パリ(2014年春)-ヴァンセンヌの森(3) [フランス]
ヴァンセンヌ城の近くには「パリ花公園」(Parc Floral de Paris)がある。この公園自体、結構広いので急ぎ足で半分くらいを見たに過ぎないが、桜、日本の椿、青いツツジ、チューリップなど春の花がよかった。もっとゆっくり見たかったが、午後1時近くになってしまったので、急ぎ足でヴァンセンヌ城の入口前にある地下鉄1号線の始発駅、ヴァンセンヌ城駅から市内に戻ることにした。ヴァンセンヌの森には熱帯植物園などもあるようで、今度機会があればもっと時間をかけて訪れたいと思った。
パリ(2014年春)-ヴァンセンヌの森(2) [フランス]
ヴァンセンヌの森に西側の入口(ドレ門)から入り、ドメニル湖の北岸を進み、森の中を通ってヴァンセンヌ城を目指した。森の中と言っても、車が通れるような道路があり、ところどころ通りの名前を記した標識も出ている。(上の写真のような道路だ。)しかし、地図や磁石なしでは容易に方向感覚を失ってしまう。以前来たとき、スマートフォンで位置情報つきのマップを見ながら歩くと便利だろうなと思い、今回は日本からiPhoneを持参したが、インターネット接続ができず、結局使えなかった(電話は使えたが)。紙の地図も持っておらず不安だったが、ところどころにあるヴァンセンヌ城を示す方向指示標識を頼りに何とかお城にたどり着いたときはホッとした。
パリ(2014年春)-ヴァンセンヌの森(1) [フランス]
4月2日(水)、パリ滞在の最終日、帰国の飛行機は夕方の便だったので、午前中は時間の余裕があった。そこで行き先に選んだのはパリの東側にあるヴァンセンヌの森(Bois de Vincennes)だ。パリの街は昔、周囲を城壁が取り囲んでおり、現在は環状道路(Boulevard Périphérique)がそれに取って代わっているが、ヴァンセンヌの森はその外側にある。西側にあるブローニュの森(Bois de Boulogne)もそうだが、きわめて広大で、代々木公園や新宿御苑のようなつもりで行くととんでもないことになる。私は以前、ヴァンセンヌの森に隣接する12区に1年間住んでいたことがあるので何度か行ったことがあるが、森のごく一部を歩いたに過ぎない。
今回の目標もささやかなものだ。一つはドレ門(Porte Dorée)の近くの桜を見ること、二つはドメニル湖(Lac Daumesnil)沿いに歩いてから、森の中を北上しヴァンセンヌ城(Château de Vincennnes)まで行くこと、そして三つは、まだ行ったことがないパリ花公園(Parc Floral de Paris)に行くことだ。これだけでも広大な森のごく一部だ。以下、ヴァンセンヌの森の第1回目として、ドメニル湖とその近くの桜などの写真を掲載する。
パリ(2014年春)-ヴェルサイユ(2) [フランス]
ヴェルサイユ宮殿の裏側には広大な庭園が広がっている。これまでは坂を下りたところにある「アポロンの泉水」(Bassin d’Apollon)辺りまでしか行ったことがなかったが、今回は天気がよく、私も元気だったので、「大水路」(Grand Canal)の一番奥まで行って、そこからまた引き返した。きれいに刈り揃えられた並木道、緑に芽吹く木々や白い花、水路の白鳥や鴨、その周りを走るサイクリストやジョッギングする人たち、それらを見たり写真を撮ったりしながらぶらぶら歩くだけで楽しかった。
パリ(2014年春)-ヴェルサイユ(1) [フランス]
4月1日(火)は前日に予定していたヒアリングが無事終わり、1日フリーだった。どこへ行こうか迷ったが、ヴェルサイユ宮殿(Château de Versailles)に行くことにした。これまで2、3回行ったことがあるが、いずれも「ちゃんと」見たという実感がない。今回は1日かけてゆっくりていねいに見ようと思ったのだ。しかし、出足からつまずいてしまった。宮殿の前には、朝9時半ころ到着したが、入場口はかなりの行列だった。しかも後でわかったのだが、私がついた行列は既に入場券を持っている人のための行列で、券を持っていない私は入口左側の建物の中にある券売所で入場券を買った上で再度並ぶはめになってしまった。こうして見学のピーク時間帯に巻き込まれてしまい、「ゆっくりていねいに見よう」などという気分は失せてしまった。
ただ、鏡の回廊(Galerie des Glaces)だけはちゃんと写真を撮りたいと思ったので、少々粘って人の波がやや少なくなる瞬間を待って何枚かシャッターを切った。このほか、王様や王妃のベッド、絵画などの写真も少し撮ったが、どうも私はこうしたものにそれほど強い関心が湧かないようだ。ベッドも豪華には違いないが、装飾用の調度品ならいざ知らず、日常的な生活用具として見た場合、はたしてどのように使っていたんだろうと、余計なことが気になってしまう。
あと、今回、パンフレットを読んで知ったのだが、入口の建物に書かれた«À TOUTES LES GLOIRES DE LA FRANCE»(フランスの全ての栄光に)の文句。これは、この宮殿に住んでいた王様が、栄華の象徴としての宮殿に対して発した言葉かと思っていたが、そうではなかった。ヴェルサイユ宮殿に住んだ最後の国王はルイ16世だが、フランス革命勃発により、1789年10月6日、宮殿を後にする。そして、フランス最後の国王、ルイ・フィリップが1837年、ヴェルサイユ宮殿を「フランスの全ての栄光に」捧げる歴史博物館とすることを宣言したときの言葉だったのだ。フランス版「祇園精舎の鐘の声」と言うべきか。
パリ(2014年春)-モンソー公園 [フランス]
ベルシーから地下鉄14号線でいったん1区の宿泊先ホテルに戻り、そのあと地下鉄1号線で凱旋門まで行った。翌日(3月31日)の訪問先が凱旋門の近くなので場所を確認しておきたかったのだ。目的地は比較的容易に見つかり、近くのモンソー公園(Parc Monceau)に立ち寄った。モンソー公園は凱旋門からオッシュ大通り(Avenue Hoche)で突き当たりのところにある。オッシュ大通りには日本大使館もあり、以前、在留届の提出と不在者投票で2回ほど行ったことがある。この辺りは16区と同様、高級住宅街でアパートも立派な造りのものが多い。
日曜午後の公園は天気がよかったこともあり、多くの家族連れや友人グループが芝生にたむろしてくつろいでいた。公園に出かけるというのは、ヨーロッパ人の日曜日の典型的な過ごし方だ。デパートやスーパーは閉店だし、レストランも閉まっていることが多い。日本へのお土産を買おうと帰り道に立ち寄ったフォション(マドレーヌ教会の裏にある)も閉店だった。一方、テルヌ広場(Place des Ternes)の花屋さんは開いていたが、これはホームパーティーなどに呼ばれたとき用の需要が多いためかもしれない。以前、ヨーロッパ滞在中に感じたことだが、お金を使わず、近しい人たちとのんびり過ごす休日というのは新鮮だった。
パリ(2014年春)-植物園、ベルシー [フランス]
パリの植物園(Jardin des Plantes)は、セーヌ河畔、オステリッツ駅(Gare d’Austeritz)の近くにある。ちょうど東京は桜のシーズンだったが、ここでも桜やその亜種の花が目立ち、どうしてもそれらの写真が多くなってしまった。以下の写真のうち何枚か、ゆるくぼかしが入ったように見えるものがあるが、それらはカメラのフィルター効果を使って加工したものである(ニコンでは、「画像編集メニュー」→「フィルター効果」→「ソフト」→「標準」)。私は食べ物は濃い口が好きで、写真も明暗のはっきりしたシャープなものを好むが、ここの桜に関してはゆるいソフトな色合いが似合うように思った。
植物園を見終えてから、ベルシー(Bercy)で遅い昼食をとることにした。かつてはワイン倉庫が建ち並び、その後再開発された地区だ。途中、セーヌ川を渡る地下鉄5号線、戦艦のように巨大な経済・財務省ビル、その下で寝袋にくるまるホームレスなどが印象的だった。
パリ(2014年春)-5区、セーヌ河畔 [フランス]
リュクサンブール公園(6区)の東側から、5区のパンテオン(Panthéon)が見え、自然に足がそちらに向いた。パンテオンも修復工事中だったが、入場はできる旨の掲示があった。ここの地下にはフランスの偉人たちの廟がある。このあたり(カルチェ・ラタン)は大学街として有名で、本屋さんも多い。キオスクの広告塔に載っていた雑誌の広告は「極右の新しい顔」というタイトルで、ベルギー、フランス、ギリシア、ハンガリー、インド、日本が取り上げられているようだった。セーヌ河畔の植物園(Jardin des Plantes)に向かうため、パリ大学(理系)の敷地の横を通ったが、高層ビルをいくつも新築中なのに驚いた。
セーヌ河畔に出て植物園に行こうとしたが、川沿いに小さな公園が見えたので立ち寄った。Jardin Tino ROSSI(1907-1983)という名前がついていた。ティノ・ロッシというのはフランスの歌手・映画俳優だ(私は知らないが)。心地よい川風に吹かれながらジョッギングや散歩をする人が多く、バチバチ写真を撮っているのは私一人だけだった(笑)。たぶん多くの人にとっては、あまりにありふれた光景なのだろう。
パリ(2014年春)-リュクサンブール公園 [フランス]
レ・アールを訪ねたあと、ポン・ヌフ(Pont Neuf)を通ってセーヌ川を渡り、リュクサンブール公園(Jardin du Luxembourg)に向かった。途中、シテ島のコンシェルジュリー(Conciergerie)が目につく。もともとは宮殿(シテ宮)として建てられたが、その後牢獄となり、フランス革命時にはマリー・アントワネットらが投獄された。現在も裁判所等として使用されている。
ポン・ヌフ(直訳すると「新橋」)を渡って、ほぼまっすぐ進んだ突き当たりにリュクサンブール公園がある。公園の北端にはリュクサンブール宮(Palais du Luxembourg)-今はフランス元老院(Sénat)の議事堂として使用されている-があり、その左右、南側に公園が広がる。リュクサンブール公園と言えば、小説「レ・ミゼラブル」で青年マリユスがコゼットを見初めた場所だ。今でもルブラン氏ことジャン・ヴァルジャンとコゼットが歩くさまをマリユスが遠くから見つめるなんていうシーンが違和感なく想像できる。
日曜日ということもあり、リュクサンブール宮の周囲はジョッギングをする老若男女が多く駆け抜けていたが、散歩道の中に入るとベンチに腰掛けて静かにたたずむ人が多かった。また、リュクサンブール宮の周りはチューリップなど春の花がきれいに植え込まれ、公園の芝のあちこちには水仙が咲き乱れ、桜も数は多くないがところどころに咲いていた。そしてマロニエの新緑が眩しかった。
パリ(2014年春)-レ・アール [フランス]
(↑2010年9月1日撮影)
3月30日(日)の朝、チュイルリー公園(Jardin des Tuileries)を出発して、レ・アール(Les Halles)に向かった。ここは1969年までパリの中央市場(東京で言えば築地のようなところ)があり、その後、地上は公園、地下はショッピングセンターになっていた。以前パリ在住中、通学路だったこともあり、よくこの中や近辺を歩いたことがあり、私には思い出深い場所の1つだ(冒頭の写真参照)。2010年の夏に帰国するころ再開発(réaménagement)が始まったことは知っていたが、果たしてどのように生まれ変わったのか興味があった。ところが、眼前に現れたのは工事の作業所や巨大なクレーン群だった。工事は相当大規模なもので2016年までかかるらしい(http://www.parisleshalles.fr/)。
レ・アールを印象深くしているのは、その北側に隣接するサントゥスタッシュ教会(Eglise St-Eustache)だ。緑の公園越しに見えるこの教会は実にさまになっていた。何度か中に入ったことがあるが、ステンドグラスが見事だった。ただ、人が少なく荒れた様子もあり、今回行ってみると南側の扉は閉ざされ、西側の入口では修復工事が行われているようだった。凱旋門も一部修復工事が行われており、5区のパリ大学科学学部の敷地では大規模な新築工事が行われているなど、パリはあちこちで普請中と感じた。
(↓2014年3月30日撮影)
パリ(2014年春)-チュイルリー公園 [フランス]
3月29日(土)から4月2日(水)まで、久しぶりにパリに行ってきた。本来用務は31日(月)だったが、その前後にパリ見物の時間をとった。私が、以前パリに滞在したとき(2009年秋~2010年夏)、マレ地区にあるピカソ美術館は改装のため長期休館に入ったが、そろそろ開館されているのではと期待していた。しかし、再開は今年6月とのこと、フランスの改装工事は時間がかかるようだ。そんなわけで、今回は天気がよかったこともあり、公園巡りに徹した。
30日(日)の朝、最初に訪れたのは、ルーヴル美術館に隣接するチュイルリー公園(Jardin des Tuileries)だ。朝の8時半、それほど早い時刻ではないが、人影はまばらだった。ちょうどこの日の早朝(午前2時)、夏時間に移行し、時刻が1時間早まったことの影響かもしれない。花壇にはチューリップなどがきれいに植えられ、木々も芽吹き始めていた。セーヌの対岸にはオルセー美術館(元は鉄道駅)も見えた(一番下の写真)。今回は立ち寄らなかったが、相変わらず人気の美術館だ。
さて、つぎに立ち寄ったのはレ・アール(Les Halles)だ。<次回に続く>
ベルギー人になりたがるフランス人 [フランス]
2013年1月5日付、仏ル・モンド紙の1面トップ記事の見出しは、「ますます多くのフランス人がベルギー人になりたがっている」(De plus en plus de Français veulent devenir belges)というものだった。何のことかと思って読んでみると、例のドゥパルデュ事件(l’affaire Depardieu)の関連記事だった。
ドゥパルデュ事件というのは、フランスの高名な映画俳優、ジェラール・ドゥパルデュ(Gérard Depardieu)が、フランスの高額所得者に対する75%という高率の課税を嫌って、税率が13%と低率であるロシアへの帰化を申請し、プーチン大統領の後押しもあって、1月3日にそれが認められたというニュースだ。ドゥパルデュはまた、昨年末、フランス-ベルギー国境の近く、ベルギー領のネシャン(Néchin。フランスのリールから数キロ)に家を買うなどして、ベルギーへの帰化も検討していた。もう一人の大物、LVMH(Moët Hennessy - Louis Vuitton S.A.)の会長ベルナール・アルノー(Bernard Arnault)もベルギーへの帰化を申請しており、数週間のうちに認められると言われている。
記事によると、こうした有名人以外にも、2012年に126人のフランス人がベルギーに帰化申請したが、これは2011年の63人から倍増している。「倍増」と言ってもフランスの人口6,600万人から見たら微々たるもので、ふつうだったらニュースにはなり得ないだろうが、有名人が絡むと大きなニュースになる。帰化増加の理由として、記事はベルギーにおける金融資産課税の税率が低いことを挙げている。企業がその(登記上の)拠点を税負担の多寡によって選ぶようになって久しいが、今後、個人のレベルでも、(税負担を気にするほどの高額所得者については)そうした動きが増えていくのかもしれない。
今回のニュースを聞いての私の感想は2つだ。ベルギーはイタリアとともに、国内の南北問題で知られている。豊かな北の住民の間には、働き者で高所得の北の住民が怠け者で低所得の南の住民を社会保障システムなどで養っているとの優越感がある。しかし、この種の優越感は、経済が不況になると容易に被害者意識、排外思想に転化する。ベルギーの場合、南北問題は民族・言語問題とも不可分だ。北の住民は主にフラマン人であり、言語はフラマン語(オランダ語に近い)、一方、南の住民は主にワロン人で、言語はフランス語だ。私がフランス滞在中の2010年6月に行われた総選挙では、北部フランドル地域の分離独立を訴える政党が躍進したが、その当時、フランスの新聞に南部ワロン地域はフランスに併合されるんじゃないかという、半分冗談みたいな記事が載ったことがある。そのときには、民族対立に苦しむ隣の小国を横目に、「博愛心」の大国、フランスの優越感のようなものを感じたが、今回のドゥパルデュ事件は、フランスの「博愛心」も怪しいものとの印象を強めた。
もう一点、ドゥパルデュ自身について。それほどの映画通でもない私が彼の名前を知ったのは、「モンテ・クリスト伯」のDVDによってだ。1998年、フランスのテレビドラマとして作製されたこの映画は、私がこれまで繰り返し見ているDVDの一つで、主人公モンテ・クリスト伯ことエドモン・ダンテス役のドゥパルデュは実に見事な演技をしている。しかし、その後フランス滞在時にテレビなどで見る彼はビア樽のように病的なまでに太り、正直、あまり正視したくない姿だった。それ以上、何と言ってよいか、言葉がない。
2009年12月のパリ(6)-リュクサンブール公園、エッフェル塔など [フランス]
この記事では、クリスマス時期のパリの光景をいくつか補足しておきたい。
<リュクサンブール公園>
*12月のリュクサンブール公園はさすがに人出が少ない。なぜか、桜が咲いていた。
<コメディ・フランセーズ横>
ヨーロッパは、ある意味、日本以上にエコ・ブームだ。コメディ・フランセーズ横の広場(オペラ座からまっすぐ歩いてルーヴルに突き当たる辺り)には、ペットボトルで作ったクリスマス・ツリーがあった。
<オペラ座>
<パリ市庁舎>
<エッフェル塔>
*12月になるとエッフェル塔は夜間イルミネーションが行われる。下の写真は、大晦日に撮ったもの。大晦日(la veille du jour de l’an。“veille”は「寝ずに過ごす晩」の意味)は地下鉄が全て無料になり、(一部区域では)どんちゃん騒ぎモードになる。
2009年12月のパリ(5)-サーカス [フランス]
2009年の大晦日の晩、サーカスを見に行った。バスティーユ広場の少し北にあるシルク・ディヴェール(Cirque d’Hiver、「冬のサーカス」)というところだ。(本当はバスティーユのオペラ座で「くるみ割り人形」を観たかったのだが、この時期はどの日も既に満席だった。)大人になってからサーカスを観たのはこれが初めてだったが、多彩なプログラムで、演技の質も高く結構楽しめた。
2009年12月のパリ(4)-教会とキリスト降誕図 [フランス]
クリスマス時期になると、教会にはキリスト降誕図(仏語:la nativité、英語:the Nativity)の模型が展示される。以下、2009年12月、パリで訪れたいくつかの教会を紹介しよう。
<サン・ジェルマン・デ・プレ教会>
<サン・シュルピス教会>
<パンテオン>
*現在は非宗教施設だが、天井ドームの上には十字架がある。
<ノートルダム大聖堂>
<サン・トゥスタッシュ教会>
*かつてパリの中央市場があったレ・アール地区にある。市場の郊外移転を記念して作られた青果商たちの模型は常時展示されている。
2009年12月のパリ(3)-デパートのショーウィンドウ [フランス]
パリのフランス語学校に通っていたとき、Tというインド系フランス人の先生がいた。教え方が少々いい加減で、雑談が多く、学生の評判は今ひとつだったが、私は彼の雑談が好きだった。マイノリティーならではの皮肉の効いたコメントが面白かったからだ。「地下鉄でフランス人がみんな新聞や本を読んでいるのはどうしてだかわかるかい? 彼らがインテリだからじゃない。他人と視線を合わせるのが嫌だからだよ」、「パリの市内は歩道が狭くデコボコで、地下鉄駅もほとんどエレベーターがないのは、ハンディキャップのある老人などを市内に住まわせないようにするための政策さ」、等々。彼のルーツを聞くうちに、インドにフランスの植民地があったことも知った。ポンディシェリ(仏語:Pondichéry、英語:Pondicherry)という都市だ。
ところで、クリスマスの時期、このT先生に、シャンゼリゼ大通りの仮設店舗やイルミネーションを見に行ったが、ちょっと期待外れだったという話をしたら、「じゃあ、デパートのショーウィンドウを見に行ってごらん」と言われた。自分が子供のころ、親に連れて行ってもらって、飽きもせずにずっと見ていたというのだ。50過ぎのオジサン向けのアドバイスではないと思いつつも、百聞は一見にしかず、見に行ってみた。さすがに興奮するというほどではないが、なるほど小さな子供が喜びそうな動く人形の仕掛けが多数あった。実際、子供たちが熱心に見入っていた。
<ギャラリー・ラファイエット、プランタンのショーウィンドウ>
<ル・ボン・マルシェのショーウィンドウ>
<ルーヴル美術館>
2009年12月のパリ(2)-ヴァンドーム広場からマレ地区 [フランス]
2009年12月4日、コンコルド広場から凱旋門、そして凱旋門からコンコルド広場へとシャンゼリゼ大通りを往復した(前回記事)。このまま帰宅するのはもったいないと思い、ヴァンドーム広場、オペラ座(↑写真)、そしてマレ地区までそぞろ歩きを楽しんだ。街路によって、それぞれイルミネーションのデザインを工夫していて、フランスらしいなと思った。
<ヴァンドーム広場とナポレオン像>
<ヴァンドーム広場からオペラ座>
<オペラ座からマレ地区>
2009年12月のパリ(1)-シャンゼリゼ大通り [フランス]
毎年12月というのは慌ただしい。今年も気がついたらもう下旬だ。ようやく仕事のピークが越えたので、ブログ記事を再開したい。ただし、まだじっくりと考えたり、調べたりする余裕はないので、やや安直だが、2009年のクリスマス時期、パリ在住中に撮影した写真を数回に分けて紹介したい。
第1回目は、シャンゼリゼ大通りだ。毎年、クリスマス時期には仮設小屋の店舗が建ち並び、歩道もイルミネーションで飾られ、パリの代表的な風物詩と言える。臨時店舗で何か適当な土産物でも買おうと思ったが、残念ながら私の趣味に合うものはなかった。イルミネーションも、このごろは東京の方が進んでいるかもしれない。しかし、コンコルド広場から凱旋門にかけてまっすぐに伸びる大通りは、やはり何といっても世界のブランドだ。
<コンコルド広場から凱旋門を望む>
<コンコルド広場の観覧車とオベリスク>
<大通り沿いの仮設店舗>
<大通りのイルミネーション>
シャルトル(4) [フランス]
シャルトルには、ノートルダム大聖堂(冒頭の写真)以外にも印象深い教会がある。旧サン・タンドレ教会(Collégiale Saint André)とサン・ピエール教会(Église Saint Pierre)だ。
<Collégiale Saint André>
ウール川を川沿いに北方向に歩くと、川に突きだした趣ある建物があった。旧サン・タンドレ参事会教会だ。ローマ時代に建立された古い歴史を持つが、フランス革命の際に教会としては廃止された。私が訪れたときはアフリカ系絵画の展覧会が開催されていた。川に突きだしたような構造なのは、かつて教会の内陣が川を跨いでいたことの名残りだ。
<Église Saint Pierre>
一方、ウール川の南方にはサン・ピエール教会がある。西暦1000年ころ、ベネディクト会の大修道院附属教会として建立されたのが起源らしい。横の庭園の並木は、フランスの庭園らしくきれいに「散髪」されていた。
シャルトル(3) [フランス]
シャルトルの繁華街はカテドラルと同じく高台の上にあるが、高台を下りると、ウール(Eure)川という小川に沿って古い静かな家並みが続く。「中世の街」として有名なベルギーのブルージュ(Brugge)ほど大規模ではないが、それを彷彿させるような光景だった。パリの比較的近くにこんないいところがあるんだったら、もっと早くから何度も来るんだったのになぁ、と少々心残りに感じた。
シャルトル(2) [フランス]
私がシャルトルの大聖堂を訪ねたとき、ちょうどあるカップルの結婚式が行われていた。せっかくの機会なので、しばし「見学」させて頂いた。式次第や牧師さんの挨拶などは、日本のキリスト教会での結婚式とほぼ同じように思われた(というか、日本の方がマネをしたのだと思うが)。それにしても世界遺産のカテドラルで結婚式とはオシャレだ。
結婚式が終わったあとカテドラルを出て、周囲をグルッと回ってみた。裏手には庭園もあり、その先には家並みが望めた。そこで、カテドラルがある高台を下りてみることにした。
シャルトル(1) [フランス]
フランス滞在も残り一と月に迫った2010年7月末、パリの西方にある世界遺産の大聖堂で有名な町、シャルトル(Chartres)を訪れた。パリのモンパルナス駅から普通列車で1時間程度、駅を出て少し歩くと、左手に直ぐ大聖堂が目に入った(冒頭の写真)。
観光案内オフィスは大聖堂の前方近くにあった(写真↓)。そこで観光マップを貰ったり、フランス語の小冊子を買ったりしたが、対応してくれた中年の女性は胸に日の丸のバッジをつけていた。日本語が話せますよ、という目印だ。それは直ぐにわかったが、私はフランス語で「これ(フランス語の小冊子)下さい」と言った。一方、女性の方は日本語で「日本語の(小冊子も)ありますよ」と言った。それに対し私は、«J’apprends le français maintenant. Donc je veux le lire en français.» 奇妙な会話だった(笑)。
シャルトルのノートルダム大聖堂はステンドグラスやレリーフが特に素晴らしい。以下にいくつか掲げよう。
シャモニー、モンブラン(2) [フランス]
エギュイ・デュ・ミディからの下りは、途中駅のプラン・ド・レギュイユまでロープウェイで下り、そこら先は歩くことにした。標識を見ると、シャモニーの駐車場まで2時間20分とある。シャモニーの街は真下に見えるのに、そんなに時間がかかるのだろうかと内心思ったが、私の考えが甘かった。実際には2時間40~50分ほどかかった。ジグザグ状の小道が続くのだが、ところどころ岩がゴツゴツ出て歩きにくい箇所がある。また、細い道が多く、ちょっと考えごとをして足下に注意しなかったとき、道を踏み外して1~2m滑り落ちたこともあった(冷汗)。ただ、山側、麓側の景色や高山植物などは、やはり歩かないとその美しさをじっくり味わえない。最後は、足がガクガクになったが、歩いて下りて本当によかった。
下山に予想以上時間がかかり、ロープウェイの駅まで戻ると午後3時過ぎになっていた。山の方を見上げるとガスがかかっており、「ただいま視界不良のため、ロープウェイの運行を停止しています」とのアナウンスが聞こえた。山の天気は本当に変わりやすい。帰りのバスの出発まであまり時間はなかったが、シャモニーの街をざっと歩いて回ることにした。乳白色のアルヴ川の流れやきれいな花で飾った家並み(レストランや商店)が印象に残った。一番下の写真は、地元の猟師でモンブランの初登頂(1786年)に成功したバルマ(Jacques Balmat)が、スイスの博物・地質学者でアルピニズムの祖とも言われるソシュール(Horace-Bénédict de Saussure)を案内する姿を象った銅像だ。
シャモニー、モンブラン(1) [フランス]
フランスのシャモニー(Chamonix)には、2009年7月の初めに行った。お目当ては、ジュネーヴのオフィスの窓からも天気がよい日にはよく見えたモンブラン(Mont Blanc、4810m)だ(↑写真)。シャモニーにはジュネーヴから日帰り用の観光バスが出ている。手許に残っている時刻表を見ると、私が乗ったのは、行きがジュネーヴ8:30発→シャモニー10:05着、帰りがシャモニー16:30発→ジュネーヴ18:05着だった。
一応国境を越えるが、パスポートコントロールは通常なく、言語的には同じフランス語圏なのでほとんど国内旅行の感覚だ。バスには女性のガイドさんが乗っていて、海外からの観光客がメインということもあり(なぜかインド人が多かった)、珍しくすべて英語でアナウンスした。ただ、「I hope you have a good エクスキューション」と何度も言うのが気になった。「エクスキューション」って、“execution”(エクスィキューション)のことだろうか? でも、「いい死刑執行を受けて下さい」なんてヘンだよなと思いながらも、あまり気にしないことにした。そして、何度目かに彼女が“excursion”(エクスカーション、遠足)の前半をフランス語風に発音していることにハタと気がついた。ようやく喉につかえていたものが外れた感じがした。
そうこうするうちに、バスはSNCF(フランス国鉄)のシャモニー駅に到着した。ここからしばらく歩いたところにエギュイユ・デュ・ミディ(Aiguille du Midi、3,842m)行きのロープウェイ乗り場がある。エギュイユ・デュ・ミディというのは、モンブランを間近に見ることができる展望台だ。途中、プラン・ド・レギュイユ(Plan de l’Aiguille、2,317m)でロープウェイを乗り替える。
<↓写真中央がエギュイユ・デュ・ミディ>
さっそく、モンブランや四囲の写真をバチバチと撮り始めた。実際にはかなり距離があるはずなのだが、モンブランの山頂は直ぐそこにあるように見える。何か尖った山頂を想像していたのだが、なだらかに丸みを帯びた曲面だ。
<↓一番上の写真の右側がモンブラン。そこから左方向、ついで真後ろに回りながら撮った写真。真後ろの写真はシャモニーの街>
エギュイユ・デュ・ミディは、歩道橋(↓写真)で、さらに高い中央峰に繋がっている。エレベーターでそこまで上がり、再度、たおやかに聳えるモンブランを拝んで、下りることにした。
アルビ(3) [フランス]
(承前)
ベルビー宮から見たタルン川対岸のレンガ作りの建物群があまりに美しかったので、対岸に行ってみることにした。11世紀建造の旧橋(Pont Vieux)を渡る。石壁に挟まれた細い路地があちこちに走っており、散歩していて楽しい。対岸からサント・セシル大聖堂の姿を確認して、街の中心街(サント・セシル大聖堂などがある側)に戻った。
街の中心街も古い趣のある建物が多い。車道(と言っても細い路地だが)と歩道の間に鉄球が並べられているのがオシャレだった。トゥルーズもそうだが、建物がレンガ色で統一されているというのは、やはり美しい。フランス人の個人主義的志向の強さに関しては自他ともに定評がある。しかし、それと街並みや建物の統一性はどうやら別物のようだ。個人の自由と社会の一体感、その兼ね合い、折り合いのつけ方が、日本とフランスではどうやらかなり違うようだ。
アルビ(2) [フランス]
(承前)
サント・セシル大聖堂内部の見学を終えて、外に出て周囲を歩いて回ったところ、何とすぐ横に観光案内所とロートレック美術館があることに気がついた(すぐ下の写真の右端が観光案内所、その左横がロートレック美術館)。
パリのムーラン・ルージュの踊り子の絵などで知られる19世紀の画家、トゥルーズ・ロートレックはアルビの貴族の生まれだ。ロートレックの美術館は、お城のような建物だが、13世紀に建てられた司教館、ベルビー宮(Palais de la Berbie)を改装したものである。内部の撮影は禁止だったので、代わりに絵はがきや伝記などを買った。
美術館の裏手にはフランス式庭園があり、タルン川を挟んで対岸を見渡すことができる。これが実に絶景だった。何枚も写真を撮ったが、残念ながら私の写真では十分にその美しさを伝えることができないのではないかと思う。アルビを訪ねるなら絶対に外せないスポットだ。絵のように美しい(仏pittoresque、英picturesque)とは、こうした光景のためにある形容詞だと思った。
(次回に続く)
アルビ(1) [フランス]
フランスには、「フランスの最も美しい村」(Les plus beaux villages de France)という協会がある。遺産・遺跡を有する美しい村を厳格な基準の下に指定し、その観光促進に努めている。
http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/fr/toutes-actus
ロマネスク式建築が多く残る南西部や南部に多いが、クルマがないと行けないところばかりなので、残念ながら私は訪ねたことがない。私がフランス滞在中に旅行したのは列車で行ける町や市(ville)ばかりだが、その中で「最も美しい村」のイメージに近いのは、たぶん南西部のアルビ(Albi)ではないかと思った。
この街に行こうと思ったのは、2010年の夏、テレビのニュースを見ていたら、ユネスコの世界遺産への登録が決まったとの報道があったからだ。ちょうど、トゥルーズへの旅行を企画しており、そこからは半日あれば、十分に行って帰れそうだった。そんなわけで、2010年8月のとある朝、私はアルビ駅に降り立った。
少々まごついたのは、他に降りた乗客はほとんどおらず、駅前に観光案内標識のようなものがなかったことだ。観光案内所もない。周囲を見渡したところ、遠くに教会の尖塔と思しき建物が見えたので(写真↓)、とにかくその方向に向かって歩くことにした。
いくつか道の分岐点があったが、この尖塔を目指して間違いなかった。やがて、この街の観光名所の一つ、サント・セシル大聖堂にたどり着いた(写真↓)。まるで要塞のような造りの巨大な教会だ。
フランス観光開発機構のホーム・ページによると、次のようにある。「町の中心部の丘の上にそびえ立つサント・セシル大聖堂(全長113m、高さ40m、幅35m)は、かつてこの地方の異端派カタリ派を制圧したアルビ十字軍の後に教会の権力を誇示する目的で建設された南仏ゴシック様式の要塞風の教会で、内部には16世紀に施された彩色が今日も保存されています。レンガ造りの聖堂としては世界一の規模を誇り、1282年から1480年にかけて建設されました。」
実際、外壁に施されたレリーフや内部のさまざまな装飾は歴史の重みと荘厳さを感じさせ、また、内部装飾は鮮やかな彩色がところどころ施されていて感銘を受けた(写真↓)。
サント・セシル大聖堂だけでも十分堪能したが、アルビの見所はここだけではない。
(次回に続く)
ドラ・トーザン「ママより母」 [フランス]
フランスについて日本語で書かれたエッセイ風の読み物はかなりの数に上るが、その多くは旅行や芸術、料理などに関するもので、社会・経済について書かれたものは少ないと思う。また、社会・経済について書かれたものも、表面的、一面的な記述だったり、エピソード主体で統計的な裏付けがなかったり、逆に統計データを示しているが実感がわかなかったりと、歯がゆく感じるものが多い気がする。
そうした中で、ドラ・トーザンの『ママより女』(小学館、2011年)はおもしろくて一気に読め、いくつか学ぶ点があった。タイトルは、フランスの女性は、母であるより妻、妻であるより女であることを優先するのに対し、日本の女性は、女であるより妻、妻であるより母であることを優先するとの著者の見立てに基づく。
著者は、冒頭で5つの「フレンチ・パラドックス」を提起している。
(1)結婚が減り、働く女性が増えているが、子供は増えている。
(2)肉や乳製品を多く摂取しているのに、心臓病は比較的少ない。
(3)ヴァカンスをたっぷりとるのに、GDPは世界5位と高い。
(4)男女の権利は平等だが、男は女に対してジェントルマンである。(「ジェントルマン」とは、女性を何かと褒めたり、ワインを注いだりすることのようだ。私は「ジェントルマン」ではないので、単なる「女好き」との違いがわからない。)
(5)個人主義だが、大きな政府を支持している。
これらのうち、本文で主に取り上げているのは(1)で、それとの関連で(3)、(4)、(5)も触れられている。フランスの出生率は、1960年代後半から1990年代前半まで下がり続けたが(1994年に1.66)、その後反転し、2011年は2.02だ。その背景として、国からの充実した出産・家族手当が日本ではよく指摘される。私も、フランス滞在中にそうした日本での議論をフランス人に話したことがあるが、逆に「人は、お金で子供を産むだろうか」と切り返され、とっさに返答できなかったことがある。
トーザン氏は、出生率の回復は多くの要因が複合した結果だと判断しているようだが、たぶんそうなのだろうと私も思う。彼女が指摘しているのは、つぎの点だ。
・子育て支援策が充実していること(3年間まで現職復帰が保証された育児休暇、育児休暇手当、家族手当、0-3歳児用の託児所、3-5歳児用の公立無料幼稚園の充実など)、
・婚外子への法的差別がないこと(出生数のうち婚外子の割合は、1970年は7%だったのが、2011年は55.8%に達した)、
・週35時間労働(2000年)や年5週間のヴァカンス(1981年)など、ワーク・ライフ・バランスがとりやすいこと、
・フランス人は恋愛気質が強く、恋愛とセックスは密接不可分なこと(Durex社のGlobal Sex Survey 2004によると、年間のセックス回数は、フランスが137回で調査対象国中、最高、日本は46回で最低)。
本書でもう一つ印象的だったのは、フランス的過激さとも言うべき社会変革の激しさだ。もともとはカトリックの影響が強い国であり、法的に中絶や(協議)離婚が認められるようになったのは日本より遅く、1975年のことだ。男女雇用機会均等法が成立したのは1983年で、日本より少し早いだけだ。驚くのは、その後の変化の大きさだ。2010年には、上場企業では役員の40%以上を女性とするクォータ制も成立した。
また、日本にはないが、1999年から、PACS(連帯市民協約)という制度が導入されている。これは異性同士、同性同士を問わず、この契約を結ぶと所得税や相手の年金受け取り等で、正式な婚姻関係と同等の権利を享受できるというものだ。このため、結婚件数は2000年以降減り続ける一方で、パクス件数は増え続け、数年のうちに逆転する見込みだ。
2000年に導入された週35時間制も、当初は暴論視する意見もあったが、今ではすっかり定着してしまった。フランスという国は、だからおもしろい。
トクヴィルがつぎのように書いている。「フランスは今日の人間の運命によい影響を及ぼしたのだろうか、あるいは悪い影響を及ぼしたのだろうか。それは後世の判断に待つことになろう。しかし、よかれあしかれ、その影響が現に存在し、いまだに大きい、ということをだれも疑うことはできないだろう。・・・フランスは、他の国々がまだ頭の中で考えていたことや遠く漠然と夢見ていたことを思い切って口に出しただけでなく、早速それを試みることを厭わなかった」(アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』ちくま学芸文庫、1998年、pp. 15-16)。ちょっと悔しいが、一面の事実を言い当てている。
最後に、この本でなるほどと思ったり、本当だろうかと思ったりした点をいくつか備忘録として記しておきたい。
・フランスは、北欧とラテン系の国(イタリア、スペイン)のちょうど間に位置しているので、社会文化的にも両方の要素を持っている(pp. 26-27、pp. 90-91)。
・映画、小説、シャンソン、詩のほとんどのテーマはアムール、愛。アムールの出てこないフランス映画は思い浮かばない(p. 51)。そして、アムールとセックスは切り離せない(pp. 62-63)。たとえ政治家でも不倫はスキャンダルにならない(p. 52)。
・フランスの経済格差は、もともと日本より大きい。中流階級は半分もおらず、就労人口のほぼ半分は税金を払えていない。貧困層への再分配を担っているのは中流層であり、その不満が高まっている(pp. 145-146)。
*著者のアムールに対する熱意はよく伝わった(笑)。そこで、フランスでアムールの小道具として欠かせないバラの花の写真を集めてみた。いずれもパリの花屋さんに並んだバラだ。色によってメッセージが異なるらしい。需要のあるところ、供給が生ずる。
サン・マロ-戦災から再建された街 [フランス]
坂口安吾は、「京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新たに作ればいいのである。バラックで、結構だ」と言った(「日本文化私観」)。フランスに、第2次世界大戦で破壊された市街をそっくり再建した都市がある。ブルターニュ地方のサン・マロ(Saint-Malo)だ。
モン・サン・ミッシェルに行ったついでに、サン・マロに立ち寄ったことは、以前、このブログでも書いた(2012年5月3日付、「モン・サン・ミッシェルのムール貝ワイン蒸し」)。サン・マロは、イギリス海峡に向かって突き出た小さな島のような形をした街で、周囲は城壁で囲まれている。「島」と書いたが、陸地とつながっており、日本の江の島のようなイメージだ。ただし、面積は江の島の0.38km2に対し、サン・マロは37km2なので約100倍の広さだ。
この街は、かつて多くの冒険家を生み出し、「海賊」の根城でもあった。ただし、サン・マロ人(les Malouins)は、自分たちは«corsaires»(コルセール、私掠船)であって、«pirates»(ピラットゥ、海賊)ではないとこだわる。前者は合法的な(国王から許可された)海賊、後者は非合法的な海賊のことである。また、コルセールは、「略奪する」(piller)のではなく、「没収する」(confisquer)のだと言う。戦争と殺人の違いと言ったらよいだろうか。まあ、モノは言いようである。
つい脱線してしまったが、サン・マロの街を歩くと、歴史を感じさせる古い趣のある建物が多く、とても第2次大戦後に再建されたとは思えない。私は、サン・マロのガイドブック(Édouard Maret, Saint-Malo, Editions Ouest-France, 2009)を読んで、初めてそのことを知った(一番下の写真は、同書の9ページから)。
1944年8月、ドイツ軍が侵攻していたサン・マロに対し、アメリカ軍が激しい空爆を行い、爆撃とそれによる火災で、街の大半が破壊された。この復興計画に立ち上がったのが、ギィ・ラ・シャンブル(Guy La Chambre)、戦前は国民議会(下院)議員や大臣、サン・マロの隣町であるサン・セルヴァンの市長を務め、戦後はサン・マロの市長や大臣を務めた大物政治家である。工事は1947年中に始まり、1953年にほぼ完了した。
サン・マロ人はなぜ街を再建したのだろうか。安吾が言うように、「生活の必要」のためだけなら、バラックでもよかったはずだ。それが、なぜ、わざわざ元の街並みを再建したのか。おそらくそれは、彼らの歴史に対する誇り、自尊心といった「非合理的な」心情、パッションだったのではないか。経済学は、人間は合理的だと想定する。確かに、それによって予測できる事象は多い。しかし、パッション(passion)がもたらす力は、しばしば理性(reason)の力を上回る。経済学者、否、われわれは皆、そのことを知らなければならない。
フランス大統領選-オランドは単に「消去法」か? [フランス]
先週の日曜日(5月6日)に行われたフランス大統領選挙(2回目)は、大方の予想通り、社会党のオランドが、UMP(国民運動連合)の現職、サルコジを破って当選した(得票率は51.68%対48.32%)。地域別には、577の選挙区のうち333(57.5%)でオランドが勝った(5月9日付ル・モンド紙9面)。サルコジが勝った選挙区が多かったのは、北東部のアルザス、ブルゴーニュ、シャンパーニュ・アルデンヌ、フランシュ・コンテ、ロレーヌ、北西部のロワールの一部、南東部のコート・ダ・ジュールやコルシカなどである。
これらはいずれも第1回投票でル・ペン(FN)への投票率が高かった地域であり、ル・ペン自身は、2回目の投票で白票を投じることを表明したにもかかわらず、かなりの票がサルコジに流れたことがわかる。実際、ル・モンド紙によれば、ル・ペン支持者の51%はサルコジ、35%は棄権、白票・無効票、14%はオランドに投票したとのことである(5月8日付12面)。一方、メランション支持者の81%はオランドに入れた。
有権者の個人属性別にみると、年齢別では60歳以上、職業別では農業・商人、引退者でサルコジの得票数がオランドを上回ったが、それ以外の属性ではすべてオランドが上回った。特に、25-34歳層と中間的職業でオランドへの支持率が高くなっている。
オランドの勝因に関して、多くの報道が共通して指摘しているのは次の2点だ。一つは、反サルコジ感情«antisarkozysme»の強さである。世論調査によると、オランドに入れた人の55%は「サルコジへの道を封じたかったから」であり、「オランドが大統領になってほしいから」は45%にとどまったという(5月8日付ル・モンド紙12面)。
もう一つは、2008年秋のリーマン・ショックが引き金となって起きた経済危機の中で、現職の大統領や首相が不利な立場に置かれがちなことである。5月9日付のル・モンド紙(11面)によれば、2008年10月以降、EU27ヵ国のうち16ヵ国で政権交代が起きている。今回のフランスのように右からから左という例ばかりでなく、イギリス、ポルトガル、スペインのように左から右という例も多い。要するに右であれ、左であれ、経済がよくならなければ退場を命じられる可能性が高いということだ。政権交代がなかったのは、最も経済状況のよいドイツ、そしてスウェーデン、エストニア、ラトヴィアなど例外的だ。
では、オランドは消去法によって生まれた大統領に過ぎず、その政策は期待できないのか? 5月8日付ル・モンド紙の4面に載ったジェラール・クルトゥワ(Gérard Courtois)氏のコラム«Un succès logique et fragile»(必然的だが壊れやすい成功)などは、どちらかと言えばそうしたトーンだ。つまりオランドが選ばれたことには必然性があったが、彼が大統領として成功するには、多くの困難が待ち構えており、6月10日、17日のフランス議会総選挙の結果や、野党(UMP、FN)の動向にも依存し、予断を許さないと主張している。また、世論調査の結果によれば、オランドによってフランスがよくなると思っている国民は26%に過ぎず、46%は悪くなる、28%は何も変わらない、と考えているという。
さらに、5月8日の日本の主要全国紙をみると、オランドは財政出動という人気取り政策を約束したが、それは緊縮財政を重視するドイツとの間で軋轢を生み、EU経済に対する「マーケット」の不安を高め、日本経済にも円高を通じてマイナスの影響が及ぶという主張が基調になっていた。ギリシャの動向もあり、ヨーロッパの信用不安再燃の可能性があることは否定しないが、今回のフランス大統領選挙の結果に関する解説としては、日本の主要紙の報道はあまりに一面的、皮相な見方ではないか。とりあえず紙面を埋める必要があって書いたのかもしれないが、“quality paper”を自認するならば(自認していないかもしれないが)、もっと総合的な見方や解説を示すべきだと思う。この点については、明日、改めて書きたい。