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パスカル「パンセ」-世襲の王と選挙で選ばれる「神の代理人」 [パンセ]

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パスカルは、世襲で引き継がれる世俗の王に関し、皮肉たっぷりにつぎのように書いている。

 

「世の中で最も不合理なことが、人間がどうかしているために、最も合理的なこととなる。一国を治めるために、王妃の長男を選ぶというほど合理性に乏しいものがあろうか。人は、船の舵をとるために、船客のなかでいちばん家柄のいい者を選んだりはしない。そんな法律は、笑うべきであり、不正であろう。ところが、人間は笑うべきであり、不正であり、しかも常にそうであろうから、その法律が合理的となり、公正となるのである。なぜなら、いったいだれを選ぼうというのか。最も有徳で、最も有能な者をであろうか。そうすれば、各人が、自分こそその最も有徳で有能な者だと主張して、たちまち戦いになる。だから、もっと疑う余地のないものにその資格を結びつけよう。彼は王の長男だ。それははっきりしていて、争う余地がない。理性もそれ以上よくはできない。なぜなら、内乱こそ最大の災いであるからである」(B3202S786L977)。

 

«Les choses du monde les plus déraisonnables deviennent les plus raisonnables à cause du dérèglement des hommes. Qu’y a-t-il de moins raisonnable que de choisir, pour gouverner un État, le premier fils d’une reine ? L’on ne choisit pas pour gouverner un bateau celui des voyageurs qui est de meilleure maison. Cette loi serait ridicule et injuste ; mais parce qu’ils le sont et le seront toujours, elle devient raisonnable et juste, car qui choisira-t-on ? Le plus vertueux et le plus habile ? Nous voilà incontinent aux mains, chacun prétend être ce plus vertueux et ce plus habile. Attachons donc cette qualité à quelque chose d’incontestable. C’est le fils aîné du roi : cela est net, il n’y a point de dispute. La raison ne peut mieux faire, car la guerre civile est le plus grand des maux.»

 

世襲制が、「最も有徳で、最も有能な者」を選ぶ仕組みだと主張する人は少数派だろう。そもそも、「最も有徳で、最も有能な者」とはどんな人のことか、定義も難しい。ただ、内乱を起こさずに為政者を選ぶやり方は、世襲制以外にもある。例えば民主的な選挙がそうだ。その欠陥も多々あるが、適当な代案はなかなか難しい。ところで、カトリックの世界で「神の代理人」とされる教皇(ローマ法王)の場合はどうか? 飯田橋のギンレイホールで上映中の「ローマ法王の休日」(イタリア・フランス映画、2011年)を観て、いろいろと考えさせられた。

 

     ×     ×     ×

 

映画は、法王の葬儀が終わり、新しい法王を選ぶ選挙(コンクラーヴェ)が始まる場面で幕を開ける。複数の有力候補の得票が拮抗し、なかなか決まらない。そして、どのような「根回し」があったのかよく分からないが、何回目かの投票で、ダークホースだったメルヴィルが急浮上し、圧倒的多数票を得て法王に選出される。そして、サン・ピエトロ大聖堂のバルコニーに出て、待ち受ける大観衆の前であいさつしようとした直前になって、新法王は心理的パニックに陥ってしまう。

 

選挙に参加した枢機卿たちは、バチカン内に足止めとなり、なすすべもない。バチカンの報道官はセラピストを呼ぶも効果なく、ついには新法王がお忍びで街に出て、他のセラピストに診てもらうことにした。しかし、新法王は、警護者たちの目をくらませて、逃げ出してしまう。・・・ 結局、新法王はバチカンに戻ってくるのだが、・・・。

 

     ×     ×     ×

 

選挙で選ばれる「神の代理人」とは、一体どういうものなのだろうか? 神そのものではないにしても、その影響力は想像を絶するものがあるに違いない。それを神ならぬ人間が選ぶ、というのは、やはり無理があるように思える。パスカルも、教皇についていくつか書き残しているが、彼が世襲で決まる世俗の王について書いたほどには明解でない。ただ、「教皇は無謬ではない、それゆえ絶対の権力を持つべきではない」との主張だと私は理解している。

 

「教会、教皇。単一-多数。教会を単一と見なすならば、そのかしらである教皇は全体に相当する。教会を多数と見なすならば、教皇はその一部分にすぎない。教父たちは教会を、ときには前者として、ときには後者として考えた。したがって、教皇について語っていることもまちまちである。しかし、彼らはこれらの二つの真理の一方を設定して、他方を排除しなかった。単一に帰着しない多数は混乱であり、多数に依存しない単一は圧制である。-公会議を教皇の上に置いていると言われうる国は、フランスぐらいのものである」B871S501L604)。

 

«Église, pape. Unité / multitude. En considérant l’Église comme unité, le pape, qui en est le chef, est comme tout. En la considérant comme multitude, le pape n’en est qu’une partie. Les Pères l’ont considérée tantôt en une manière, tantôt en l’autre, et ainsi ont parlé diversement du pape. Mais en établissant une de ces deux vérités, ils n’ont pas exclu l’autre. La multitude qui ne se réduit point à l’unité est confusion. L’unité qui ne dépend pas de la multitude est tyrannie.Il n’y a presque plus que la France où il soit permis de dire que le concile est au-dessus du pape.»

 

教皇は首脳者である。ほかのだれが、万人に知られているであろうか。ほかのだれが、いたるところに伸びていく主要な枝をにぎることによって全体に行きわたる力を持ち、万人に認められているであろうか。それを圧制に下落させるのは、いかにたやすいことだろう。だから、イエス・キリストは、この訓戒を彼らに授けられたのだ。<あなたがた、そうであってはならない>(ルカ伝2226)」B872S473L569)。

 

«Le pape est premier. Quel autre est connu de tous ? Quel autre est reconnu de tous, ayant pouvoir d’insinuer dans tout le corps parce qu’il tient la maîtresse branche qui s’insinue partout ? Qu’il était aisé de faire dégénérer cela en tyrannie ! C’est pourquoi Jésus-Christ leur a posé ce précepte : Vos autem non sic.»

 

ルカ伝22は有名な「最後の晩餐」を扱った箇所だが、その2426を引用しておこう。

24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」

25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。」

26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」

 

「教皇。神は、その教会に対する普通の指導のなかでは奇跡を行われない。もし一個人のうちに無謬性があったら、それは一種の奇妙な奇跡であろう。しかし、無謬性は多数のなかにあるというのが、きわめて自然であると思われる。神のこの指導は、彼の地のあらゆる御業(みわざ)のように、自然のもとに隠されている」B876S607L726

 

«P.P. pape. Dieu ne fait point de miracles dans la conduite ordinaire de son Église. C’en serait un étrange si l’infaillibilité était dans un. Mais d’être dans la multitude, cela paraît si naturel, que la conduite de Dieu est cachée sous la nature, comme en tous ses autres ouvrages.»

 

「教皇たち。王はその権力を行使する。しかし、教皇はその権力を行使することができないB877S586L708

«Papes. Les rois disposent de leur empire, mais les papes ne peuvent disposer du leur.»

 

「教皇は、職掌がらとジェズイットに対する信頼とから、わけなく抱き込まれるし、ジェズイットは、中傷を手段として、彼を抱き込むのがはなはだ得手である」B882S744L914

«Le pape est très aisé à être surpris à cause de ses affaires et de la créance qu’il a aux jésuites. Et les jésuites sont très capables de surprendre à cause de la calomnie.»

 

*冒頭、及び以下の写真は、いずれもバチカンにて(20107月撮影)。

 

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