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パスカル「パンセ」-人間の不釣り合い(1) [パンセ]

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パスカルの「パンセ」に、「人間の不釣り合い」(disproportion de l’homme)という出だしで始まる1節がある(B72S230L199)。少し長い節なので、かいつまんで紹介したい。パスカルらしさがよく表れた文章だ。

 

まず、人間が宇宙に目を向けるなら、その無限におののくしかない。「人間は自分自身に立ち返り、存在しているものにくらべて、自分が何であるかを考えてみるがいい。そして自分を、この自然の辺鄙な片隅に迷い込んでいるもののようにみなし、彼がいま住んでいるこの小さな暗い牢獄、私は宇宙の意味で言っているのだが、そこから地球、もろもろの王国、もろもろの町、また自分自身をその正当な値において評価するのを学ぶがいい。無限のなかにおいて、人間とはいったい何なのであろう。」«Que l’homme étant revenue à soi considère ce qu’il est au prix de ce qui est, qu’il se regarde comme égaré dans ce canton détourné de la nature, et que de ce petit cachot où il se trouve logé, j’entends l’univers, il aprenne à estimer la terre, les royaumes, les villes et soi-même, son juste prix. Qu’est-ce qu’un homme, dans l’infini ?»

 

一方、最も微細なものを探求しよう。例えば、一匹のダニだ。ダニ→関節のある足→足の中の血管→血管の中の血→血の中の液→液の中のしずく→しずくの中の蒸気→・・・と分割していき、力尽きてしまうだろう。

 

「このように考えてくる者は、自分自身について恐怖に襲われるであろう。そして自分が、自然の与えてくれた塊のなかに支えられて無限と虚無とのこの2つの深淵の中間にあるのを眺め、その不可思議を前にして恐れおののくであろう。そして彼の好奇心は今や驚嘆に変わり、これらのものを僭越な心でもって探求するよりは、沈黙のうちにそれを打ち眺める気持ちになるだろうと信ずる。」«Qui se considérera de la sorte s’effraiera de soi-même et se considérant soutenu dans la masse que la nature lui a donnée entre ces deux abîmes de l’infini et du néant, il tremblera dans la vue de ses merveilles, et je crois que sa curiosité se changeant en admiration, il sera plus disposé à les contempler en silence qu’à les rechercher avec présomption.»

 

「なぜなら、そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がその中へ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。それなら人間は、事物の原理をも究極をも知ることができないという永遠の絶望のなかにあって、ただ事物の外観を見る以外に、いったい何ができるのであろう。・・・これらの無限をしっかり打ち眺めなかったために、人間は、あたかも自然に対して何らかの釣り合いを持っているかのように、向こう見ずにもその自然の探求へと立ち向かったのである。」«Car enfin qu’est-ce que l’homme dans la nature ? Un néant à l’égard de l’infini, un tout à l’égard du néant, un milieu entre rient et tout, infiniment éloigné de comprendre les extrêmes, la fin des choses et leur principe sont pour lui invinciblement cachés dans un secret impénétrable, également incapable de voir le néant d’où il est tiré et l’infini, où il est englouti. Que fera-t-il donc sinon d’apercevoir quelque apparence du milieu des choses, dans un désespoir éternel de connaître ni leur principe ni leur fin ? ... Manque d’avoir contemplé ces infinis, les hommes se sont portés témérairement à la recherche de la nature, comme s’ils avaient quelque proportion avec elle.»

 

このあと、パスカルはさらに、人間は自分より大きいもの(「無限」)の探求には弱気だが、自分より小さいもの(「虚無」)の探求には強気になりやすいというバイアスがあると指摘した上で、「しかしながら、虚無に達するためには、万有に達するのと少しも劣らない能力を必要とするのである。そのいずれに達するためにも、無限の能力が必要である」と一蹴する。

 

それならば、われわれの限度をわきまえよう。われわれは、なにものかであって、すべてではない。«Connaissons donc notre portée : nous sommes quelque chose et ne sommes pas tout.»

 

写真は、ネパール、カトマンズのヒンドゥー教寺院、パシュパティナートにて。

 

(次回に続く)

 


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