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パスカル「パンセ」-両極端の中間を満たすこと [パンセ]

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これまで言わなかったが、私がパスカルの「パンセ」をちゃんと読んでみようと思ったのは、つぎの一節がきっかけだった。何気なく日本語訳の文庫本のページをパラパラとめくっていたら、偶然目にとまったのだ。

 

人がその偉大さを示すのは、一つの極端にいることによってではなく、両極端に同時に届き、その中間を満たすことによってである。だが、それも両極端の一方から他方への魂の急激な運動にすぎないのかもしれない。そして燃えさしの薪のように、魂も現実には一点にしかいないのかもしれない。それなら、それでよい。だが、そのことは、魂の広さのしるしにはならないまでも、すくなくともその敏捷さのしるしにはなるのだ」(B353S560L681)。«On ne montre pas sa grandeur pour être à une extrémité, mais bien en touchant les deux à la fois et remplissant tout l’entre-deux. Mais peut- être que ce n’est qu’un soudain mouvement de l’âme de l’un à l’autre de ces extrêmes et qu’elle n’est jamais en effet qu’en un point, comme le tison de feu. Soit, mais au moins cela marque l’agilité de l’âme, si cela n’en marque l’étendue.»

 

そのころ(2008年頃)、私は自由と平等とか、正義とは何かとか、えらく抽象的なことに頭を悩ませていた。経済学とか、労働経済学とか、自分の専門分野の問題に関し、何らか確かなことを言おうとするなら、畢竟こうした抽象的な理念に関し、自分のスタンスを決めなければならないと思い詰めていたのだ。

 

だが、同時に、ある特定のスタンス(たぶん、イデオロギーと言ってもよい)を選ぶことは難しいとも感じていた。例えば、自由と平等を取り上げよう。いずれも多義的な言葉で議論が拡散しやすいが、ここでは単純に、「自由」とは個人が自ら好きなことを考え、実行できることだとしよう。また、「平等」とは、個人が行動する上での初期条件なり、行動した結果なりが、相互に等しいことだとしよう。

 

ちょっと考えればわかることだが、現実の世界では、このような意味における「自由」も「平等」もあり得ない。ある個人の自由な行動は、しばしば他の個人の自由を奪う。人のDNAの配列がみんな異なる以上、初期条件の平等はあり得ないし、結果の平等を実現しようと思えば自由に対する制約が不可避だ。結局、われわれがなし得るのは、なにがしか「自由」で、なにがしか「平等」な社会をどう定義し、実現するかといったことでしかない。

 

そう考えると、パスカルが言う「両極端に同時に届き、その中間を満たすこと」という言葉は、実に深く重い。私は、両極端のいずれかを選ばなければならないといった呪縛からは解放されたが、両極端の中間をどう満たすかという新たな難問を背負ってしまったようである。

 

*冒頭の写真は、フランス、サン・マロにてイギリス海峡を臨む。

 


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