今年の夏は何かと仕事があり、ほとんど全く遠出できなかった。8月の唯一の例外は、29、30日の週末に行った軽井沢、草津だ。本来は草津でゴルフの予定だったが、かなり強い雨が降り続いたため、ゴルフはキャンセルとなり、軽井沢のアウトレット(軽井沢・プリンスショッピングプラザ)やゴルフ練習場に立ち寄って帰京した。ただ往路で訪ねた白糸の滝、浅間大滝、(その直ぐ近くの)魚止めの滝などはよかった。道端の花はコスモスやオミナエシなど、既に秋。夏から秋にギアチェンジするいい旅となった。
<白糸の滝>
<浅間大滝>
<魚止めの滝>
<軽井沢、草津の道端に咲く花>
]]>毎年夏になると、上野・不忍池のハスの花の写真を撮らないと何か落ちつかない。そんなわけで昨日(8月8日)の朝、不忍池に出かけた。この日はたまたま立秋で、そのせいかどうか風もあり、数日間続いたギンギラギンの猛暑とはちょっと感じが違った。
池を2周し、一周目は標準系ズームで、二周目は望遠系ズームで撮影した。思ったのは、被写体がきれいだと、写真の腕がイマイチでもきれいに写る、ということ。もう一つは、周囲に随分タワーマンションが増えたなということ。いずれにせよ、この池の見事なハスはいつまでもこのままであってほしい。
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一昨日(8月6日)の午後、久しぶりの写真撮影で立川の国営昭和記念公園に行った。お目当ては、ヒマワリ(キク科)とサギソウ(ラン科)だったが、初めて見るナツズイセン(夏水仙、ヒガンバナ科)が良かった。「水鳥の池」近くの日陰の傾斜地に百本くらいだろうか、淡いピンクの上品な花を咲かせていた。
ヒマワリとサギソウはいずれも直射日光がギンギンに照りつける中の撮影で辛かった。特にヒマワリは人気の撮影スポットらしく、若い女性やカップルなどで賑わっており、私も邪魔にならなうようにバシャバシャと雑な撮り方になってしまった。しかし、種類が豊富で本数も多く楽しめた。
<ナツズイセン>
<サギソウ>
<ヒマワリ>
]]>7月20日付の当ブログ記事(「お天道様は見ている」か?)で、新・国立競技場建設問題や東芝の「不適切」会計問題について触れた。そのうち後者については、7月20日の夜、東芝・第三者委員会の調査報告書(要約版)が、また翌21日には調査報告書の全文が公表された。それを受けての新聞報道等を見ると、
・ 西田、佐々木、田中の歴代3社長による各社内カンパニー、トップ等に対する目標必達の強い圧力、
・ 取締役会や監査委員会等の監査機能不全、
・ 上司に逆らえない企業風土、
などの問題が大きく取り上げられている。
私の専門は人事・労働なので、個人的には、「上司の意向に逆らうことができないという企業風土」(報告書・要約版、64ページ)、(役職員に対する)「業績評価部分の割合の高い業績評価制度」(同70ページ)、「財務・経理部門に配属される従業員は入社から退社までの期間、継続して財務経理部門に配属されるという人事ローテーション」(同70ページ)などの指摘が興味深かった。最初の点は「直接的な原因」の一つとして、また、後の2つは「間接的な原因」の中で取り上げられている。ただ、いずれも多くの企業で程度の差はあれ普通に行われていることであり、これらを根本的に改めよと言われても困るのではないだろうか。
一方、一部の識者は、この報告書が監査法人についてほとんど突っ込んだ調査を行っていない点を問題視している。例えば、郷原信郎弁護士は、東芝の経営者が意図的に監査法人をだましたのか、監査法人に見逃してもらったのかが問題の核心だとする(2015年7月23日付「日経ビジネスオンライン」)。また、久保利英明弁護士も、今回のケースでは、新日本監査法人は東芝に「だまされた」か「グルだった」かのどちらかだ、と同趣旨の発言をしている(2015年7月24日付「日経ビジネスオンライン」)。元・日経新聞記者の磯山友幸氏がこうした点を新日本監査法人のトップにただしたところ、「煮え切らない答えが返ってきた」という(2015年7月31日付「日経ビジネスオンライン」)。
「騙されたという部分もあるだろうし、我々の力不足だったと反省しなければいけない部分もあるだろう」というのだ。さすがに、「グルだ」という点に付いては否定したが、東芝を強く責めるそぶりはない。
磯山氏はさらに、つぎのように指摘する。
長年の優良顧客である東芝に対して、監査法人は強くモノが言えていなかった様子が見えてくる。
おそらく、東芝の方が会計処理で主導的な立場で、監査法人はなかなか口が挟めなかったのではないか。
様々な会計処理で、結果的に監査法人は東芝の「意思」を容認していたのではないか。
これらは、大変興味深い点だ。同じ組織の中で部下が上司の意向に逆らえないというのは一般的な傾向だが、実は独立した組織(あるいは個人)同士の関係においても共通利益という誘惑が正義や良心を上回ることは珍しくない。例えば、自営業者はサラリーマンのように「上司」を持たないが、「顧客」なしには収入が得られない。そして顧客を得るには、程度の差はあれ相手の要望に応える必要がある(2012年8月20日付、当ブログ「ハイエクのサラリーマン社会論」を参照)。
こうした、功利主義的な考慮なしに、それらから超越した何らかの正邪の基準に従って不正を断罪する機関、仕組みは、人間の世の中ではそもそも不可能なのかもしれない。例えば、独裁国家の司法機関は独裁者の利害を反映した判断をするだろうし、民主国家の司法機関は国民多数の利害を反映した判断をするだろう。(ついでに言えば、戦争犯罪裁判は戦勝国の利害を反映した判断をするだろう。)誰の利害かという違いはあるが、そもそも人の利害から全く超越した「正義」はあるのか、という懐疑である。ホリエモンが「東芝の刑事事件化は検察の胸三寸」と言ったらしいが、一面の真実はあるように思う。
最後に、7月20日付の当ブログ記事の中で取り上げた、①意思決定や評価を行うための能力、②それに必要な情報、③公正な意思決定や評価を行う動機の3要件についても補足しておきたい。これら3要件を全て兼ね備えた人物はおそらく、かなり稀にしか存在しない。なぜなら、まず、①能力の見極めが難しい。同じ社内で長年経験を積んだ人物の場合、その能力はかなりの程度把握できるが、その選考過程で社内政治・派閥といった要因が入り込みやすい。一方、他社からスカウトする場合、その能力は未知数の部分が大きくなる。②情報については、一般に社内出身者の方が多く保有していると考えられる。その結果、①や②を満たす候補者は、社内出身者か、当該会社(のトップ)と密接な関係を持つ者になりやすい。言いかえれば、当該会社(あるいはそのトップ)と密接な利害関係を持つ者とも言える。したがって、③の公正な判断を下せるかという動機の部分が怪しくなる可能性が増すのである。
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1933年、ウクライナの孤児院を一人の少年が脱走するシーンから、この映画は始まる。(当時孤児が多数発生した背景には、半ば政策的に引き起こされたウクライナの飢饉がある。)少年は、拾ってくれた軍人から「レオ」と名付けられ、彼自身も赤軍の兵士となる。1945年5月2日、ソビエト赤軍がナチスドイツ軍を打ち破り、ベルリンの国会議事堂(Reichstag)の頂上にソ連軍国旗を掲げた有名な写真があるが、映画の中ではこの旗を掲げた兵士こそレオだという設定になっている。戦後、レオはMGB(国家保安省。KGBの前身)の一員となり活躍する。映画の主たる舞台は1950年代、スターリン体制末期のソ連だ。
この映画のモチーフの一つは言うまでもなく、スターリン時代をはじめとする独裁体制につきものの自己保身、噓、裏切り、密告、人間不信の連鎖だ。レオも同僚で友人のアレクセイ、部下のワシーリー、妻のライーサなどとの間でこうした連鎖に巻き込まれる。しかし、彼は妻のライーサを裏切ることができず、その結果、ヴォリスクという地方都市に左遷される。
ところで、モスクワ時代にアレクセイの息子が不審な「事故死」をとげたが、驚いたことにヴォリスクやその周辺でも同様の少年の不審死が相次いでいた。レオは、妻のライーサやヴォリスクでの上司ネステロフ将軍を巻き込んで、犯人の追究に乗り出した・・・。
映画では、弾一発で簡単に人を殺すシーンと、身体的、精神的に人を追い詰めながら簡単には殺さないシーンが交錯し、観る者に不安や動揺を引き起こす。一方、レオはしばしば子供に対する強い愛情を示すが、それはおそらく彼自身の孤児院出身という出自とも関係しているのだろう。これはこの映画の救いにもなっている。エンディング間近のシーンでは、不覚にも涙がボロボロとこぼれ落ちた。
最後に、この映画で印象深かったセリフを3つ挙げておく(いずれも、セリフそのものではなく、大意)。
・ 「楽園では殺人事件はあり得ない」(体制側の者がしばしば使う言葉)。
・ 「戦争で人を殺すのと、体制側の者が市民を殺すのと、自分のような個人が(快楽で)人を殺すのと、どういう違いがあるというのだ?」(孤児院出身の猟奇殺人者がレオに言った言葉)。
・ 「彼(猟奇殺人者)がああなったのは、ソ連体制の出身者だからか、西側体制に毒されたせいか、自分にはわからない」(猟奇殺人者がナチの収容所帰りだったことから、彼が殺人鬼になったのは西側の体制のせいだと言った上司に対するレオの答え)。
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関東甲信地方は19日(日)に梅雨明けし、ギンギンの暑さが続いている。日中の外出はできれば避けたいところだが、仕事が一段落したこともあり、今日(22日)の午前中、久しぶりに写真を撮りに神田川沿いを散歩した。場所は、江戸川橋から高田馬場辺りまで、被写体はアベリア、ランタナといった小さな花、そしてヒマワリだ。日差しが強く、木漏れ日や光沢のある葉っぱへの反射光で容易に玉ボケができた。しかし、歳をとると強い日差しはこたえる(笑)。
<アベリア>
<ランタナ>
<ヒマワリ>
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先週、7月17日付、日経朝刊1面のコラム欄「春秋」を見てドキッとした。「無責任で疑わしい欲求にかられた支配者に統治を許してはならない――。」何せ、安保関連法案が衆議院を通過した翌日だ。日経までも、ついに安倍批判に転じたのか、と半信半疑ながらよく読むと、さすがにそこまでは露骨に書いていない。まずはお決まりのナチス批判、そして中国共産党批判だ。しかし、中国で反体制派の拘束なんて今さら珍しいニュースではない。決してそのことだけを言いたかったのではないだろう。ようやく最後に「もって他山の石としたい」と結んで、日本も他人事ではないと匂わせている。
私も、確かに日本はおかしくなってきたと感じている。ただ、今日は少し別のことを書きたい。この問題と大いに関連はしているのだけれど。
私は大学で人事や組織に関することを教えている。その中で、組織の重要な意思決定や人事評価を行ったりする際、意思決定者や人事評価者は、①意思決定や評価を行うための能力、②それに必要な情報、③公正な意思決定や評価を行う動機の3つの条件を備えていなければならない、と強調している。(このことは、2013年6月18日付の当ブログ、「統一球問題とガバナンス」の中でも指摘した。)今年の授業でもこの話をしたのだが、ある社会人大学院生から次のような質問を受けた。
「先生は、人事評価者が自分の利害を考えて、部下の評価を甘くしたり、辛くしたりすることがあると言うが、人事評価者にはさらに上司がいて、その上司は不公正な評価が行われたら、何らかのペナルティーを人事評価者に与えるだろうから、それが抑止力となって、人事評価者は公正な評価を行う動機があるのではないか」という指摘だ。「お天道様は見ている」仮説とでも言おうか。
私は、「でも、実際は必ずしもそうはなってないよ。例えば、その評価者の上司は必要な能力や情報を持っているとは限らないじゃない?」などと反論したが、とっさに具体例まではうまく言えなかった。しかし、そのあと、適切な具体例がつぎつぎに大きなニュースとなって露見した。そこで明らかになったのは、評価者や意思決定者の上司(あるいはトップ)が必要な能力や情報を持っていないだけでなく、部下たちと、あるいは仲間内で「ぐる」になって不公正な評価や意思決定を行う動機があることだ。あるいは、部下たちがそうした上司やトップの意向を忖度して、不公正と思いながらも誤った評価や意思決定を行うことだ。
例えば、新国立競技場の建設問題。誰が一番のワルなのか、私にはよくわからないが、重要な意思決定に関わった責任者たちがお互いに責任を押しつけ合っていることは既に周知の通りだ。また、これらの責任者のうち何人かは「ぐる」(ここでは「仲間」の意)でもある。具体的に言おう。
森喜朗氏。元首相で2020東京オリンピック大会組織委員会の会長を務める。日本の体育界、特にラグビー界のドンとしても知られる(2005年から2015年までの10年間、日本ラグビーフットボール協会の第12代会長でもあった)。
河野(こうの)一郎氏。国立競技場の運営、スポーツ振興くじ(toto)業務などを行う日本スポーツ振興センター(JSC)理事長。東京医科歯科大学の学生時代、ラグビー選手として活躍。日本ラグビーフットボール協会理事で、森喜朗氏と親交が深い。
遠藤利明氏。山形1区選出の衆議院議員。2015年6月25日、五輪担当大臣に就任。「中大時代をラグビー一色で過ごした経験をもとに、国政ではスポーツ振興策にこだわってきた。」「東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗元首相とはラグビーを縁に師弟関係を結び、安倍首相とはアジアに学校を建設する議員連盟を立ち上げた」(2015年6月26日付、産経ニュース)。
ちなみに、「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」役員(2015年4月1日現在)と、「ラグビーワールドカップ2019組織委員会」役員(2014年7月30日現在)で重複している者を書き出すと下表の通りとなる。一競技種目の関係者がここまで東京オリンピック組織委員会のトップとダブっているのは、どうみても異常だ。
ちなみに森喜朗氏は、最近、産経新聞の取材に対して次のように述べている(2015年7月17日付、産経ニュース)。
僕は(東京オリンピック)組織委に2つを言ってるんだ。1つは派閥を作るな。もう1つは自分の出身の組織を向いて仕事をするな。組織委員会に現在380人ほどいるが、来年には倍になる。その人たちがみんな自分の出身の組織を見て仕事をしたら一体どうなりますか。だから、自分の出身組織のことは考えずに五輪を成功させることだけを考えてやりましょうと。俺もいろいろ気を遣ってるんだよ。
大変正しいことを仰っているが、言っていることとやっていることは正反対である。ブラックジョークが過ぎると言うしかない。
もう一つ、最近の具体例としては、東芝の「不適切会計問題」がある。今年の前半は、改正会社法の施行、東証による「コーポレートガバナンス・コード」の適用など、コーポレートガバナンス改革で盛り上がったが、東芝のこの不祥事はルールを変えるだけでは不十分で、結局はトップの「ヒト」の問題であることを改めて思い知らせてくれた。
東芝はいわゆる「委員会設置会社」制度をとっており、取締役会の下に監査委員会が設けられている。しかしその5人のメンバーは、委員長を含め2人が社内出身者、3人が社外出身者で、社外出身者のうち2人は元外交官だという(2015年7月13日付、日経新聞・夕刊)。監査法人ですら指摘できなかった(とされる)問題を元外交官が見抜くのはほとんど不可能というものだろう。チェック機関の過半のメンバーは、適切なチェックを行う能力・情報と動機のいずれか、あるいはいずれも欠いていたというしかない。
新国立競技場も東芝も、問題があまりに大きくなりすぎたため、「お天道様」から隠し通すことはできなかった。しかし、よりスケールが小さく、巧妙に仕組まれたケースであればどうなっていただろうか。はなはだ心許ない。
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東山から材木町経由で金沢城に行った。金沢城の代表的な玄関口と言えば、兼六園との通路にもなっている「石川門」だ。以前は、お城らしい建物と言えば、これしかなかった。しかし、城内にあった金沢大学が郊外に移転して以降、城内の整備が進み、いくつかの建物が復元されてきた。最初に復元されたのは「菱櫓(ひしやぐら)・五十間長屋(ごじっけんながや)・橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)」だ(2001年7月)。次いで「河北門(かほくもん)」が復元され(2010年4月)、最近は「玉泉院丸庭園(ぎょくせんいんまるていえん)」が復元された(2015年3月)。
お城と言えば天守閣だが、金沢城にも当初はあったらしい。しかし、1602年に焼失して以降、再建されなかった。また、1759年(宝暦9年)の火災で城の大半が焼失したあと、本丸の櫓も再建されなかった。子供のころは、天守閣がなく、本丸に何らシンボル的な建物がないお城って、あんまり威張れないなと思ったこともある。しかし、歳のせいか今は考えが変わった。門や石垣がこれだけ立派なお城はそんなにない、それだけで、否、それ故に誇らしいのだと。
<石川門、三の丸北園地>
<菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓、三の丸広場、二の丸広場>
<河北門、湿生園、新丸広場>
<三十間長屋>
<辰巳櫓跡、丑寅櫓跡>
<鶴丸倉庫>
<玉泉院丸庭園>
<尾山神社>
]]>卯辰山の山頂付近から瓢箪池まで下りてきたが、この先は天神橋に下るルートと東山(旧・観音町)に下るルートに分かれる。私は、後者のルートを選んだ。観光地としてすっかり有名になった「ひがし茶屋街」を歩いてみたいと思ったからだ。
この辺りは、私の自宅からは遠かったが、小学校の同級生が多く住んでいたため、小学生のころは毎日のように遊び回っていた場所だ。したがって、当時は天神橋と浅野川大橋の間に橋(梅ノ橋)は架かっていなかったこと(水害で流されたと聞いていた)、今は徳田秋声記念館となっている場所には大きな料亭があったことなど、はっきりと記憶している。ただ、「ひがし茶屋街」がどんな感じだったかという記憶は曖昧だ。今のように観光地としてきれいに整備された通りや家並みでなかったことは確かだが・・・。ここに来るたびに、「観光地」は(少なくとも部分的には)作るものだとの感を深くする。これをマーケティングというのだろう。
私が通った材木町小学校の前も通った。「若き力」の像は昔と変わらずにあった。しかし、この小学校も近く、近所の味噌蔵町小学校と統合されるという。市内は空き家や空き地、駐車場が目立つようになった。時代の自然な流れというべきか。
<ひがし茶屋街>
<旧・御徒町>
<浅野川>
<材木町小学校>
]]>奥卯辰山墓地の墓参後、卯辰山を尾根伝いに歩き、天神橋、東山方面に向かった。この辺りは私が通った小学校の校区であり、子供時代は何度も来た場所だ。半世紀も前のことゆえ、なくなったもの、新たにできたもの、そのままのもの、変わったものなど、いろいろだ。例えば、卯辰山の山頂には「ヘルス・センター」という動物園や水族館を併設したレジャー施設があったが、今やそれらの建物は跡形もなく、「見晴台」という小さな公園に変わっていた。よく草野球をした運動場はほぼそのままだった。
さらに、浅野川にかかる天神橋(市内から卯辰山に上る際の玄関口に相当し、代表的なバス・ルートでもある)方向に向かって山を下りた。途中、「花菖蒲園」に立ち寄った。花菖蒲は既に終わりかけだったが、アジサイは見事だった。ここは、元々は緩やかな傾斜地に瓢箪状の池があり、「瓢箪池」と呼ばれていたところだ。冬の時期は、この辺りでよくスキーをして遊んだものだ。とても懐かしい。
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先週、久しぶりに金沢に帰省した。遅ればせの北陸新幹線というわけだ。長野-金沢が約1時間なのには驚いた。なんせ昔の特急なら富山-金沢で1時間近くかかったからだ。金沢駅はお土産物売り場がリニューアルされ、構内は観光客で結構混んでいた。多くの人はたぶん気づいていないと思うが、実は新幹線開通を機にもう一つ変わったことがある。改札がようやく自動化されたことだ。まだ不安なのか、駅員さんが改札口に出ていたのがおかしかった。
帰省2日目は好天に恵まれ、まず奥卯辰山墓地に墓参に出かけた。途中、私が卒業したK中学校がある。校舎自体は大きく変わっていないが、屋上の天文台がなくなっていた。中学校の横を流れる浅野川を渡ったところは、鈴見、若松、田上(たがみ)などと呼ばれる地区だが、昔は田んぼだらけだったのがすっかり住宅地に変わっている。しかし、奥卯辰山へ上る山道は昔とあまり変わっていない。豪快なヤマブキの花、竹林など写真撮影に夢中になってしまった。そして久しぶりに墓参を済ませ、何だかホッとした。
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前回、2011年4月に訪れた岐阜県恵那市明智(あけち)町の「大正村」で大正天皇に興味を抱いたと書いたが、そもそも私はなぜこの山奥の「大正村」に興味を持ったのか。それは偶然というしかない。前年の夏まで2年間、ヨーロッパに滞在し、あちこちの国や町を訪ねる機会があった。魅力的なところが多かったが、よく考えると日本にもまだ行ったことのない魅力的な場所がたくさんあるとの思いが募ってきた。人間はわがままなものだ。日本にいると海外に行きたいと思い、海外にいると日本に行きたいと思うのだから。それでネットサーフィンをしていて偶然出会ったのが「日本大正村」だった。
http://www.nihon-taishomura.or.jp/contents/index.html
こうして日本に帰国後8ヵ月ほどして夢をかなえたというわけだ。
朝早く東京を出て中央高速で恵那まで行き、そこから一般道に入ったが、途中ダム湖があったりして、山深いところに向かっているんだなと実感した。恵那からは第3セクターの明知鉄道もあり、明智駅まで約50分かかるようだ。
「大正村」の主要スポットは半日あれば十分回れるが、前回取り上げた「大正時代館」以外に、「日本大正村資料館」、少し高台にある「旧三宅家」の近くから見渡す街並みや満開の桃の花がよかった。ヨーロッパも良いけど、やっぱり日本の田舎って良いなと実感した小旅行だった。
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岐阜県恵那市明智(あけち)町に、「日本大正村」と呼ばれる一群の資料館、建物、街並みがある。「明治村」のように新たに開発された土地に建物群を移設したのではなく、元々の街並みや建物をほぼそのまま活用しており、特段の境界もない。私は、2011年4月に連休を利用してこの地を訪れたが、「大正時代館」の大正天皇に関する展示が興味をひいた。昨日(2015年6月27日)、夜7時のNHKニュースを見て、そのことを思い出し、ブログに記しておこうと思った。
NHKは、宮内庁に要求していた「大正天皇実録」が開示されたとトップニュースで伝えていた。以前公開を要求した際は、ほとんど黒く塗りつぶされていたという。しかし、報道の限りでは、「実録」の内容は、大正天皇が山県有朋と何度か会っていたとか、学習院時代に進級できなかったとかいうあまりニュース性のないものだった。(「宮中某重大事件」などに関し新たな事実発見があったというのなら話は別だが。)むしろ、この文書の公開をなぜ宮内庁が拒否していたのかに興味がある。NHKニュースが、大正村資料館の大正天皇に関する展示を思い出させたのは、それが私の心にずっとある種の引っかかりを残していたからだ。以下、その時に撮った写真をもとに「大正時代館」の展示パネルを紹介しよう。
<大正時代と明知町>
まず、「大正時代」(1912~1926年)と当時の明知町(現在は「明智」と表記するが、当時は「明知」と表記していた)に関するパネルから。「大正時代の十大ニュース」をみると、大正時代は国際的にも国内的にも新旧勢力の対立が強まり、体制(レジーム)が大きく揺らぎ、あるいは変革され、希望と不安の交錯する激動の時代であったとの感が強くする。国際的には、第1次大戦、ロシア革命の勃発、ベルサイユ体制の成立とナチス・ドイツの挑戦が全てこの時代に起きた。日本では、明治の藩閥政治が後退し、政党政治が台頭したが、それが確立したとは言い難い。桜島大爆発、関東大震災と大きな天災が続き、米騒動など国民の生活への不満が高じた。一方、国際社会における日本国としてのプレゼンスは高まり、それが対華21ヵ条要求などとなって表れた。誰が天皇であったとしても、こうした激しい時代の動きに無縁でいることはできなかったであろう。
当時、恵那の田舎町、明知町はこうした時代の奔流と無縁だったとは思わないが、製糸業や商業で栄え、なかなか活気があったようだ。この点は過疎化が進んだ現在と大いに異なる。
<大正天皇>
次に、大正天皇に関するパネルを見よう。まず、「大正天皇の基本解説/正しく評価されなかった天皇」。「幼少期は病弱だったが、九条節子(後の貞明皇后)と結婚後、体調が回復。明治末期に沖縄を除く全国と大韓帝国を回る。」「天皇になってからも、皇太子時代の比較的自由な生活を続けようとするが、明治天皇を理想とする政府には受け入れられず、無理を重ねるうちに再び体調を悪化させる。」「大正天皇が体調を悪化させる1910年代は、・・・ 病弱な天皇とは対照的に、若くて健康な皇太子(後の昭和天皇)を事実上の天皇にしようとする動きが出てくる。その裏では、天皇の病気が誇張され、天皇はあたかも幼少期からずっと病気がちであったかのような逸話が作られてゆく。」
「誕生から御成婚まで(1879~1900)」。「1879年8月31日、父明治天皇、母柳原愛子(なるこ)の間に誕生。」「明宮(はるのみや。大正天皇のこと)は第三皇子として生まれたが、この時までに生き残った皇子・皇女は一人もいなかった。」「14歳時、束縛や規律を嫌う皇太子は、過酷な学習スケジュールを避けるために、学習院を中退し、赤坂離宮内の御学問所で個人授業を受けることになる。」
「御成婚・行巡啓」。「1900年、嘉仁(よしひと)皇太子(後の大正天皇)、九条道孝公爵四女節子(さだこ)と結婚。皇太子満20歳、九条節子満15歳。」「明治天皇とは対照的に、結婚後の嘉仁皇太子は子供に恵まれた。」「皇太子は御結婚後沖縄を除く全国を巡啓し、韓国も行啓した。この間に健康を回復されたばかりか、臣下や国民の誰とでも屈託なく話したがる性格が、より発露された。」「謹言実直で余計なことはしゃべってはならぬ、という帝王学を身につけていた明治天皇に対し、思ったことは何でも口にするやんちゃ坊主的なところがあった。」
「大正天皇」。「幼少の時は病弱だったが、践祚(せんそ。皇子が天皇の位を受け継ぐこと)直後はきわめて健康的なイメージで、元気に公務をこなした。」「裕仁皇太子(後の昭和天皇)は、思ったことを何でも口に出す(大正)天皇とは正反対に、明治天皇を手本とし、表情を崩さずに威厳を保つことを繰り返し教えられた。」「1919年頃から、まっすぐに立っていることができない、言葉が明瞭に出ないなど明らかな異常が見られ始めた。翌(1920)年、政府は葉山で療養中の天皇の病状を国民に向け発表する。」
「大正天皇崩御」。「1926年12月25日、・・・ 天皇の手を最後まで握りしめていたのは、天皇の幼少期以来久しぶりに接し、その変わり果てた姿を目にした柳原(生母)であったという。」
これらのパネルに書かれた内容がどの程度正しいか、私は判断できない。しかし、明治天皇を支持するグループが大正天皇を快く思わず、昭和天皇への早期のバトンタッチを期待した(あるいは策動した)との仮説はありうるかもしれないと思う。
最後に、大正天皇崩御を伝える「東京日日新聞」の号外(大正15年12月25日)。(大正の次の)「元号は「光文」「大治」「弘文」等の諸案があったが」「光文」に決定した、とある。(実際は「昭和」になったので、もちろん誤報。)
<大正天皇宸筆の書>
大正天皇宸筆の書もいくつか展示されていた(いずれも複製)。「公正治化之本(こうせいちかのもと)」。「昔、中国に晏嬰や子産という名君がいた。国は異なるがそれぞれ民政に公平な取り組みをしたために国がよく治まったという。政治の公正さは国を治める基本であるという意。」
「終始一誠意(しゅうしいちせいい)」。「思い立った時から最後まで自らの信ずる道を進む時には、言うことと行うことが一貫して、しかも誠を貫ぬかなければならない。」
「徳感人風動物(とくかんじんぷうどうぶつ)」。「徳とはほどこしの心、人に対するやさしさである。人にやさしさの心を持てば、人の心(風)もなごむものだ。生きとし生けるものすべてに徳の心が行き亘るようにしたいものだ。」
私に書を語る資格など全くないのだが、素人印象として、1枚目と2、3枚目はかなり書体が異なるように見える。また、2枚目の「意」が尻すぼみに見えること、3枚目の「感」「動」「物」の左払いが異様に長いことなどは、心の不安定さを示しているように見える。
]]>昨日(6月26日)のお昼、原宿の明治神宮・御苑に花菖蒲の写真を撮りにいった。このブログでもこれまで2度取り上げているが(2014年6月13日付「明治神宮御苑-花菖蒲」、2013年6月7日付「明治神宮の花菖蒲」)、今年は少し時期が遅かったようで、既に「見納め」時だった。ただ、これまであまり見る機会のなかった睡蓮の花を見られたのは幸いだった。また、新緑の楓もよかった。
]]>
先週の週末(6月20・21日)、気心の知れた飲み友達数人で鬼怒川、日光に行った。初日は鬼怒川で温泉三昧、二日目は奥日光の湯元温泉、湯ノ湖周辺で、雨中の写真撮影。上の写真は湯元温泉で撮ったルピナスという花だが、この時期の日光ではよく見かける。湯ノ湖では、かなり激しい雨の中、腰まで浸かりながら釣りをしている人が何人かいて驚いた。
湯元温泉や湯ノ湖は昨夏も訪れたが(2014年8月13日付、当ブログ「日光-刈込湖・切込湖」参照)、その後、テレビ番組で、当時の皇太子(今の天皇陛下)が終戦の年、この地に疎開していたことを知った(*)。今ではその痕跡もほとんどないが、それを知ってこの地を散策すると感慨深いものがある。「夏草や、兵(つわもの)どもが夢の跡」(芭蕉)。
* 皇太子は、1944年5月から沼津、同年7月から日光、1945年7月から奥日光・湯元に疎開した。湯元での疎開先、「南間ホテル」は2003年に自己破産し、その跡地は「おおるり山荘」となっている。
<鬼怒川>
<竜頭の滝>
<日光湯元>
<湯ノ湖>
]]>先週の月曜日(6月15日)、東京郊外の高幡不動尊にアジサイの写真を撮りに行った。以前、京王線沿線に住んでいたので「高幡不動」という名前は知っていたが、降りたのは初めてだ。アジサイの名所と聞いていたが、確かに見応えがあった。鎌倉の長谷寺や明月院のように斜面一帯にわっと咲いているわけではないが、境内や山道の両脇のあちらこちらに咲いている様がよかった。また、四国の八十八ヶ所を模した「山内八十八ヶ所」があったので、写真を撮り終った後、全て制覇した。
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六本木の国立新美術館で開催されている「マグリット展」を見に行ってきた。雨が降る平日の朝、10時の開館と同時に入場したこともあり、比較的ゆっくりと見ることができた。そのせいか、いつもよりていねいに画の横の解説文を読んだりしたが、頭が混乱することが多かった(笑)。
例えば、馬に乗った女性が林の中を通り過ぎる「白紙委任状」という謎めいたタイトルの画。雑誌インタビューに答えて、マグリットは次のように言ったという。「白紙委任状とは、彼女にやりたいようにやることを認めるものです。目に見えるものは、隠されて目に見えなくなることがあります。しかし、目に見えないものはけっして隠されません。それは、おそらく無視されるのです。現れないのです。感情は、目に見えないものです。オブジェは目に見えます。・・・」 うーむ。あるものが目に見えないとして、それは何かに隠されて見えないのか、元々見えないから見えないのか、どうやってわかるんだろう。感情は「目に見えない」というが、本当に見えないだろうか? 考え出すとよくわからない。
つぎの瓶と人参の画も単純と言えば単純だが、タイトルが「説明」(l’explication)とあるから考え込んでしまう。瓶と人参の横にある第三の物体が何かを「説明」せよというのだろうか。色や形は瓶と人参の属性を部分的に引き継いでいるが、その用途は皆目見当がつかない。展覧会の解説本には、「瓶と人参との間の「隠された」親和性が、まさにその形態にあったことは明らかであろう」とあるが、私にはちっとも「明らか」でない。
ヌードの女性の肌が、部分的に木目に変容しているさまを描いた少々キモイ作品もある。「発見」というタイトルで、マルグリットは、ある手紙の中でつぎのように書いているという(展覧会の解説本、88ページ)。
私は絵画においてひとつの重要な発見をしたようです。これまで、私は複数の物を組み合わせてきました。もしくは、ある物をただ置くことがそれを神秘的にするのには十分な場合もありました。しかし、ここで行ってきた探求の結果、私は新しい事物の可能性を見つけたのです。- それは、事物が「次第に」何か別のものになるという能力です。ある物が、別の物へと「溶け込んでいく」こと。例えば、空のある部分が木に見えるようにするのです。これは、私にとって物を組み合わせるのとは、全く違うもののように思われました。なぜなら、この2つの物質の間には、断絶も境界もないからです。この方法によって私は、目が普段とは全く違うやり方で「思考」しなくてはならないような絵画を生み出します。
上で見た瓶と人参と第三の物体も、こうした変容の系なのかもしれない。しかし、そうだとしても、いったい目はどのように「思考」したらよいのだろうか。
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先々週の金曜日(5月15日)、箱根湿生花園に行ってきた。箱根の仙石原にあり、その裏手はこれまた有名なすすき草原とつながっている。行くきっかけは、ネットで「青いケシ展」(5月1日~6月10日)をやっていると知ったこと、ほかにも珍しい高山植物を含め、多彩な草花が見られそうなことだった。園内は高齢女性のグループや高齢夫婦を中心にかなりの人だったが、のんびり写真を撮って回るのには困らなかった(平日は三脚利用も可のようだが、結局使わなかった)。
青いケシ(解説板によると麻薬性はないとのこと)は確かに珍しかったが、この時期の山の定番である山ツツジや春モミジ、初夏の高山植物であるニッコウキスゲやクロユリなどもよかった。時期を変えて、また是非行ってみたい。
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このGWは自宅での仕事と近場の散歩で過ごしているが、5月5日の午後、大手町方面に散歩に出かけた。特に予定はしていなかったのだが、なり行きで平川門から「皇居東御苑」(月金を除く昼間、無料開放)に入り、結局そこで写真を撮って過ごした。
歩いてみると、木々や花々の種類の多さ、行きとどいた手入れにまず驚いた。大手町のビル群を間近に望む緑はぜいたくだ。さらに、「皇居」というより「旧江戸城」の雰囲気が色濃く残っている。ここは旧江戸城の本丸、二の丸等の跡地であり、天皇皇后両陛下の御所があるわけではないので、それも当然かもしれない。そして、歩きながら、日本史における連続と断絶、形式と実質について、あれこれ考えが及んだ。
徳川家康は天皇から「征夷大将軍」という役職を委任されて江戸幕府を開き、それが「大政奉還」され、「王政復古」となったあと、天皇が旧江戸城に住むというのは形式的には問題ないのかもしれない。いずれにせよ、明治維新を機に日本は良い方向に変わったと思う。では、戦前と戦後についてはどうか。戦後日本の平和や経済発展という成果を否定することは難しい。しかし、そうした「戦後体制」を変えようとする動きが強まっている。戦後の改革が占領下で行われたからと言って、あるいは国際環境が変わったからと言って。私自身は、前者についてはあまり理由にならず、後者については再考の余地ありと考えているが、自問が続く。
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私にとっては今日が連休初日だが、今年は特に遠出の予定はない。ただ、天気がよいとついつい出かけたくなってしまう。そんなわけで今朝は電車で井の頭公園まで行ってきた。新緑が気持ちよかった。
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