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パスカル「パンセ」-川の流れ(1) [パンセ]

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このごろ歳のせいか、『方丈記』の冒頭の一節をときどき思い浮かべたり、その他の箇所をパラパラと拾い読みしたりしている。「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し。」

 

『パンセ』にも河を題材にした一節がある。

 

バビロンの川は流れ、くだり、巻き込む。

――

ああ聖なるシオンの都よ、そこでは、すべてのものがとどまり、何ものもくずれることはない。われわれは川の上にすわらなければならない。下でも、中でもなく、上に。また立っていないで、すわらなければならない。すわるのは、謙虚であるため、上にいるのは、安全であるために。だが、エルサレムの城門では立ち上がるであろう。

――

その快楽がとどまるか流れるかを見よ。もし過ぎ去るならば、それはバビロンの川である」(B459S748L918)。

«Les fleuves de Babylone coulent, et tombent, et entraînent.

――

Ô sainte Sion, où tout est stable, et où rien ne tombe!

――

Il faut s’asseoir sur ces fleuves, non sous ou dedans, mais dessus, et non debout, mais assis, pour être humble étant assis, et en sûreté étant dessus. Mais nous serons debout dans les porches de Jérusalem.

――

Qu’on voie si ce plaisir est stable ou coulant ! S’il passe, c’est un fleuve de Babylone.»

 

残念ながら、それなりの予備知識がないと、この一節の意味はよくわからない。まず、前田陽一、由木康(訳)の中公文庫版の注によると、「聖なるシオン、天のエルサレムが神の国の表徴であるのに対して、バビロンの川は世俗の表徴である。」

 

さらに言えば、この喩えは、『旧約聖書』の「詩編」第137節にさかのぼる。

「(1バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。

2)竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。

3)わたしたちを捕囚にした民が 歌をうたえと言うから わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして 「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

4)どうして歌うことができようか 主のための歌を、異境の地で。

5)エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手はなえるがよい。

6)私の舌は上顎にはり付くがよい もしも、あなたを思わぬときがあるなら もしも、エルサレムを わたしの最大の喜びとしないなら。

7)主よ、覚えていてください エドムの子らを エルサレムのあの日を 彼らがこう言ったのを 「裸にせよ、裸にせよ、この都の基(もとい)まで。」

8)娘バビロンよ、破壊者よ いかに幸いなことか お前がわたしたちにした仕打ちを お前に仕返す者

9)お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」

 

旧約聖書では、バビロンに囚われの身となったイスラエル人が(いわゆる「バビロン捕囚」)、「バビロンの流れのほとりに座」って、エルサレムへの望郷の念に強く苛まれているさまを謳っている。しかし、「パンセ」では、エルサレムへ戻るために、バビロンの「川の上にすわらなければならない」としている。これはどうしたことか。

 

(次回に続く)

 

*写真は、スイス、ベルンの市街を取り巻くように流れるアーレ川の川面。

 


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