後いくつかの枝や葉っぱが生えてきたが、往時の勢いはない。秋には、より大きなサイズの植木鉢に植え替えた。考えてみると、病気になったり、大手術を受けたりと、梅にとっては大変な1年だったと思う。おそらくそのせいで、今年は花の数が少ない。しかし、時期が来ると、間違いなくちゃんと咲いてくれた。また、昨春漬けた梅酒(2013411日付、当ブログ参照)も良い感じになってきた。大したことではないが、それが嬉しい。

 

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そんなことを思いながら、久しぶりに「パンセ」を手にとってパラパラとページをめくっていたところ、つぎの1節が目に止まった。

「わずかのことがわれわれを悲しませるので、わずかのことがわれわれを慰める」(B136S77L43)。

«Peu de chose nous console parce que peu de chose nous afflige.»

 


パスカル「パンセ」-世襲の王と選挙で選ばれる「神の代理人」 [パンセ]

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パスカルは、世襲で引き継がれる世俗の王に関し、皮肉たっぷりにつぎのように書いている。

 

「世の中で最も不合理なことが、人間がどうかしているために、最も合理的なこととなる。一国を治めるために、王妃の長男を選ぶというほど合理性に乏しいものがあろうか。人は、船の舵をとるために、船客のなかでいちばん家柄のいい者を選んだりはしない。そんな法律は、笑うべきであり、不正であろう。ところが、人間は笑うべきであり、不正であり、しかも常にそうであろうから、その法律が合理的となり、公正となるのである。なぜなら、いったいだれを選ぼうというのか。最も有徳で、最も有能な者をであろうか。そうすれば、各人が、自分こそその最も有徳で有能な者だと主張して、たちまち戦いになる。だから、もっと疑う余地のないものにその資格を結びつけよう。彼は王の長男だ。それははっきりしていて、争う余地がない。理性もそれ以上よくはできない。なぜなら、内乱こそ最大の災いであるからである」(B3202S786L977)。

 

«Les choses du monde les plus déraisonnables deviennent les plus raisonnables à cause du dérèglement des hommes. Qu’y a-t-il de moins raisonnable que de choisir, pour gouverner un État, le premier fils d’une reine ? L’on ne choisit pas pour gouverner un bateau celui des voyageurs qui est de meilleure maison. Cette loi serait ridicule et injuste ; mais parce qu’ils le sont et le seront toujours, elle devient raisonnable et juste, car qui choisira-t-on ? Le plus vertueux et le plus habile ? Nous voilà incontinent aux mains, chacun prétend être ce plus vertueux et ce plus habile. Attachons donc cette qualité à quelque chose d’incontestable. C’est le fils aîné du roi : cela est net, il n’y a point de dispute. La raison ne peut mieux faire, car la guerre civile est le plus grand des maux.»

 

世襲制が、「最も有徳で、最も有能な者」を選ぶ仕組みだと主張する人は少数派だろう。そもそも、「最も有徳で、最も有能な者」とはどんな人のことか、定義も難しい。ただ、内乱を起こさずに為政者を選ぶやり方は、世襲制以外にもある。例えば民主的な選挙がそうだ。その欠陥も多々あるが、適当な代案はなかなか難しい。ところで、カトリックの世界で「神の代理人」とされる教皇(ローマ法王)の場合はどうか? 飯田橋のギンレイホールで上映中の「ローマ法王の休日」(イタリア・フランス映画、2011年)を観て、いろいろと考えさせられた。

 

     ×     ×     ×

 

映画は、法王の葬儀が終わり、新しい法王を選ぶ選挙(コンクラーヴェ)が始まる場面で幕を開ける。複数の有力候補の得票が拮抗し、なかなか決まらない。そして、どのような「根回し」があったのかよく分からないが、何回目かの投票で、ダークホースだったメルヴィルが急浮上し、圧倒的多数票を得て法王に選出される。そして、サン・ピエトロ大聖堂のバルコニーに出て、待ち受ける大観衆の前であいさつしようとした直前になって、新法王は心理的パニックに陥ってしまう。

 

選挙に参加した枢機卿たちは、バチカン内に足止めとなり、なすすべもない。バチカンの報道官はセラピストを呼ぶも効果なく、ついには新法王がお忍びで街に出て、他のセラピストに診てもらうことにした。しかし、新法王は、警護者たちの目をくらませて、逃げ出してしまう。・・・ 結局、新法王はバチカンに戻ってくるのだが、・・・。

 

     ×     ×     ×

 

選挙で選ばれる「神の代理人」とは、一体どういうものなのだろうか? 神そのものではないにしても、その影響力は想像を絶するものがあるに違いない。それを神ならぬ人間が選ぶ、というのは、やはり無理があるように思える。パスカルも、教皇についていくつか書き残しているが、彼が世襲で決まる世俗の王について書いたほどには明解でない。ただ、「教皇は無謬ではない、それゆえ絶対の権力を持つべきではない」との主張だと私は理解している。

 

「教会、教皇。単一-多数。教会を単一と見なすならば、そのかしらである教皇は全体に相当する。教会を多数と見なすならば、教皇はその一部分にすぎない。教父たちは教会を、ときには前者として、ときには後者として考えた。したがって、教皇について語っていることもまちまちである。しかし、彼らはこれらの二つの真理の一方を設定して、他方を排除しなかった。単一に帰着しない多数は混乱であり、多数に依存しない単一は圧制である。-公会議を教皇の上に置いていると言われうる国は、フランスぐらいのものである」B871S501L604)。

 

«Église, pape. Unité / multitude. En considérant l’Église comme unité, le pape, qui en est le chef, est comme tout. En la considérant comme multitude, le pape n’en est qu’une partie. Les Pères l’ont considérée tantôt en une manière, tantôt en l’autre, et ainsi ont parlé diversement du pape. Mais en établissant une de ces deux vérités, ils n’ont pas exclu l’autre. La multitude qui ne se réduit point à l’unité est confusion. L’unité qui ne dépend pas de la multitude est tyrannie.Il n’y a presque plus que la France où il soit permis de dire que le concile est au-dessus du pape.»

 

教皇は首脳者である。ほかのだれが、万人に知られているであろうか。ほかのだれが、いたるところに伸びていく主要な枝をにぎることによって全体に行きわたる力を持ち、万人に認められているであろうか。それを圧制に下落させるのは、いかにたやすいことだろう。だから、イエス・キリストは、この訓戒を彼らに授けられたのだ。<あなたがた、そうであってはならない>(ルカ伝2226)」B872S473L569)。

 

«Le pape est premier. Quel autre est connu de tous ? Quel autre est reconnu de tous, ayant pouvoir d’insinuer dans tout le corps parce qu’il tient la maîtresse branche qui s’insinue partout ? Qu’il était aisé de faire dégénérer cela en tyrannie ! C’est pourquoi Jésus-Christ leur a posé ce précepte : Vos autem non sic.»

 

ルカ伝22は有名な「最後の晩餐」を扱った箇所だが、その2426を引用しておこう。

24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」

25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。」

26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」

 

「教皇。神は、その教会に対する普通の指導のなかでは奇跡を行われない。もし一個人のうちに無謬性があったら、それは一種の奇妙な奇跡であろう。しかし、無謬性は多数のなかにあるというのが、きわめて自然であると思われる。神のこの指導は、彼の地のあらゆる御業(みわざ)のように、自然のもとに隠されている」B876S607L726

 

«P.P. pape. Dieu ne fait point de miracles dans la conduite ordinaire de son Église. C’en serait un étrange si l’infaillibilité était dans un. Mais d’être dans la multitude, cela paraît si naturel, que la conduite de Dieu est cachée sous la nature, comme en tous ses autres ouvrages.»

 

「教皇たち。王はその権力を行使する。しかし、教皇はその権力を行使することができないB877S586L708

«Papes. Les rois disposent de leur empire, mais les papes ne peuvent disposer du leur.»

 

「教皇は、職掌がらとジェズイットに対する信頼とから、わけなく抱き込まれるし、ジェズイットは、中傷を手段として、彼を抱き込むのがはなはだ得手である」B882S744L914

«Le pape est très aisé à être surpris à cause de ses affaires et de la créance qu’il a aux jésuites. Et les jésuites sont très capables de surprendre à cause de la calomnie.»

 

*冒頭、及び以下の写真は、いずれもバチカンにて(20107月撮影)。

 

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パスカル「パンセ」-「現在」を考えない人間 [パンセ]

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パスカルは、われわれの思考の盲点を突くようなことをズバッと言うことがある。例えば、われわれは「現在」のことをどれだけ考えているか。仮に考えているとしても、それはあくまで「将来」を考えるための手段に過ぎないのではないか。そう、われわれにとっての目的は「将来」でしかない(B172S80L47)。

 

・「われわれは決して、現在の時に安住していない。われわれは未来を、それがくるのがおそすぎるかのように、その流れを早めるかのように、前から待ちわびている。あるいはまた、過去を、それが早く行きすぎるので、とどめようとして、呼び返している。これは実に無分別なことであって、われわれは、自分のものでない前後の時のなかをさまよい、われわれのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。これはまた実にむなしいことであって、われわれは何ものでもない前後の時のことを考え、存在するただ一つの時を考えないで逃しているのである。というわけは、現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。それがわれわれを悲しませるので、われわれは、それをわれわれの目から隠すのである。そして、もしそれが楽しいものなら、われわれはそれが逃げるのを見て残念がる。われわれは、現在を未来によって支えようと努め、われわれが到達するかどうかについては何の保証もない時のために、われわれの力の及ばない物事を按配しようと思うのである。」

 

«Nous ne nous tenons jamais au temps présent. Nous anticipons l’avenir comme trop lent à venir, comme pour hâter son cours, ou nous rappelons le passé pour l’arrêter comme trop prompt, si imprudents que nous errons dans les temps qui ne sont point nôtres et ne pensons point au seul qui nous appartient, et si vains que nous songeons à ceux qui ne sont rien, et échappons sans réflexion le seul qui subsiste. C’est que le présent d’ordinaire nous blesse. Nous le cachons à notre vue parce qu’il nous afflige, et s’il nous est agréable nous regrettons de le voir échapper. Nous tâchons de le soutenir par l’avenir et pensons à disposer les choses qui ne sont pas en notre puissance pour un temps où nous n’avons aucune assurance d’arriver.»

 

・「おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とによって占められているのを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたにしても、それは未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決してわれわれの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。

 

«Que chacun examine ses pensées, il les trouvera toutes occupées au passé ou à l’avenir. Nous ne pensons presque point au présent, et si nous y pensons, ce n’est que pour en prendre la lumière pour disposer de l’avenir. Le présent n’est jamais notre fin. Le passé et le présent sont nos moyens, le seul avenir est notre fin. Ainsi nous ne vivons jamais, mais nous espérons de vivre, et nous disposant toujours à être heureux, il est inévitable que nous ne le soyons jamais.»

 

この1週間、「過去の清算」や「未来志向」で喧しいが、確かに「現在」にどう向き合うかをもっと考えるべきかもしれない。

 

*写真は都電荒川線を走る電車。新目白通と明治通の交差点付近にて。

 


パスカル「パンセ」-ピレネー山脈のこちら側と向こう側 [パンセ]

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社会科学者の中には、「文化」要因を強調するグループと軽視するグループがある。抽象的な一般理論志向が強い経済学者は大半が後者だが、社会学者や経営学者の間では後者が多いようだ(例えば、「日本的経営」という言葉はよく使うが、「日本的経済」とはあまり言わない)。私自身は、国による文化の違いは確かに存在すると思うが、社会科学分野で行われている「文化」分析については納得できないことも多く、あまり満足していない。一例を挙げれば、G・ホフステード『多文化世界』(1995年、有斐閣)だ。

 

それはともかく、ロンドン・オリンピックを見ながら、国情や文化の違いをいろいろな機会に感じたのは事実だ。例えば、女子サッカーで日本チームの4戦目の相手はブラジルだったが、ラテン系女性の激しい気性や言動はテレビの画面からもよく伝わってきた。まったく、なでしこたちは、こういう相手によく勝ったものだと思う。

 

また、毎度のことながらサッカーのルールというか審判のジャッジにはかなりの幅がある。相手を倒したとき、ファウルをとられることも、とられないこともある。ファウルをとられる場合も、イエローカードやレッドカードが出されることもあれば、出されないこともある。「反則」の程度によって使い分けているのだろうが、その「程度」の判断はかなり主観的だ。こうしたシーンを何度も見るたびに、サッカーというスポーツは国際社会の縮図だなあとつくづく思ってしまう。国際ルールというものが一応存在しても、その解釈や適用はしばしば便宜的に行われるからだ。

 

パスカルの「正義」に対する見方は、まさにこうした事実認識に基づいている(B294S94L60)。

 

・(もし不変の正義を知っていたなら)「人々は、世界のあらゆる国とあらゆる時代とを通じて、不変の正義が樹立されているのを見たことだろう。ところが、そのかわりに、われわれが見る正義や不正などで、地帯が変わるにつれてその性質が変わらないようなものは、何もない。緯度の三度の違いが、すべての法律をくつがえし、子午線一つが真理を決定する。数年の領有のうちに、基本的な法律が変わる。法にもいろいろの時期があり、土星が獅子座にはいった時期が、われわれにとって、これこれの犯罪の起原を画しているのである。川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である。

«On la verrait plantée par tous les États du monde et dans tous les temps, au lieu qu’on ne voit rien de juste ou d’injuste qui ne change de qualité en changement de climat. Trois degrés d’ élévation du pôle renversent toute la jurisprudence. Un méridien décide de la vérité. En peu d’années de possession les lois fondamentales changent. Le droit a ses époques, l’entrée de Saturne au Lion nous marque l’origine d’un tel crime. Plaisante justice qu’une rivière borne ! Vérité au-deçà des Pyrénées, erreur au-delà.»

 

・「このような混乱から、ある人は、正義の本質は立法者の権威であると言い、他の人は、君主の便宜であると言い、また他の人は、現在の習慣であると言うことが生じる。そしてこの最後のものが最も確かである。理性だけに従えば、それ自身正しいというようなものは何もない。すべてのものは時とともに動揺する。習慣は、それが受け入れられているという、ただそれだけの理由で、公平のすべてを形成する。これがその権威の神秘的基礎である。」

«De cette confusion arrive que l’un dit que l’essence de la justice est l’autorité du législateur, l’autre la commodité du souverain, l’autre la coutume présente. Et c’est le plus sûr. Rien, suivant la seule raison, n’est juste de soi, tout branle avec le temps. La coutume fait toute l’équité, par cette seul raison qu’elle est reçue. C’est le fondement mystique de son autorité.»

 

・「習慣は、かつては理由なしに導入されたが、それが理にかなったものになったのである。もしもそれにすぐ終わりを告げさせたくないのだったら、それが真正で、永久的なものであるように思わせ、その始まりを隠さなければならない。」

«Elle a été introduite autrefois sans raison, elle est devenue raisonnable. Il faut la faire regarder comme authentique, éternelle et en cacher le commencement si on ne veut qu’elle ne prenne bientôt fin.»

 

制度や慣行を人々の経済合理的行動から説明したり、社会的効率性の観点から評価したりしようとする「新制度派」経済学は、しばしば既存制度の維持、合理化のために使われるが、なるほど、使いようによっては制度改革のロジックとしても使える。それが、分析者のイデオロギーや主観であっては困ると思うが・・・。

 

*写真はパスカル生誕の地、フランス、クレルモン・フェランにて。パスカルの父はここで裁判官をしていた。

 

<訂正>


パスカル「パンセ」-もしも他人が何を考えているか、完全にわかったら・・・ [パンセ]

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昨日のブログで、オーウェルの小説『1984年』では、他人が何を考えているかわからないという不信感の連鎖が恐怖の背景にあると指摘した。しかし、逆に、他人が何を考えているか、すべて手に取るようにわかったとしたらどうだろうか。おそらくそれはそれで恐ろしい世の中に違いない。そもそも、自分の考えがすべて他人に知られてしまうとしたら、人間はおよそ意味のあることを自由に考えられるだろうか。

 

次の言からすると、パスカルはそのことに気づいていた。

「もしもすべての人が、それぞれが、他の人たちについて言っていることを知ったとしたならば、この世に四人と友人はあるまいということを、私はあえて提言する。このことは、人が時に不謹慎な告げ口をするところから生ずる喧嘩によっても、明らかである」(B101S646L792)。«Je mets en fait que si tous les hommes savaient ce qu’ils disent les uns des autres, il n’y aurait pas quatre amis dans le monde. Cela paraît par les querelles que causent les rapports indiscrets qu’on en fait quelquefois.»

 

私は、いわゆるソーシャル・ネットワーキング・サービス(social networking serviceSNS)には未だ怖くて手が出せないでいる。知ることのメリットとデメリット、知らないでいることのメリットとデメリットは、情報流通量の増大に伴い、今後ますます厄介な問題になっていくことだろう。

 

*写真は、Albert Guillaume (1873-1942)作の「遅刻者」(Les retardataires)。パリのカルナヴァレ博物館にて。

 


パスカル「パンセ」-夢と人生 [パンセ]

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パスカルが夢について書いている。私は、素人考えだが、夢というのは現実生活の反映だと思っている。例えば、パリでフランス語学校に通っていたとき、先生から「フランス語で夢を見るか」と聞かれたことがある。答えはOuiだ。これは何も私が、フランス語がよく理解でき、ペラペラに話せるということではない。フランス語がよく理解できず、下手なら下手なりに喋る私が夢のなかにも登場するというに過ぎない。パスカルは、夢と現実の人生の違いについて、さらにおもしろいことを言っている。

 

「もしわれわれが、毎晩同じことを夢に見ていたなら、それは、われわれが毎日見ているものごとと同じ程度に、われわれに影響を与えることだろう。そして、もしある職人が、毎晩十二時間ぶっ続けに、彼が王様であるという夢を確かに見るのだったなら、彼は、毎晩十二時間ぶっ続けに職人であるという夢を見る王様とほとんど同じようにしあわせであろうと私は思う。

 

「もしわれわれが、毎晩、われわれが敵に追われ、その苦しい幻想に悩まされている夢を見、また、毎日、たとえば旅行をしている時のようにいろいろ違った仕事をしていたとするならば、われわれは、それがほんとうであったのと同じ程度に苦しむことだろう。そして、眠ることを恐れることだろう。ちょうど、実際にそうした不幸にはいるのがこわくて、目ざめるのを恐れるのと同じように。そして、実際に、それは現実とほとんど同じくらいの苦しみを与えることだろう。

 

「ところが、夢というものはすべて異なっており、そして同じものでもいろいろに変わるので、そこで見るものは、さめていて見るものよりはずっと影響を与えることが少ないのである。これは、さめていて見るものには連続性があるからであるが、それも、変わることが決してないほど連続的で、均等的であるというわけではない。ただ、旅をしている時のようにたまに起こる場合を除けば、変わり方の急激さが少ないというだけのことである。それだからこそ、旅をしている時には、「私は夢を見ているようだ」と人が言うのである。なぜなら、人生は、定めなさがいくらか少ない夢であるからである」(B386SL803)。

 

«Si nous rêvions toutes les nuits la même chose, elle nous affecterait autant que les objets que nous voyons tous les jours. Et si un artisan était sûr de rêver toutes les nuits, douze heures durant, qu’on est roi, je crois qu’il serait presque aussi heureux qu’un roi qui rêverait toutes les nuits, douze heures durant, qu’il serait artisan.

 

Si nous rêvions toutes les nuits que nous sommes poursuivis par des ennemis et agités par ces fantômes pénibles, et qu’on passât tous les jours en diverses occupations, comme quand on fait voyage, on souffrirait presque autant que si cela était véritables, et on appréhenderait le dormir comme on appréhende le réveil quand on craint d’entrer dans de tels malheures en effet. Et en effet il ferait à peu près les mêmes maux que la réalité.

 

Mais parce que les songes sont tous différents, et que l’un même se diversifie, ce qu’on y voit affecte bien moins que ce qu’on voit en veillant, à cause de la continuité, qui n’est pourtant pas si continue et égale qu’elle ne change aussi, mais moins brusquement, si ce n’est rarement, comme quand on voyage, et alors on dit : Il me semble que je rêve. Car la vie est un songe, un peu moins inconstant.»

 

つまり、夢よりも現実の人生の方が、連続性、反復性が強く、それゆえにわれわれへの影響が大きいということだ。ただ、そうした程度問題を超えて、さらに両者の間に何か本質的な違いがあるというわけではない。最後の「人生は、定めなさがいくらか少ない夢である」というのは、鴨長明の「行く河の流れは絶えずして・・・」とも相通ずるものが感じられておもしろい。

 

*写真は、フランス、クレルモンフェランのパスカル通りにて。夏の土曜日の朝、若者が立ち話をしていた。

 


パスカル「パンセ」-川の流れ(2) [パンセ]

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(承前)

 

「パンセ」ブランシュヴィック版459節の、エルサレムへ戻るためにバビロンの「川の上にすわらなければならない」とはどういう意味か、ブランシュヴィック版458節にヒントがある

 

「「すべて世にあるものは、肉の欲、目の欲、生命の誇りである。<官能欲、知識欲、支配欲>災いなのは、これら三つの火の川が、うるおしているというよりも燃えたっている呪われた地上である。さいわいなのは、それらの川の上で、沈まず、巻き込まれず、泰然として動かず、しかも、それらの川の上で、立ちもせずに、低い安全な場所にすわっている人々である。彼らは光がさすまで、そこから立ち上がらず、そこで安らかに休息したのち、やがて彼らを引き上げて聖なるエルサレムの城門にしっかりと立たせてくださるかたに、その手をさしのべる。そこではもはや高慢も彼らを責め、彼らを打ち倒すことはできない。とはいえ、彼らは涙を流す。それはすべての滅びるべきものが激流に巻き込まれて過ぎ去るのを見てではない。その長い流離の日のあいだ、たえず慕いつづけてきた彼らの愛する故国、天のエルサレムをなつかしんでである」(B458S460L545)。

 

«Tout ce qui est au monde est concupiscence de la chair ou concupiscence des yeux ou orgueil de la vie. Libido sentiendi, libido sciendi, libido dominandi. Malheureuse la terre de malédiction que ces trois fleuves de feu embrasent plutôt qu’ils n’arrosent ! Heureux ceux qui, étant sur ces fleuves, non pas plongés, non pas entraînés, mais immobilement affermis sur ces fleuves, non pas debout, mais assis, dans une assiette basse et sûre, dont ils ne se relèvent pas avant la lumière, mais après s’y être reposés en paix, tendent la main à celui qui les doit élever pour les faire tenir debout et fermes dans les porches de la sainte Jérusalem, où l’orgueil ne pourra plus les combattre et les abattre ! Et qui cependant pleurent, non pas de voir écouler toutes les choses périssables que ces torrents entraînent, mais dans le souvenir de leur chère patrie, de la Jérusalem céleste, dont ils se souviennent sans cesse dans la longueur de leur exil.»

 

どうやら、バビロンの「川の上にすわらなければならない」というのは、世俗の欲望から全く逃避するわけではないが、それに巻き込まれることなく超然としたある種の生き方を指しているようだ。だが、それが具体的にどんな生き方なのか、私には今ひとつピンとこない。

 

さらに、森有正が謎めいたことを言っている。彼の初期のエッセイ集に「バビロンの流れのほとりにて」と題するものがある。その「あとがき」に彼はこう記している。

 

「「バビロンの流れのほとりにて」は、1952年から56年にかけて書いた一連の手紙を、対信者の承諾をえて、一冊に纏めたものである。したがってこれは首尾一貫した論述とは全く性質を異にするものである。題は、パスカルの『パンセ』の一節から取った。意味は読者が自由につけて戴きたい。 1956年 初秋 ガール県ソミエールにて」

 

「バビロンの流れの上に」ではなく、「バビロンの流れのほとりにて」と言っているところからすると、パスカルの「パンセ」よりも、むしろ旧約聖書「詩編」との連想が働く。それならば、遠く日本を離れて、フランスで西欧思想と格闘する著者の望郷の念の表出ととれる。しかし、わざわざ「パンセの一節から取った」と断っているところを見ると、彼のある種の生き方の表明ともとれるだろう。

 

スイスやフランス、あるいはそもそもヨーロッパについてほとんど何の予備知識もないまま、ジュネーヴに着いた最初の数ヵ月間、私は森有正のエッセイ集をむさぼるように読んでいた。今は、その日々が懐かしい。

 


パスカル「パンセ」-川の流れ(1) [パンセ]

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このごろ歳のせいか、『方丈記』の冒頭の一節をときどき思い浮かべたり、その他の箇所をパラパラと拾い読みしたりしている。「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し。」

 

『パンセ』にも河を題材にした一節がある。

 

バビロンの川は流れ、くだり、巻き込む。

――

ああ聖なるシオンの都よ、そこでは、すべてのものがとどまり、何ものもくずれることはない。われわれは川の上にすわらなければならない。下でも、中でもなく、上に。また立っていないで、すわらなければならない。すわるのは、謙虚であるため、上にいるのは、安全であるために。だが、エルサレムの城門では立ち上がるであろう。

――

その快楽がとどまるか流れるかを見よ。もし過ぎ去るならば、それはバビロンの川である」(B459S748L918)。

«Les fleuves de Babylone coulent, et tombent, et entraînent.

――

Ô sainte Sion, où tout est stable, et où rien ne tombe!

――

Il faut s’asseoir sur ces fleuves, non sous ou dedans, mais dessus, et non debout, mais assis, pour être humble étant assis, et en sûreté étant dessus. Mais nous serons debout dans les porches de Jérusalem.

――

Qu’on voie si ce plaisir est stable ou coulant ! S’il passe, c’est un fleuve de Babylone.»

 

残念ながら、それなりの予備知識がないと、この一節の意味はよくわからない。まず、前田陽一、由木康(訳)の中公文庫版の注によると、「聖なるシオン、天のエルサレムが神の国の表徴であるのに対して、バビロンの川は世俗の表徴である。」

 

さらに言えば、この喩えは、『旧約聖書』の「詩編」第137節にさかのぼる。

「(1バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。

2)竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。

3)わたしたちを捕囚にした民が 歌をうたえと言うから わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして 「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

4)どうして歌うことができようか 主のための歌を、異境の地で。

5)エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手はなえるがよい。

6)私の舌は上顎にはり付くがよい もしも、あなたを思わぬときがあるなら もしも、エルサレムを わたしの最大の喜びとしないなら。

7)主よ、覚えていてください エドムの子らを エルサレムのあの日を 彼らがこう言ったのを 「裸にせよ、裸にせよ、この都の基(もとい)まで。」

8)娘バビロンよ、破壊者よ いかに幸いなことか お前がわたしたちにした仕打ちを お前に仕返す者

9)お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」

 

旧約聖書では、バビロンに囚われの身となったイスラエル人が(いわゆる「バビロン捕囚」)、「バビロンの流れのほとりに座」って、エルサレムへの望郷の念に強く苛まれているさまを謳っている。しかし、「パンセ」では、エルサレムへ戻るために、バビロンの「川の上にすわらなければならない」としている。これはどうしたことか。

 

(次回に続く)

 

*写真は、スイス、ベルンの市街を取り巻くように流れるアーレ川の川面。

 


パスカル「パンセ」-懐疑論者の効用 [パンセ]

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私は、今から20数年前(つまり30歳前後の頃)の約2年間、千葉県のF市に住んでいたことがある。F駅の駅前では、よく、ある県会議員がマイクを持って演説していた。通勤客はみな足早に通り過ぎ、立ち止まって耳を傾けようとする人は一人もいなかった。彼が私と同い年だとは知らなかったし、いわんや、その後の彼の人生など関心もなかった。人はみな、自分が生きていくことに精一杯なのだ。ただ、どこかで立ち止まって内省することも大切だ。懐疑精神と言ってもよい。

 

パスカルが、懐疑論者の意義について皮肉混じりに述べている。生来、懐疑的な性向の強い私を少々複雑な気持ちにさせる一文だ。

 

「私をいちばん驚かすことは、世間の人たちがみな自分の弱さに驚いていないということである。人は大まじめに行動し、それぞれ自分の職務に服している。しかも、そういうしきたりなのだから、自分の職務に服すのが実際によいのだという理由からではなく、それぞれ道理と正義とがどこにあるかを確実に知っているかのように、である。人は、たえず期待を裏切られている。ところが、おかしな謙虚さから、それは自分のあやまちのせいであって、心得ていることを常に自分が誇りとしている処世術のせいではないと思っているのだ。だが、世の中に、懐疑論者でないこのような連中があんなにたくさんいるということは、懐疑論の栄光のために結構なことである。そのおかげで、人間というものは、最も常軌を逸した意見をもいだきうるということを示せるのである。なぜなら、人間は、自分はこの自然で避けがたい弱さのなかにいるのではないと信じたり、反対に、自然の知恵のなかにいるのだと信じたりすることができるからである。懐疑論者でない人たちが存在するということほど、懐疑論を強化するものはない。もしみなが懐疑論者だったら、懐疑論者たちがまちがっていることになろう」(B374S67L33)。

 

«Ce qui m’étonne le plus est de voir que tout le monde n’est pas étonné de sa faiblesse. On agit sérieusement et chacun suit sa condition, non pas parce qu’il est bon en effet de la suivre puisque la mode en est, mais comme si chacun savait certainement où est la raison et la justice. On se trouve déçu à toute heure, et par une plaisante humilité on croit que c’est sa faute et non pas celle de l’art qu’on se vante toujours d’avoir. Mais il est bon qu’il y ait tant de ces gens-là au monde qui ne soient pas pyrrhoniens, pour la gloire du pyrrhonisme, afin de montrer que l’homme est bien capable des plus extravagantes opinions, puisqu’il est capable de croire qu’il n’est pas dsans cette faiblesse naturelle et inévitable et de croire qu’il est au contraire dans la sagesse naturelle. Rien ne fortifie plus le pyrrhonisme que ce qu’il y en a qui ne sont point pyrrhoniens. Si tous l’ étaient, ils auraient tort.»

 

20数年前、F駅の駅前で演説していた青年が、昨夕、テレビカメラを前に大飯原発の再稼働について語った。ロジックも根拠も弱いが、掛け声だけは勇ましく、自分は国民のために正しいことをしているとの思い込みに何の疑念も持っていないように感じた。とても危険なことだ。誰も聞いてくれない街頭演説を繰り返していると、いろんな意見をよく聞き、それらを懐疑的に内省するという態度を失い、ただただ、自分の言葉に自己陶酔するようになってしまうのかもしれない。

 

*写真は、フランス、ランスのトー宮殿(Palais du Tau)にて。「ソドムの破壊」(La Destruction de Sodome)と題する18世紀の作。

 


パスカル「パンセ」-人間の不釣り合い(2) [パンセ]

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(承前)

 

パスカルの「パンセ」、「人間の不釣り合い」に関する一節の続きである(B72S230L199)。われわれは「無限」も「虚無」も知ることができない。そうであるなら、せめてわれわれの限度をわきまえよう、というのが前回の結論であった。しかしこれは、素朴な意味の不可知論とは違うと思う。もしそうであるなら、「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。«L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.»B347S231232L200)とか、「考えが人間の偉大さをつくる。」«Pensée fait la grandeur de l’homme.»B346S628L759などとは言わないだろう。

 

パスカルは、人間は完全に知ることはできないが、完全に知らないでいることもできない、両極端の間で宙ぶらりんなのが、人間の真の状態だと言う。

 

われわれは確実に知ることも、全然無知であることもできないのである。われわれは、広漠たる中間に漕ぎ出でているのであって、常に定めなく漂い、一方の端から他方の端へと押しやられている。われわれが、どの極限に自分をつないで安定させようとしても、それは揺らめいて、われわれを離れてしまう。」«C’est ce qui nous rend incapables de savoir certainement et d’ignorer absolument. Nous voguons sur un milieu vaste, toujours incertains et flottants, poussés d’un bout vers l’autre. Quelque terme où nous pensions nous attacher et nous affermir, il branle et nous quitte.»

 

「われわれはしっかりした足場と、無限に高くそびえ立つ塔を築くための究極の不動な基盤を見いだしたいとの願いに燃えている。ところが、われわれの基礎全体がきしみだし、大地は奈落の底まで裂けるのである。」«Nous brûlons du désir de trouver une assiette ferme, et une dernière base constante pour y édifier une tour qui s’élève à l’infini, mais tout notre fondement craque et la terre s’ouvre jusqu’aux abîmes.»

 

「それゆえに、われわれは何の確かさも堅固さも求めるのをやめよう。われわれの理性は、常に外観の定めなさによって欺かれている。何ものも有限を、それを取り囲み、しかもそれから逃げ去る二つの無限のあいだに固定することができないのである。」«Nous cherchons donc point d’assurance et de fermeté. Notre raison est toujours déçue par l’inconstance des apparences, rien ne peut fixer le fini entre les deux infinis qui l’enferment et le fuient.»

 

ここまではいい。しかし、続いてパスカルはわれわれを厭世観の底に突き落とす。

 

「このことがよくわかったら、人は自然が各人を置いたその状態で、じっとしているであろうと思う。われわれの分として与えられたこの中間が、両極から常に隔たっている以上、人が事物の知識を少しばかりよけい持ったとしたところで、何になるであろう。・・・またわれわれの寿命は、それが10年よけい続いたとしたところで、永遠からは等しく無限に遠いのではなかろうか。」«Cela étant bien compris, je crois qu’on se tiendra en repos, chacun dans l’état où la nature l’a placé. Ce milieu qui nous est échu en partage étant toujours distant des extrêmes, qu’importe qu’un autre ait un peu plus d’intelligence des choses ? ... Et la durée de notre vie n’est-elle pas également infime de l’ éternité, pour durer dix ans davantage ?»

 

しかし、人間は自分の身近のあれやこれやを比べて、一喜一憂する。

 

「これらの無限を目の前におけば、有限なものはすべて相等しい。それで私には、なぜわれわれの思いを、他の有限でなく、ある一つの有限の上におくのであるか、その理由が分からない。われわれを有限なものとくらべることだけがわれわれを悩ますのである。«Dans la vue de ces infinis tous les finis sont égaux, et je ne vois pas pourquoi asseoir son imagination plutôt sur un que sur l’autre. La seul comparaison que nous faisons de nous au fini nous fait peine.»

 

確かにこういう言い方もできるだろう。しかし、一方でほとんどの人間は有限なもの同士を比較して、さまざまな感情を抱き、さまざまなことを考えたり、行ったりして、生き、そして死んでいく。そのことをどう考えるべきか、私にはまだわからない。

 

*写真は、サンフランシスコにて、太平洋に沈む夕日。

 


パスカル「パンセ」-人間の不釣り合い(1) [パンセ]

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パスカルの「パンセ」に、「人間の不釣り合い」(disproportion de l’homme)という出だしで始まる1節がある(B72S230L199)。少し長い節なので、かいつまんで紹介したい。パスカルらしさがよく表れた文章だ。

 

まず、人間が宇宙に目を向けるなら、その無限におののくしかない。「人間は自分自身に立ち返り、存在しているものにくらべて、自分が何であるかを考えてみるがいい。そして自分を、この自然の辺鄙な片隅に迷い込んでいるもののようにみなし、彼がいま住んでいるこの小さな暗い牢獄、私は宇宙の意味で言っているのだが、そこから地球、もろもろの王国、もろもろの町、また自分自身をその正当な値において評価するのを学ぶがいい。無限のなかにおいて、人間とはいったい何なのであろう。」«Que l’homme étant revenue à soi considère ce qu’il est au prix de ce qui est, qu’il se regarde comme égaré dans ce canton détourné de la nature, et que de ce petit cachot où il se trouve logé, j’entends l’univers, il aprenne à estimer la terre, les royaumes, les villes et soi-même, son juste prix. Qu’est-ce qu’un homme, dans l’infini ?»

 

一方、最も微細なものを探求しよう。例えば、一匹のダニだ。ダニ→関節のある足→足の中の血管→血管の中の血→血の中の液→液の中のしずく→しずくの中の蒸気→・・・と分割していき、力尽きてしまうだろう。

 

「このように考えてくる者は、自分自身について恐怖に襲われるであろう。そして自分が、自然の与えてくれた塊のなかに支えられて無限と虚無とのこの2つの深淵の中間にあるのを眺め、その不可思議を前にして恐れおののくであろう。そして彼の好奇心は今や驚嘆に変わり、これらのものを僭越な心でもって探求するよりは、沈黙のうちにそれを打ち眺める気持ちになるだろうと信ずる。」«Qui se considérera de la sorte s’effraiera de soi-même et se considérant soutenu dans la masse que la nature lui a donnée entre ces deux abîmes de l’infini et du néant, il tremblera dans la vue de ses merveilles, et je crois que sa curiosité se changeant en admiration, il sera plus disposé à les contempler en silence qu’à les rechercher avec présomption.»

 

「なぜなら、そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がその中へ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。それなら人間は、事物の原理をも究極をも知ることができないという永遠の絶望のなかにあって、ただ事物の外観を見る以外に、いったい何ができるのであろう。・・・これらの無限をしっかり打ち眺めなかったために、人間は、あたかも自然に対して何らかの釣り合いを持っているかのように、向こう見ずにもその自然の探求へと立ち向かったのである。」«Car enfin qu’est-ce que l’homme dans la nature ? Un néant à l’égard de l’infini, un tout à l’égard du néant, un milieu entre rient et tout, infiniment éloigné de comprendre les extrêmes, la fin des choses et leur principe sont pour lui invinciblement cachés dans un secret impénétrable, également incapable de voir le néant d’où il est tiré et l’infini, où il est englouti. Que fera-t-il donc sinon d’apercevoir quelque apparence du milieu des choses, dans un désespoir éternel de connaître ni leur principe ni leur fin ? ... Manque d’avoir contemplé ces infinis, les hommes se sont portés témérairement à la recherche de la nature, comme s’ils avaient quelque proportion avec elle.»

 

このあと、パスカルはさらに、人間は自分より大きいもの(「無限」)の探求には弱気だが、自分より小さいもの(「虚無」)の探求には強気になりやすいというバイアスがあると指摘した上で、「しかしながら、虚無に達するためには、万有に達するのと少しも劣らない能力を必要とするのである。そのいずれに達するためにも、無限の能力が必要である」と一蹴する。

 

それならば、われわれの限度をわきまえよう。われわれは、なにものかであって、すべてではない。«Connaissons donc notre portée : nous sommes quelque chose et ne sommes pas tout.»

 

写真は、ネパール、カトマンズのヒンドゥー教寺院、パシュパティナートにて。

 

(次回に続く)

 


パスカル「パンセ」-ゴッド・ファーザーの告解と優しい神 [パンセ]

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私は、フランシス・コッポラ監督の映画「ゴッド・ファーザー」(The Godfather)が好きで、これまで何度も繰り返し観ている。ファンの間では、Part I1972年)、Part II1974年)、Part III1990年)のどれが一番好きかよく話題になる。Part IPart IIを推す人が多いようだが、私にはPart IIIも良く、正直言って甲乙丙つけがたい。Part IIIには、アメリカ(あるいは日本)とヨーロッパ(特にイタリア)の比較文化論的な観点から興味深い論点がたくさんある。

 

例えば、映画の中で、イタリア政財界の黒幕、ドン・ルケージ(Don Lucchesi)がこんなことを言っている。

“Finance is a gun. Politics is knowing when to pull the trigger.”(金融とは銃だ。政治とはその引き金をいつ引くかということだ。)日本で金融や政治についてここまで冷徹な目で見ている人間がどれほどいるだろうか。

 

多くの日本人には、カトリックの告解(confessionもあまり馴染みがないだろう。映画の中で、マフィアのボス、マイケル(M)が、ヴァチカンのランベルト司教(L)に慫慂されて告解を行う。

 

M: “Well, I’m beyond redemption.” “What is the point of confessing if I don’t repent?”(私には、神の救済など、思いも及ばないことです。もし私が悔い改めなければ、告解しても意味がないのではありませんか。)

 

L: “I hear you are a practical man. What have you got to lose?”(あなたは実利的な人間だと聞いています。だったら、(告解したからといって)失うものはないでしょう。)

 

M: “I betrayed my wife. I betrayed myself. I killed men. And I ordered men to be killed.” “I killed …I ordered the death of my brother. He injured me. I killed my mother’s son. I killed my father’s son.”(私は妻を裏切りました。自分自身を裏切りました。人を殺しました。そして、人を殺すよう命令しました。私は自分の兄を殺し殺すよう命じました。彼が私に危害を与えたからです。私は母の息子を殺したのです。父の息子を殺したのです。)

 

L: “Your sins are terrible, and it is just that you suffer. Your life could be redeemed, but I know that you don’t believe that. You will not change.”(あなたの罪は恐ろしい。だからあなたは苦しむのです。あなたの人生は救済され得るでしょう。しかし、あなたがそれを信じないこともわかっています。あなたは変わらないでしょう。)

 

「告解」とは何か、パスカルの説明を聞こう。

 

神が、われわれの罪、すなわち、われわれの罪のあらゆる結果と帰結とを、われわれに帰したまわないように。ごく小さいあやまちでも、無慈悲に追及されたら、恐ろしいことになる」B506S569L690)。«Que Dieu ne nous impute pas nos péchés : c’est-à-dire toutes les conséquences et suites de nos péchés, qui sont effroyables des moindres fautes, si on veut les suivre sans miséricorde.»

 

カトリック教は、自分の罪をだれにでも無差別にさらけ出すことを強いはしない。この宗教は、他のすべての人々に隠したままでいることを許容するが、ただし、そこから一人だけを除外する。その一人に対しては、心の底をさらけ出し、自分をあるがままの姿で見せることを命令する。この宗教が、われわれについての誤認を正すべきことを、われわれに命ずるのは、ただ一人の人に対してだけである。しかもその人は、不可侵の秘密としての義務を負わせられているので、彼が持っているこの知識は、彼のなかにありながら、あたかもそこにないのと同じようにされているのである。これ以上愛に富んだ、これ以上やさしい方法を、いったい想像できるだろうか」(B100S743L978«La religion catholique n’oblige pas à découvrir ses péchés indifféremment à tout le monde. Elle souffre qu’on demeure caché à tous les autres hommes ; mais elle en excepte un seul, à qui elle commande de découvrir le fond de son cœur, et de se faire voir tel que l’on est. Il n’y a que ce seul homme au monde qu’elle nous ordonne de désabuser, et elle l’oblige à un secret inviolable, qui fait que cette connaissance est dans lui comme si elle n’y était pas. Peut-on s’imaginer rien de plus charitable et de plus doux ?»

 

*写真は、いずれもローマ、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂にて。

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パスカル「パンセ」-両極端の中間を満たすこと [パンセ]

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これまで言わなかったが、私がパスカルの「パンセ」をちゃんと読んでみようと思ったのは、つぎの一節がきっかけだった。何気なく日本語訳の文庫本のページをパラパラとめくっていたら、偶然目にとまったのだ。

 

人がその偉大さを示すのは、一つの極端にいることによってではなく、両極端に同時に届き、その中間を満たすことによってである。だが、それも両極端の一方から他方への魂の急激な運動にすぎないのかもしれない。そして燃えさしの薪のように、魂も現実には一点にしかいないのかもしれない。それなら、それでよい。だが、そのことは、魂の広さのしるしにはならないまでも、すくなくともその敏捷さのしるしにはなるのだ」(B353S560L681)。«On ne montre pas sa grandeur pour être à une extrémité, mais bien en touchant les deux à la fois et remplissant tout l’entre-deux. Mais peut- être que ce n’est qu’un soudain mouvement de l’âme de l’un à l’autre de ces extrêmes et qu’elle n’est jamais en effet qu’en un point, comme le tison de feu. Soit, mais au moins cela marque l’agilité de l’âme, si cela n’en marque l’étendue.»

 

そのころ(2008年頃)、私は自由と平等とか、正義とは何かとか、えらく抽象的なことに頭を悩ませていた。経済学とか、労働経済学とか、自分の専門分野の問題に関し、何らか確かなことを言おうとするなら、畢竟こうした抽象的な理念に関し、自分のスタンスを決めなければならないと思い詰めていたのだ。

 

だが、同時に、ある特定のスタンス(たぶん、イデオロギーと言ってもよい)を選ぶことは難しいとも感じていた。例えば、自由と平等を取り上げよう。いずれも多義的な言葉で議論が拡散しやすいが、ここでは単純に、「自由」とは個人が自ら好きなことを考え、実行できることだとしよう。また、「平等」とは、個人が行動する上での初期条件なり、行動した結果なりが、相互に等しいことだとしよう。

 

ちょっと考えればわかることだが、現実の世界では、このような意味における「自由」も「平等」もあり得ない。ある個人の自由な行動は、しばしば他の個人の自由を奪う。人のDNAの配列がみんな異なる以上、初期条件の平等はあり得ないし、結果の平等を実現しようと思えば自由に対する制約が不可避だ。結局、われわれがなし得るのは、なにがしか「自由」で、なにがしか「平等」な社会をどう定義し、実現するかといったことでしかない。

 

そう考えると、パスカルが言う「両極端に同時に届き、その中間を満たすこと」という言葉は、実に深く重い。私は、両極端のいずれかを選ばなければならないといった呪縛からは解放されたが、両極端の中間をどう満たすかという新たな難問を背負ってしまったようである。

 

*冒頭の写真は、フランス、サン・マロにてイギリス海峡を臨む。

 


パスカル「パンセ」-知的誠実さ、ということ [パンセ]

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前回のブログ記事(510日、「フランス大統領選-2つの「成長戦略」」)では、スタンフォードの経済学者、ジョン・マクミランの次の言葉を引用して、「知的誠実さ」が出ていると評した。

 

「ショック療法という処方は、改革事業を著しく過小評価している。経済は複雑で、予測しがたいシステムである。皮肉なことに、ショック療法はそれ以前の国家統制と同様に、経済が実際にそうであるよりも管理に適したものであることを前提としている。・・・経済全体の設計は単一市場の設計とは異なるものである。経済全体の設計においては、どこに向かおうとしているのかも分からないし、どのようにそこに行き着くのかも分からないのである」(『市場を創る』NTT出版、2007年、p. 282)。

 

パスカルも「パンセ」の中で、自然現象にせよ、社会現象にせよ、一部から全体を語ろうとするなら、よほど慎み深くならなければならない、と語っている。慎み深くなりすぎて何も言えないのも問題だが、少なくとも学者やクオリィティー・ペーパーの記者が扇情的なことを書いたり、言ったりするのは論外だ。

 

「あらゆるものは、われわれに有益につくられたものでも、われわれに致命的となりうる。たとえば、自然の世界では、壁はわれわれを殺しうるし、階段も踏みはずせば、われわれを殺しうる」B505S756L927)。«Tout nous peut être mortel, même les choses faites pour nous servir, comme dans la nature les murailles peuvent nous tuer, et les degrés nous tuer, si nous n’allons avec justess.»

 

「ごく小さい運動も全自然に影響する。大海も一つの石で変動する。そのように、恩恵の世界でも、ごく小さい行為がその結果をすべてのものに及ぼす。ゆえに、すべてのものが重要である」(B505S756L927)。«Le moindre mouvement importe à toute la nature : la mer entière change pour une pierre. Ainsi dans la grâce la moindre action importe pour ses suites à tout, donc tout est important.»

 

「どんな行為でも、行為そのもののほかに、われわれの現在、過去、未来の状態と、それが影響して起こる他の状態とを観察し、すべてそれらのものの関係を見なければならない。そうすれば、人はよほど慎みぶかくなるだろう」(B505S756L927)。«En chaque action il faut regarder, outre l’action, à notre état présent, passé, futur, et des autres, à quoi elle importe, et voir les liaisons de toutes ces choses. Et lors on sera bien retenu.»

 

*写真は、パスカルの生地、クレルモン・フェランにあるノートルダム・デュ・ポールバジリカ聖堂。

 


パスカル「パンセ」-民衆の愚かさと弱さ [パンセ]

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フランス大統領選挙におけるFN(国民戦線)の躍進、日本における二大政党の閉塞感やH新党の動き、OZ裁判を巡る権力闘争など、政治の世界が騒がしい。政治について「パンセ」は何を言っているか。取りあえず、次の2つを引用しておきたい。

 

「王たちの権力は、民衆の理性と愚かさとの上に基礎を置いている。そしてずっと多く愚かさの上にである。この世で最も偉大で重要なものが、弱さを基礎としている。そしてこの基礎は、驚くばかり確実である。なぜなら、それ以上のこと、すなわち民衆は弱いであろうという以上のことはないからである。健全な理性の上に基礎を置いているものは、はなはだ基礎が危い。たとえば知恵の尊重などがそれである」(B330S60L26)。«La puissance des rois est fondée sur la raison et sur la folie du peuple, et bien plus sur la folie. La plus grande et importante chose du monde a pour fondement la faiblesse. Et ce fondement-là est admirablement sûr, car il n’y a rien de plus sûr que cela que le peuple sera faible. Ce qui est fondé sur la saine raison est bien mal fondé, coome l’estime de las sagesse.»

 

「圧制とは、自分の次元をこえて全般的に支配しようと欲するところに成り立つ。強いもの、美しいもの、賢いもの、敬虔なものは、それぞれ異なった部面を持ち、おのおの自分のところで君臨しているが、他のところには君臨していない。そして、時おり彼らはぶつかり、強いものと美しいものとが、愚かにもどちらが相手の主人になるかと戦う。なぜなら、彼らの支配権は、類を異にしているのだからである。彼らは互いに理解しない。そして彼らの誤りは、あらゆるところに君臨しようと欲することにある。何ものにも、そんなことはできない。力にだってできはしない。力は学者の王国では、何もできない。力は外的な行動においてしか主人でない」B332S92L58)。«La tyrannie consiste au désir de domination universel et hors de son ordre. Diverses chambres, de forts, de beaux, de bons esprits, de pieux, dont chacun règne chez soi, non ailleurs, et quelquefois ils se rencontrent. Et le fort et le beau se battent sottement à qui sera le maître l’un de l’autre, car leur maîtrise est de divers genre. Ils ne s’entendent pas. Et leur faute est de vouloir régner partout. Rien ne le peut, non pas même la force. Elle ne fait rien au royaume des savants. Elle n’est maîtresse que des actions extérieures.»

 

*冒頭の写真は、2012427日付Le Monde紙の20面、«Ce que révèle l’essor du Front national»FNの飛躍が明らかにしたこと)という記事にあった挿絵。その中に«un pavé dans la mare...»(直訳は「池の中の石畳道路」。「青天の霹靂」を意味する比喩表現)とある。

 


パスカル「パンセ」-人間の二重性 [パンセ]

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本ブログの記事、「ローザンヌ-オリンピックの首都」(201247日付)、「スイス銀行」(2012413日付)では、美しい国の気高い国民の打算的な行動について語った。正直、書くのは気が重かったが、これをスイス人批判と受け取ってほしくない。おそらく、どの国の国民も程度の差はあれ、こうした多面性があるはずだ。そして、それはそもそも人間が生き延びていくための「知恵」に根ざしているのであろう。

 

久しぶりに、『パンセ』から引用したい。

 

「人間の本性は、二通りに考察される。一つは、その目的においてであり、その場合は偉大で比類がない。他は、多数のあり方においてであり、たとえば人が馬や犬の本性を、走ることや、<近よせぬ心>(訳注:番犬の本能を指している)を取り上げて、その多数のあり方において判断するような場合である。その場合は、人間は下賤で卑劣である」(B415S160L127)。«La nature de l’homme se considère en deux manières. L’une selon sa fin, et alors il est grand et incomparable. L’autre selon la multitude, comme on juge de la nature du cheval et du chien par la multitude, d’y voir la course ET ANIMUM ARCENDI <et la disposition à écarter> ; et alors l’homme est abject et vil.»

 

「人間のこの二重性はあまりにも明白なので、われわれには二つの魂があると考えた人たちがあるほどである。彼らには、度はずれた思い上がりから恐ろしい落胆にまで至る、こんなに、そして急激な変化が、単一の主体に起こりうるとは思えなかったのである。」(B417S522L629)。«Cette duplicité de l’homme est si visible qu’il y en a qui ont pensé que nous avions deux âmes. Un sujet simple leur paraissant incapable de telles et si soudaines variétés : d’une présomption démesurée à un horrible abattement de cœur.»

 

「人間に対して、彼の偉大さを示さないで、彼がどんなに獣に等しいかをあまり見せるのは危険である。卑しさ抜きに彼の偉大さをあまり見せるのもまた危険である。どちらも知らせないのは、また更にもっと危険である。だが、彼にどちらをも提示してやるのはきわめて有益である。人間が獣と等しいと信じてもいけないし、天使と等しいと信じてもいけないし、どちらをも知らないでいてもいけない。そうではなく、どちらをも知るべきである。」(B418S153/154L121)。«Il est dangereux de trop faire voir à l’homme combien il est égal aux bêtes, sans lui montrer sa grandeur. Et il est encore dangereux de lui trop faire voir sa grandeur sans sa bassesse. Il est encore plus dangereux de lui laisser ignorer l’un et l’autre, mais il est très avantageux de lui représenter l’un et l’autre.» «Il ne faut pas que l’homme croie qu’il est égal aux bêtes ni aux anges, ni qu’il ignore l’un et l’autre, mais qu’il sache l’un et l’autre.»

 

*写真は、イタリア、ヴェネツィアにて。この街は、ガラス製品や仮面でも有名だ。

 


パスカル「パンセ」-時は全てを癒やすか? [パンセ]

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「時は、苦しみや争いを癒す。なぜなら人は変わるからである。もはや同じ人間ではない。侮辱した人も、侮辱された人も、もはや彼ら自身ではないのである。それはちょうど、かつて怒らせた国民を、二世代たって再び見るようなものである。彼らは依然としてフランス人ではあるが、しかし同じフランス人ではない」(B122S653L802)。«Le temps guérit les douleurs et les querelles, parce qu’on change : on n’est plus la même personne ; ni l’offensant, ni i’offensé ne sont plus eux-mêmes. C’est comme un peuple qu’on a irrité et qu’on reverrait après deux générations : ce sont encore les Français, mais non les mêmes.»

 

パスカルのこの1節を読んだとき、半分以上は同意したが、全面的に同意してよいものかどうか、正直迷った。時間の経過は、確かに辛い体験を記憶の奥底に追いやってくれる。そうしないと日々生きていくことはできないからだ。しかし、辛い記憶は単に沈殿しているだけであって、消え去ってしまったわけではない。そして、それは一人の個人の中でのみならず、世代間でも引き継がれていくことがある。パールハーバーで、南京で、広島で、沖縄で・・・。

 

私は、ふだんテレビドラマはほとんど見ないのだが、TBSの「運命の人」を3週間前にたまたま見て以来、今日の最終回まで観た。松たか子がよかったし、ストーリー、構成の妙にも思わず引き込まれてしまった。今日のテーマは、過去の体験といかに向き合うかということだった。何度か不覚にも涙があふれ、この記事を書く気になった。パスカルは単純すぎる、と。


パスカル「パンセ」-宗教 [パンセ]

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「パンセ」は「キリスト教弁証論」の書である。その半分近くは、それなりの人生経験があって「考える」ことを厭わなければ十分堪能できるが、残り半分強は、宗教心(とりわけキリスト教のそれ)に乏しい私などは「ついて行けない」と感じることも多い。例えば、つぎのような一節だ。

 

「もし人が、尊大と野心と邪欲と弱さと悲惨と不正とに自分が満ちていることを知らなかったら、彼はよほどの盲人である。またもし知っていながら、それから救われることを願わないならば、そういう人についてなんと言うべきであろうか。そうだとしたら、人は人間の欠点をかくもよく知っている宗教を尊敬するほかに、またそれに対してかくも望ましい救治法を約束する宗教の真理を求めるほかに、何をなしえるであろうか」(B450S491L595)。«Si l’on ne se connaît plein de superbe, d’ambition, de concupiscence, de faiblesse, de misère et d’injustice, on est bien aveugle. Et si, en le connaissant, on ne désire d’en être délivré, que peut-on dire d’un homme... ? Que peut-on donc avoir que de l’estime pour une religion qui connaît si bien les défauts de l’homme, et que du désir pour la vérité d’une religion qui y promet des remèdes si souhaitables ?»

 

しかし、「パンセ」のこうした記述への違和感にも関わらず、ヨーロッパを旅するとき、私はしばしば教会を訪ね、そこにたたずんだ。宗教心に乏しく、いわんやキリスト者でもないのに不思議だ。

 

*写真は、フランス、ナントのサン・ピエール・サン・ポール大聖堂にて。

 


パスカル「パンセ」-人は憎みあうもの [パンセ]

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パスカルはときに絶望的にまで悲観的な人間観を述べる。そして、それをリアルだと感じてしまう自分がいる。

 

「すべての人は生来たがいに憎みあうものである。人は邪欲を公共の福祉に役立たせようとして、できるだけ利用した。だが、それは見せかけにすぎない、愛の虚像に過ぎない。実のところ、それは憎しみにほかならないのだから」(B451S243L210)。«Tous les hommes se haïssent naturellement l’un l’autre. On s’est servi comme on a pu de la concupiscence pour la faire servir au bien public. Mais ce n’est que feindre et une fausse image de la charité. Car au fond ce n’est que haine.»

 

フランス語のfraternité(友愛、博愛)は、自由(liberté)、平等(égalité)と並んでフランスの有名なスローガンだし、solidarité(連帯、団結)という言葉も頻繁に使われる。日本の昨年の「流行語大賞」の中にも「絆」(lien)があった。私は、こうした言葉が嫌いではないが、あまりにしつこく連呼されると、われわれがそうした資質をそもそも欠いていることの謂ではないかと、勘ぐりたくなってしまう。

 

しばらく前に、時の総理大臣が「友愛」という言葉をキャッチフレーズに使っていた。当時、私はパリに住んでいたが、ネットで読んだ日本の新聞(確かS新聞だったと思う)の論説記事でそのことを取り上げて曰く、「友愛などという甘っちょろい態度は厳しい外交の世界では通用しない。そもそも友愛などという日本語は英語に翻訳できない、・・・」(直接引用ではなく、記憶に基づく大意)。前段は私も多かれ少なかれ同意する。しかし後段にはちょっと驚いた。普通に考えれば、友愛というのは、そもそも英語のfraternity(仏語ではfraternité)の翻訳語だ。語源はラテン語の「兄弟愛」である。さらに突っ込みを入れるなら、この(元)総理大臣は兄弟揃って国会議員をしているが、お互いあんまり仲がよくないらしい(笑)。言葉が軽くなっている。

 

*写真は、フランス、ナントのブルターニュ大公城の博物館に展示されている18世紀終わりの黒人奴隷貿易(la traite des noirs)で使われた鎖(entrave)。ナントはかつて三角貿易(ヨーロッパ→アフリカ→アメリカ→ヨーロッパ)のヨーロッパ側の拠点港の一つとして栄えた。

 

 


パスカル「パンセ」-考えることの偉大さと愚かさ、そして愚かさを知ることの偉大さ [パンセ]

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「考えが人間の偉大さをつくる」(B346S628L759)。«Pensée fait la grandeur de l’homme.»というのが、パスカルの基本的な思想だ。しかし、彼は「考える」ことが手放しで素晴らしいとは言わない。

 

「人間の尊厳のすべては、考えのなかにある。だが、この考えとはいったい何だろう。それはなんと愚かなものだろう。・・・考えとは、その本性からいって、なんと偉大で、その欠点からいって、なんと卑しいものだろう」(B365S626L756)。«Toute la dignité de l’homme est en la pensée. Mais qu’est-ce que cette pensée ? Qu’elle est sotte ? ... Qu’elle est grande par sa nature, qu’elle est basse par ses défauts.»

 

そして、逆説的だが、こうした愚かさ、惨めさを知ること自体が、人間の偉大さの証であるという。

「人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である。樹木は自分の惨めなことを知らない」(B397S146L114)。«La grandeur de l’homme est grande en ce qu’il se connaît misérable. Un arbre ne se connaît pas misérable.»

 

「人間の偉大さは、その惨めさからさえ引き出されるほどに明白である。なぜならわれわれは、獣においては自然なことを、人間においては惨めさと呼ぶからである」(B409S149L117)。«La grandeur de l’homme est si visible qu’elle se tire même de sa misère. Car ce qui est nature aux animaux, nous l’appelons misère en l’homme.»

 

パスカルは、ある事象(この場合は「考える」)をつねに複眼的に見ようとしている。私が「パンセ」に惹かれる理由の一つだ。

 

*写真は、フランス、クレルモン・フェランのパスカル通りにて。

 

 


パスカル「パンセ」-固定点の役割 [パンセ]

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「すべてが一様に動くときには、船の中のように、見たところ何も動かない。みなが放縦のほうへ向かって行くときには、だれもそちらに向かって行くように見えない。立ち止まった者が、固定点の役割をして、他の人たちの行き過ぎを認めさせる」(B382S577L699)。«Quand tout se remue également, rien ne se remue en apparence, comme en un vaisseau. Quand tous vont vers le débordement, nul n’y semble aller : celui qui s’arrête fait remarquer l’emportement des autres, comme un point fixe. »

 

「反対があるということは、真理を見分けるよいしるしではない。多くの確かなことが反対されている。多くの嘘が、反対なしにまかり通っている。反対のあることが嘘のしるしでもなければ、反対のないことが真理のしるしでもない」(B384S208L177)。«Contradiction est une mauvaise marque de vérité. Plusieurs choses certaines sont contredites. Plusieurs fausses passent sans contradiction. Ni la contradiction n’est marque de fausseté ni l’incontradiction n’est marque de vérité.»

 

上の「パンセ」の指摘は、いずれも、とても深く重いと思う。

 

3.11」から1年、マスコミは今ごろになってようやく政府の原発事故対応を批判する報道や論評で喧(かまびす)しい。しかし、1年前はどうだったか。政府の「大本営発表」は「ただちに影響はない」の一点張り、テレビに登場する「専門家」たちも、多くがそうした見方を是認していた。小出裕章氏のような「固定点」は大手マスコミからは黙殺されていた。記者会見等の場で、「原子炉は冷却できているのか、できていないのならメルトダウンは当然の帰結ではないか。なぜその可能性を否定するのか」、「SPEEDIというシステムがあるはずだが、その予測結果はどうなっているのか」などと追及したジャーナリストはいなかったのか。いたけれど、上層部に握りつぶされて、報道できなかったのか。いずれにせよ情けない話だ。

 

およそインテリたる者(自ら当事者としては行動しないが、その知識や思考によって世の中へ貢献することが期待されている者。そして、そうしたサービスによって禄を食んでいる者)、つねに、冒頭に引用したパスカルの言を胸に刻み込んでおくべきである。

 

*写真は、フランスのマルセイユ旧港を少し出た沖合に浮かぶヨット。

 


パスカル「パンセ」-壁 [パンセ]

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「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである」(B183S198L166)。«Nous courons sans souci dans le précipice après que nous avons mis quelque chose devant nous pour nous empêcher de le voir.»

 

「小さなことに対する人間の感じやすさと、大きなことに対する人間の無感覚とは、奇怪な転倒のしるしである」(B198S525L632)。«La sensibilité de l’homme aux petites choses et l’insensibilité aux plus grandes choses: marque d’un étrange renversement.»

 

われわれは、しばしば壁を作る。「ベルリンの壁」は物理的な壁の例だ。その目的は人の移動を制限することにあったが、同時に相手を見ないようにする、知らないようにする、なきものと扱う・・・といった含意を伴った。「壁を作る」というのは、何も物理的な壁に限られない。心理的な壁もある。嫌なことは見ないことにする、知らないことにする、そんなことはあり得ないと考える・・・。

 

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恥ずかしながら私は、20113月の福島第1原発の事故があってはじめて、いわゆる「原子力ムラ」の実態を知るに至った。そして、知れば知るほど「壁」の功罪を考えさせられた。短期的には「功」が勝るかもしれないが、長期的にはおそらく「罪」が勝るということも。

 

*写真はいずれも「ベルリンの壁」。


パスカル「パンセ」-恋愛 [パンセ]

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パスカルの「パンセ」で、「考える葦」と並んでよく知られた名句に、「クレオパトラの鼻がもっと短かったなら、世界の歴史は変わっていただろう」というのがある。これは、彼が人間のむなしさとして、恋愛(正確には、その原因と結果)を引き合いに出した中に登場する。

 

「人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。原因は、«私にはわからない何か»(コルネイユ)であり、その結果は恐るべきものである。この«私にはわからない何か»、人が認めることができないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界を揺り動かすのだ。クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう」(B162S32L413)。

 

«Qui voudra connaître à plein la vanité de l’homme n’a qu’à considérer les causes et les effets de l’amour. La cause en est un Je ne sais quoi. Corneille. Et les effets en sont effroyables. Ce Je ne sais quoi, si peu de chose qu’on ne peut le reconnaître, remue toute la terre, les princes, les armées, le monde entier. Le nez de Cléopâtre s’il eût été plus court toute la face de la terre aurait changé.»

 

恋愛の原因はわけがわからない、しかし、その結果はとんでもない、というわけだ。なるほど。さらに付け加えるなら、結果が恐るべきというのは、何も王様など高位の身分に限られない。世の片隅の凡人とて同様である。これに関しては、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』にあるつぎの言を引用しておこう。

 

「精神の目は、人間の心の中より以上に、まぶしさも暗さも見つけることができない。またこれ以上、恐ろしくて、複雑で、神秘で、無限なものを凝視することもできない。海よりも大きなながめがある。それは空である、空より大きなながめがある、それは魂の内部である。」「人間の意識を詩にする、それがただ一人の人間についてであろうと、最も卑しい人間についてであろうと、そうすることはあらゆる叙事詩を、すぐれた、決定的な叙事詩にまで仕上げるだろう」(第1部、第73。佐藤朔 訳、新潮文庫

 

«L’œil de l’esprit ne peut trouver nulle part plus d’éblouissements ni plus de ténèbres que dans l’homme ; il ne peut se fixer sur aucune chose qui soit plus redoutable, plus compliquée, plus mystérieuse et plus infinie. Il y a un spectacle plus grand que la mer, c’est le ciel ; il y a un spectacle plus grand que le ciel, c’est l’intérieur de l’âme.» «Faire le poème de la conscience humaine, ne fût-ce qu’à propos d’un seul homme, ne fût-ce qu’à propos du plus infime des hommes, ce serait fondre toutes les épopées dans une épopée supérieur et définitive.»

 

*写真は、フランス、ボーヌのワイン博物館入口付近にて。つがいのハトはずっと嘴をつつき合っていた。考えないハトは考える人間より幸せかもしれない。

 


パスカル「パンセ」-考える葦 [パンセ]

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「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを務めよう。ここに道徳の原理がある」(B347S231232L200)。

 

«L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant. Il ne faut pas que l’univers entier s’arme pour l’ écraser, une vapeur, une goutte d’eau suffit pour le tuer. Mais quand l’univers l’écraserait, l’homme serait encore plus noble que ce qui le tue, puisqu’il sait qu’il meurt et l’avantage que l’univers a sur lui. L’univers n’en sait rien. Toute notre dignité consiste donc en la pensée. C’est de là qu’il faut nous relever, et non de l’espace et de la durée, que nous ne saurions remplir. Travaillons donc à bien penser. Voilà le principe de la morale.»

 

人間から「考える」ことを奪ったら、獣と同じだという。

「私は、考えない人間を思ってみることができない。そんなものは、石か獣であろう」B339S143L111«je ne puis cocevoir l’homme sans pensée. Ce serait une pierre ou une brute.»

 

ただ、それは人間に本来宿る獣性を認めることでもある。

「人間は、本来、<全くの動物>である」(B942S545L664)。«L’homme est proprement omne animal

 

また、「考える」と言っても、コンピューターは人間ではないという。

「計算器は、動物の行なうどんなことよりも、いっそう思考に近い結果を出す。だが、動物のように、意志を持っていると人に言わせるようなことは何もしない」(B340S617L741)。«La machine d’arithmétique fait des effets qui approchent plus de la pensée que tout ce que font les animaux. Mais elle ne fait rien qui puisse faire dire qu’elle a de la volonté, comme les animaux.»

 

人間を人間たらしめる「考える」とは何か、これから追々考えていきたい。

 

*本ブログでは、『パンセ』の日本語訳は前田陽一、由木康(訳)、中公文庫(1973年)、フランス語版はBordas社の«Classiques Garnier»シリーズ(1991年)による。『パンセ』は完成された著作ではなく、パスカルが遺した原稿を後代の者が編纂したものである。このため、その編集方針により、原稿の配置順序等が異なる複数のヴァージョンが存在する。中公文庫は、いわゆるBrunschvicg版を採用しており、フランス語版はSellier版を採用している。このほか、Lafuma版もしばしば使われる。引用文の後にあるBSLは、それぞれこれら異なるヴァージョンに対応した配列番号である。


ブログ開設にあたって [パンセ]



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かなり前からブログというサービスがあることは知っていたが、自ら始める気にはなれなかった。いわんや今流行っているFacebooktwitterなどに手を出す気はない。ただ、このごろブログならいいかなという気になってきた。

200810年の2年間、ヨーロッパに滞在したが、その間、日本のニュースはしばしばブログから得ていた。内容は千差万別だが、いくつか情報源として有用だったり、深く考えさせたりするものがあった。また、日本に帰国後、自分自身がヨーロッパで見たこと、感じたこと、考えたこと、そして数多の写真を記録として残しておきたいという気にもなった。もとより、日記やメモを残すといった几帳面な性格ではなく、記憶違いや誤解も多々あると思うが、それはそれとしてご寛恕いただきたい。

ブログのタイトルは«mes pensées»とする。かのパスカルの«Les Pensées»(『パンセ』)をもじったものだが、それとは比べるべくもない。小文字の「私の雑感」といった程度の気持ちである。

*写真は、パスカルの生地、フランス、クレルモン・フェランのカテドラルにて。ろうそくの寓意はパスカルのつぎの言による。「次のいろいろの仮定のどれに従うかによって、この世でそれぞれ違った生き方をしなければならない。一、この世にいつまでもいられる場合。五、この世に長くはいないことは確かで、一時間いられるかどうかも不確かである場合。この最後の仮定こそ、われわれの場合である」(『パンセ』B237S187L154)。




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