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パリの中華料理店と中華街 [フランス]

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前回、パリの中華系日本料理店に関して、少々辛口のコメントを書いた(201255日付「パリの日本料理店」)。しかし、当然のことながら中華系の中華料理店にはおいしい店がある。私が毎週足繁く通っていたのが、上の写真にあるベルヴィル(Belleville)の中華料理店だ。注文はいつも決まっていて、青島ビール、北京風スープ酸辣湯、英語ではhot and sour soup。本来、北京料理ではなく四川料理なのだが、なぜかpotage pékinoisと言う、チャーハン(広東風ご飯、riz cantonaisと言う)、麻婆豆腐mapo doufu。日本語の発音で十分通じる4品だ。3回目くらいからは、これらの料理を全部言わなくても、「いつもので(Comme d’habitude.)」と言えばこと足りた。あまりに日常的だったので、写真を撮っておかなかったのがちょっと残念だ。

 

ベルヴィル以外にも中華料理店は街中にあり、持ち帰り用の惣菜屋としてよく利用した。おかずを23種類、量り売りで買って、家でご飯や味噌汁と一緒に食べるのである。

 

さて、中華料理店について書いたついでに、パリの中華街についても簡単に触れておきたい。パリで「中華街」として知られている場所は2ヵ所ある。一つは上に登場したベルヴィル、もう一つは13区のイタリア広場(Place d’Italie)の南方、特にシュワズィー通り(avenue de Choisy)とイヴリィー通り(avenue d’Ivry)に囲まれた辺りだ。

 

まず、ベルヴィルはパリの北東部、10区、11区、19区、20区の4つの区がちょうど接するところにある(フランス語では「馬乗りになった」という言い方をする。«à cheval sur les 10e, 11e, 19e et 20e arrondissements»。下の写真は、ベルヴィルの交差点)

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私の印象では、ベルヴィルの交差点より北東方向は中国系の店や移民が多く、南西や南東方向はマグレブ、アフリカ系の店や移民が多い。歴史的には労働者階級の街であり、今もその雰囲気はブルジョア地区の16区などとは好対照である。エディット・ピアフ(Édith Piaf)が生まれ育った街としても知られている。また、若い芸術家が多く住んでいるらしく、建物の壁がグラフィティで埋め尽くされた路地もあった(写真↓)。

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一方、パリの南東部、13区の中華街は、店、人とも大半が中華系だが、ヴェトナムなどインドシナ系の店や住民も結構多いように感じた。こちらにも週末を中心に何度か行ったが、店の数が多すぎることもあって、ついに「これは」という店を見つけることはできなかった。

 

13区の中華街には、いくつか高層アパートもある。日本で「高層マンション」というと、六本木ヒルズなど高額所得者のイメージがあるが、フランスでは高層の住居用建物は«cité»と呼ばれ、正反対のイメージがある。外国語というのは難しく、辞書に的確な説明がなく、実際に現地で暮らしてみないと意味が分からない言葉がある。この«cité»もそうだ。私が持っている仏和辞典には、「①都市、②集合住宅地、③パリのシテ島」とあるが、いずれもこの言葉が現代フランス語で通常使われる場合の意味を教えてくれない。

 

«cité»とは、主に大都市郊外の高層公営アパートを指し、低所得の移民などが多く住み、犯罪も多いゲットーといったイメージがある。「郊外」(banlieue)にも同様の含意があることに注意が必要だ。日本で「郊外」というと鉄道路線にもよるが、中産階級の一戸建てというイメージがあるのとは対照的だ。こうしたことは辞書には書いてない。

 

東京や大阪もある程度はそうだが、パリの場合、地区によって住民の所得階層、人種がくっきり色分けされている。もちろん同じ地区の中でもさまざまな違いがあり、こうした特徴付けは誇張と言えば誇張なのだが、パリジャンの間では明確なステレオタイプとして認識されている。所得階層や人種は、政治的主張の違いとなって現れる。下の地図は、先日(422日)の大統領選挙の際、右派への投票が過半数だった区(1区、6区、7区、8区、15区、16区、17区)と左派への投票が過半数だった区(2区、3区、4区、5区、9区、10区、11区、12区、13区、14区、18区、19区、20区)を色分けしたものだ(ル・モンド紙インターネット版より)。いつもながらの見事な色分けだ。

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パリの日本料理店 [フランス]

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パリには多くの日本料理店がある。私のアパート(12区)の周辺にも数軒あった。しかし、最初はわからなかったのだが、日本料理店といっても実は2種類ある。一つは、出される料理が日本のそれと同等か近似した店、もう一つは、日本で出される日本料理とはかなり違う店だ。前者は、経営者か調理人の少なくとも一人が日本人であることが多い。後者は、日本人が経営にも調理にも関わっておらず、中国系の店が圧倒的に多い。(かつて日本食ブームが起きた時に、中華料理店から日本料理店に転換した店が多いと、あるフランス人が言っていたが、私自身は事実関係を確認していない。)

 

中国系の日本料理店は市内のあちこちにある。寿司、刺身、焼き鳥を扱っているところが多い。パリに来てまだ間もないころ、3軒ばかりそういう店に入ったことがある。しかし、どこもまた行こうという気は起きず、結局それから1年間、そういう店には二度と行かなかった。たった3軒の事例から一般化するのは正しくないかもしれないが、伝聞ではなく、私自身の体験談として記録に残しておきたい。

 

そういう店の「日本食」にはいくつか共通点があった。寿司はシャリが大きく、刺身はサイコロステーキのように不格好に切ってあり、焼き鳥はタレがどろどろしていてチーズで巻いたものもある。定食メニューで「ミニサラダ」とあるのは、ちょっと古そうな千切りキャベツの酢漬けのことで、味噌汁はたぶん出汁を使っておらず、味噌をお湯で溶いただけのようなものが小さなお椀で出てくる(具は入っていない)。事情を知らないフランス人のお客さんの中には、おいしい、おいしいと言いながら食べている人もいたが、日本人でこれらをおいしいと感じる人はあまりいないのではないか。だいたい、寿司屋と焼き鳥屋を兼業しているという時点で怪しい。あるフランス人に、フランスでも肉屋(boucherie)と魚屋(poissonnerie)は別の商売だろうと言ったら、よく理解してもらえた。

 

また、こうした店は、しばしば日本の都市名や姓名(あるいはその組み合わせ)を店名に用いている。外装だけでは分からないことも多いが、内装はよく見るとどこかヘンである。例えば、ある店では金閣寺を描いた絵が壁に掛かっていた。しかし、「金閣寺」ではなく「金寺」とある。中国語でも「金閣寺」は「金閣寺」なのだから、ちゃんと書いて欲しいところだ。

 

一方、本物の日本料理店あるいはそれに近い店はオペラ座の近くに集中している。特にサン・タンヌ通り(rue Sainte Anne)沿いや、それと交差する何本かの通り沿いに多い。内容的には、ラーメン、カレーライス、うどん、お好み焼き、寿司、定食、(日本風)中華などの店がある。私は、和食が好きなので週に少なくとも23回は通っていた。この地区がなかったら、私のパリ生活は辛いものになっていたかもしれない(笑)。

 

ところで、フランス人の間でも日本食は人気とみえて、どの店もいつも混んでいた。もっともこれは、ちゃんとした日本食を出す店が限られているという供給側の事情もあると思う。ここで「ちゃんとした」というのは、高級なという意味ではない。私は、日本の外食産業のすごいところは、低価格でおいしい店が多いことだと思っている。さらに、立ち食いそばや牛丼チェーンのように手軽に素早く食べられる店も魅力だ。後者は、食事に時間をかけるフランス人には受け入れられないかもしれないが、前者、つまり低価格でおいしい店ということであれば、流行らない理由はないと思う。もっとも最低賃金が時給9.22ユーロ(20121月以降)の国で、「低価格」というのは難しいかもしれない。

 

写真は、いずれもパリのサン・タンヌ通りにて。

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マルセイユのブイヤベース [フランス]

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いくつかの理由があって、マルセイユ(Marseille)はフランスの中でもぜひ行ってみたい街の一つだった。本場のブイヤベース(bouillabaisse)を食べてみたかったというのも理由の一つだ。ブイヤベースとは、フランスの地中海沿岸地方を代表する海鮮スープのことだが、日本で(私が勝手に)イメージしていたものとはかなり違っていた。

 

20095月のある日、ジュネーヴからTGVで昼過ぎにマルセイユに着くや、ブイヤベースの食べられる店を探したが、どこも一品料理の値段は30から40ユーロ程度と高かった。ランチ定食で20ユーロ程のところがあり、そこに入ったが、出てきたのは黄銅色のスープに(日本ではまず見ない色合いだ)、小さな白身魚が1尾入っているだけだった。私がイメージしていたのは、白身魚はもちろんのこと、オマール海老やムール貝なども入った「海の幸具だくさん鍋」的なものだったので、それとの落差は大きかった。

 

値段が安い店を選んだから、あるいはランチ定食だからこうなったのかもしれないと、悶々と悩みながら、最終日にもう一度別の店にトライしてみた。マルセイユ旧港に面した通り沿いに、多くのガイドブックでブイヤベースの名店と紹介されている店がある。その店を目指したのだが、あいにく日曜日で閉店だった。そこで、そのすぐ隣の店に入った。地元のお客さんも結構入っているようだった。ブイヤベースは単品で40ユーロと、やはりかなり高い。でも、もう二度と本場のブイヤベースを食べることはあるまいと自分を納得させて、注文した。そこで出てきた料理が冒頭の写真である。

 

具材は、白身魚が2尾、切り身が一つ、あとはムール貝と海老とジャガイモだ。スープも特別おいしいというわけではない。具材の量こそ多少増えたものの、最初に入った店と基本的には同じだった。日本で知られているブイヤベースは日本風にアレンジされたものであって、こちらの方が本当のブイヤベースだと言われるかもしれない。しかし、それだったらこの値段はないと思う。

 

私は、マルセイユが持つ港町特有の猥雑さや地中海側ならではの明るい太陽、青い空と海などが好きだが、ブイヤベースには正直がっかりした。自分の心の中のイメージとして留めておくだけの方が幸せだったかもしれない。

 

*下の写真は、マルセイユ旧港近くのレストラン街。ブイヤベースを食べた店とは別の場所である。

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**東京の神楽坂に、ブイヤベースで有名なレストランMがある。ここのブイヤベースはマルセイユ風ではなく、日本風にアレンジされていておいしいが、それでも私のイメージからするとギャップがある。そこで、連休中、自己流のブイヤベースを作ってみた。具材は、伊勢エビ、鱈、エビ、イカ、アサリ、ジャガイモ、タマネギなどだ。築地にオマール海老を買いに行ったところ、あいにく連休中で入荷がなく、伊勢エビに変更した。出汁は昆布、煮干し、鰹節でとり、醤油やみりんを加えたものに、M社製の「ブイヤベース」をブレンドした(写真↓)。コストは全部で5,000円程度、マルセイユのレストランで食べたブイヤベースとほぼ同額だが、自己評価では、自家製の方が味、分量とも数倍上である(ドヤ顔)。

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モン・サン・ミッシェルのムール貝ワイン蒸し [フランス]

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モン・サン・ミッシェル(Mont St-Michel)。言わずと知れたフランス第一の、そして世界でも有数の観光地だ。私も、フランス滞在中に一度は行きたいと思いながら、ついつい後回しになり、結局、日本への帰国が迫った20108月の下旬にようやく訪れた。

 

確かに素晴らしいところだ。孤島にそびえ建つ修道院と周囲を取り巻く砂州は、人智と自然の見事な融合と言うしかない。ただ、正直に言うと、フランス国内やヨーロッパのあちこちの景勝地をかなり観てきた後だっただけに、感動も中くらいだった。もったいないことをしたかもしれない。

 

城壁の中の狭い通路を土産物屋やレストランが軒を連ねる中、観光客がひしめき合いながら歩を進める。南西部のカルカッソンヌ城も似たような感じだった。修道院や島を取り巻く砂州は素晴らしいのだが、ここのレストランは感心しない。

 

昼過ぎともなると、どこのレストランも混んでいる。混雑時は団体客がメインで、店員は一人客にはほとんど目もくれない。いくつか見比べた上で、ある一つのレストランに入った。ウェートレスの女性が白いシャツに赤ワインをこぼして、何だか興奮している。あまり落ち着いて食べる雰囲気ではないが、ほかの店も同じことだと思い、待つことにした。ようやく案内され、定番メニューのムール貝の白ワイン蒸し(この地方の名産であるリンゴ酒(cidre)が使われることもある)(moules marinière)を注文した。驚いたのは、ムール貝の身があまりに小さかったことだ。シジミ貝並みだった。これだったら、パリで食べる方がましだ。

 

後に、あるフランス人にこの話をしたところ、彼もモン・サン・ミッシェルのレストランで不愉快な経験があると言っていた。私のモン・サン・ミッシェルに対する印象も、この一件のせいであまりよくない。独占の弊害がよく出ている。

 

パリからモン・サン・ミッシェルは日帰りもできるが、初日の晩はレンヌ(Rennes)に泊まり、翌日、サン・マロ(St-Malo)を訪ねてからパリに帰る旅程を組んでいた。レンヌでは、レピュブリーク広場近くのレストランで、ビールと海の幸盛り合わせを頼んだ(写真↓)。ムール貝のワイン蒸しにはもう懲りたのだ。

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翌日、サン・マロに行った。ここも城壁の中にレストランや土産物屋が立ち並ぶ一角がある。ただ、モン・サン・ミッシェルほどの人混みではない。いくつかのレストランを見比べるうちに、モン・サン・ミッシェルのムール貝の大きさは異常値だったのか、標準的なのかを確かめたいという気になった。品の悪い言い方をすれば「リベンジ」である。

 

意を決して、フランス人客が比較的多く入っていたレストランに入り、リンゴ酒とムール貝のリンゴ酒蒸しを頼んだ(写真↓)。

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ムール貝はモン・サン・ミッシェルより大きかった。しかし、隣のフランス人客は「小さい、小さい」とぼやいている。はたして彼女たちは、勘定のとき、「おいしかったけど、貝の身が小さすぎたわ」と店員にしっかりクレームをつけていた。ということは、やっぱりモン・サン・ミッシェルのムール貝は異常に小さかったということになる。

 

私は、20数年前、アメリカに留学中、東部のメイン州の海岸沿いをドライブ旅行したことがある。メイン州の名産の一つはロブスターだ。ある海辺の小さな町で、地元の人に薦められたレストランに入って、ロブスター定食を頼んだ。10ドルちょっとで、大きなロブスターが出てきた。驚いたのは、それを食べ終わったとき、もう1尾出てきたことだ。つまり、その定食は最初から2尾のロブスターがセットになっていたのだ。その感動は今も忘れられない。「産地」というのは、こうじゃなければダメだと思う。

 


トゥルーズのカスレ [フランス]

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トゥルーズに旅行すると言ったとき、パリのフランス人から、ぜひカスレ(Cassoulet)を食べるようにと言われた。カスレというのは、フランス南西部の郷土料理で、白インゲン豆をソーセージ、鴨肉などと一緒に土鍋で煮込んだシチュー料理のことだ。白インゲン豆以外にどのような肉類を入れるかは、店や家庭によってヴァリエーションがある。

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ホテルのカウンターでカスレのお薦めの店を聞いたところ、2軒推薦してくれた。そのうち、ホテルに近い方の店に行ってみた。キャピトル(市庁舎)近くのウィルソン広場に面した店だ。昼前の11時半ころに行ったが、ほかのお客さんはまだいなかった。『地球の歩き方』に載っていたカスレの写真をボーイさんに見せて、「この料理を食べたいが、あるか」と聞いたところ、しばらく写真をじっと見つめてから、「ある、でもこの写真のよりずっとおいしい」と言われた。写真だけでおいしさがわかるものか不思議だったが、まあ、よしとしよう。

 

煮込み料理なので多少時間がかかる。ワインとパンで時間をつぶしていたが、少し若作りした感じの女性が外から入ってきて、店のカウンターや調理場の方へ行ったり来たりしているのが気になった。最初はこの店の人かと思ったが、着ている格好がかなり違っていた(要するに派手だった)ので、違うような気もしていた。

 

さて、ようやくカスレが出てきて、いざ食べんとしたとき、ちょうど彼女が私の席の前を通りかかり、「日本の方ですか?」と日本語で話しかけてきた。「そうですが・・・」と答えると、機関銃のような勢いで自分の身の上などについて語り出した。アメリカの某有名大学に留学していたとき日本人の男性と知り合い結婚したこと、その男性の実家はI県のK市にある割烹料理屋で、そこの女将もしていたこと、などだ。

 

彼女:「I県ってあるの、知ってますか?」(きっと、彼女はこれまで日本人にI県のことを話したが、I県なんて知らないと言われたことがあるのだろう。日本人として恥ずかしい限りだ。)

私:「知ってるも知らないも、私はそのI県の出身ですよ。」

彼女:「エッ、じゃあK市は?

私:「はい、そのK市です。」

彼女:「じゃあ、割烹料理屋の〇〇は?

私もさすがにそこまでは知らなかった。

 

しかも、彼女はこうした会話(というか尋問?)の合間、合間に「おいしい?」と聞くのだ。おいしいも何も、彼女が間断なく話しかけてくるので、私はせっかく来たカスレをまだ一口も食べられずにいたのだ! よっぽど、「ちょっと食べさせてくれませんか?」と言おうかと思ったが、その程度のことで彼女の気分を害するのもどうかと思い、我慢した。たぶん10分近くは話し相手になったと思う。あとで、この店の店員が言うには、彼女は隣のバーのマダムで、久しぶりに日本人と会って興奮していたとのことだった。詳しくは聞かなかったが、色んな人生経験を背負っているのだろうと想像した。

 

さて、肝心のカスレだが、非常に濃厚でおいしかった。ただ、一人で食べるには量が多すぎた。2割くらい残してしまったのが今でも心残りだ。勘定を済ませて店を出ようとすると、テラス席は既に満席だった。彼女がいたら、一言あいさつしようと思ったが、あいにくどこにも見当たらなかった。

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ディジョンのブフ・ブルギニョン [フランス]

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ディジョン(Dijon)は、フランス、ブルゴーニュ地方の中心都市で、ワイン、牛肉料理、エスカルゴ、マスタードなど食通の町として知られる。私が最初にこの町の名前に出会ったのは、昔、『愛と哀しみのボレロ』という映画を観たときだ。延々と流れるボレロの曲以外、内容はほとんど覚えていないが、なぜかディジョンという町が出てきたことは覚えている。つぎに出会ったのは、もっと最近で、数年前、東京のフランス語学校に通っていたときだ。フランス語の教科書では、数量表現を学ぶとき、よく料理のレシピ(フランス語ではrecette)が使われる。そのとき教わっていた先生はディジョンの出身で、ネットからプリントアウトした牛肉の赤ワイン煮bœuf bourguignon)のレシピを授業に持ってきた。

 

先生の最初の質問は「ブフ・ブルギニョンに合う飲み物は?」だった。私は勢いよく手を挙げて「ビール!」と答えたのだが、先生から「粗野なアメリカ文化に染まると、こうなるから困ってしまう」とやり込められた。この会話には多少の背景説明が必要だ。私は30歳になる直前、アメリカに留学したのだが、はじめての海外で、生活に関して何の予備知識もなく不安だった。しかし、有り難いことに、東京在住のアメリカ人家族がホスト・ファミリーとなって、渡米前の数ヵ月間、月に1回くらい家に呼んでくれ、アメリカの生活、文化に慣れてもらうというプログラムがあり、私はそれに参加した。

 

このプログラムのホスト・ファミリーの大半はアメリカの大手多国籍企業I社の社員であり、私のホストSさん一家もそうだった。最初に、ホームパーティーに呼ばれたとき、I社の日本人社員の一家も一緒だった。Sさんの奥さんが、「何を飲む?」と聞いてきたとき、海外通の日本人社員のお父さんは、「今日の料理は何? 肉なら赤ワインだし、魚なら白ワインだけど・・・」と答えた。それに対する、Sさんの奥さんの切り返しが奮っていた。「そんなの関係ないわ。自分が飲みたいものを飲めばいいのよ。」私は、これがアメリカ流プラグマティズムかとエラく感動し、それ以降、ずっとこの流儀でやってきていた。そしてこの話は、以前、フランス語のこのクラスでも話していた。

 

それがギャフンと一泡吹かされてしまったわけだ。実際、ブフ・ブルギニョンのレシピを見ると、この料理に合うのは、ブルゴーニュの〇〇の赤ワインだと、厳密に書いてあった。ブルゴーニュワインは、ブドウ畑の区画毎に地質が異なっており、ワインの種類も非常に細分化、差別化されている。それをさらにさまざまな料理との相性によって紐づけしている。そして、そうした蘊蓄に凝っている通(つう)やマニアが世界中にいる。たいしたマーケティング戦略だ。(ちなみに、日本ソムリエ協会が認定するソムリエ、アドバイザー、エキスパートの合計は、201211日現在、38,652人。一方、その日本酒版である日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会の唎酒師の認定者数は、20103月末現在、29,350人である。)

 

それに引き替え、日本人は緩いものだ。寿司は今や欧米でも立派な人気料理だが、寿司と合う飲み物は特定されていない。フランスでは、通常、キリンの一番搾りかアサヒのスーパードライが置いてあり、日本酒を置いているところもある。ただ、これは日本国内でもそうだが、特にどの種類のお酒でなければいけないとは言っていない。

 

念のために言っておくが、フランス人の方が味覚感覚に優れているということはないと思う。フランスの寿司チェーンで食べ終わった後、「コーヒーはいかがですか?」と言われたときには、エラく興ざめしたものだ。フランス人が、ブフ・ブルギニョンを食べるときにビールを飲むのが野蛮だというのなら、日本人は、寿司を食べてからコーヒーを飲むフランス人に同じことを言わなければならない。でも、われわれは呆れながらも、それを許してしまっているのだ。優しいというか、緩いというか、・・・多様性に寛容というか。

 

タイトルからは、かなり脱線してしまった。冒頭の写真は、ディジョンのレストランで食べたブフ・ブルギニョン、下の写真は前菜に注文したエスカルゴ(escargots)である。このときは大好きなビールを飲むのは控え、最初からワインを注文したが、選択は店の人に任せた。銘柄や味は覚えていない。

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フランス大統領選-FNの躍進 [フランス]

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先週の日曜日(422日)、フランスの大統領選挙があった。本ブログでは政治問題を取り上げる気はあまりないが、今日のフランス社会を知るよい機会なので、選挙結果の詳細を報じた424日付のル・モンド紙(電子版。配信は日本時間の423日午後9時)の記事を中心に、いくつかの事実を紹介したい。

 

今回の大統領選の候補者は10名で、有効投票数に占める割合が高かった上位5名は、左派のオランド(François Hollande28.63%)、右派で現職のサルコジ(Nicolas Sarkozy27.06%)、極右のル・ペン(Marine Le Pen18.03%)、極左のメランション(Jean-Luc Mélanchon11.14%)、中道のバイル(François Bayrou9.10%)の各氏だった。このうち上位2名のオランドとサルコジが、56日の決選投票に進むが、選挙翌日のル・モンド紙のトップを飾ったのはそのいずれでもなく、3位のル・ペンだった。

 

見出しに«L’ombre Le Pen sur le second tour»(第2回投票にル・ペンの影)とあるように、第1回投票で彼女に投票した有権者の第2回投票における行動(サルコジに入れるか、オランドに入れるか、棄権するか)が、第2回投票の結果を左右すると考えられていること、また、彼女の18%という得票率が事前の予想(14%)を上回ったことなどが理由だ。

 

マリーヌ・ル・ペンが率いる国民戦線FN : Front National)は、父親のジャン=マリー・ル・ペンが1972年に創設し、反EU、移民排斥などを主張する極右政党として知られる。パリのインテリ層の間などでは今でも忌避感情が強いが、次第に支持を広げてきており、今回は経済危機によって格差が拡大する中、かなりの支持を集める結果となった。

 

有権者の属性別に、各候補者への予定投票率を見たのが下のグラフだ(419日から21日に行われたインターネット調査。424日付ル・モンド紙の12)。

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ル・ペンへの投票率に注目すると、性別には、男(21%)が女(16%)より高い。年齢別には、35-44歳層(24%)が最も高いが、60歳以上層以外で全て20%前後となっている。最も興味深いのは、世帯主の社会・職業別分類による違いだ。下に各カテゴリーのル・ペンへの投票率を示す。

Artisan, commerçant, chef d’entreprise(職人、商人、企業主) 26%

Profession libérale, cadre(自由業*、管理職層) 9%

Profession intermédiaire(中間的職業** 12%

Employé(職員) 22%

Ouvrier(工員) 29%

Retraité(引退者) 15%

* 「自由業」とは弁護士、開業医など高度な専門職業に就いている者を意味する。

** 「中間的職業」とは、組織内で「管理職層」(カードル)と「職員」、「工員」の間に位置する者。教員、看護師なども含まれる。

 

典型的なインテリ層である「自由業、管理職層」では9%と最も投票率が低い一方、社会・職業階層でしばしば最下位にみられる「工員」で29%と最も高い。ブルーカラー労働者は左派、あるいは極左の支持基盤と見られがちだが、極左のメランションへの投票率は12%ル・ペンへの投票率の半分以下だ。これをル・モンド紙は、ル・ペンが「悪役から脱却したこと」«dédiabolisation»の一つの印と見るが、はたして今回の結果が永続性のあるものなのか、私にはわからない。

 

何人かの「市民の声」も紹介しておこう424日付ル・モンド紙の9

・「私は、マリーヌ・ル・ペンに投票したって言うことが恥ずかしいとは思わないわ。この国では、何もしないのに手当をもらっている人があまりに多い。私たちは最賃と家賃収入では、とてもやって行けないというのに。それに、テレビ討論会でただ一人、何を言っているか理解できたのがル・ペンだったの」(Moselle県のGandrangeで、20歳の女性美容師)。

・「娘の言うことは分かる。若者はとても苦労している。それにル・ペンもバカなことばかり言ってるわけじゃない」(上の発言をした女性の父親。自動車産業の職員でメランションに投票)。

・「私は左派だし、人種差別主義者でもない。ル・ペンに投票するただ一つの理由は、もううんざり(Le ras-le-bol)だってこと」(Indre-et-Loire県のSaint-Pierre-des-Corpsで、左派に投票した夫の妻。二人はスーパーのCarrefourは高過ぎて、もうそこでは買い物できないという)。

・もちろんル・ペンに対して批判的な声もある。「みんな自分たちの悲惨さの解決策を探しているが、見つからない。FNの連中は人を集めて扇動するのがメチャクチャうまい。選挙の時には他の候補よりも大きな声で叫ぶ。でも、日常生活に戻ったら、彼らは誰も助けないよ。誰も!」(Yonne県のAvallonで、60歳代の男性)。

 

地域別にみると、ル・ペンはフランス本土22の地域(région)のうち11地域で20%以上の得票率を獲得した。具体的には以下の地域である。

・北東部AlsaceBourgogneChampagne-ArdenneFranche-ComtéLorraineNord-Pas-de-CalaisPicardie

・北西部Haute-Normandie

・南西部Languedoc-Roussillon

・南東部コルシカ島を含む):Provence-Alpes-Côte-d’AzurCorse

なお、(県レベルで)得票率が最も低かったのはパリで、6.20%だった。プロヴァンス・アルプ・コートダジュールという重要な例外はあるが、ドイツ、ベルギー国境に近い北東部の工業地帯で多くの得票を獲得したことが分かる。

 

こうした地域別の傾向と地域間の職業分布の間には関連があるが、全く11で対応しているわけではない。下の3つのグラフは左から①職人、商人が労働力人口に占める割合(2008年)、②工員が労働力人口に占める割合(2008年)、③今回の大統領選でのル・ペンの得票率を示している(426日付ル・モンド紙の25)。

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①と②からは、大雑把に言ってフランスの北部はブルーカラーの多い近代工業地帯、南部は商業、手工業等の中小業者が多い地帯と色分けできる。一方、③からは、ル・ペンの支持者は北部では東は多いが西は少ない、また南部でも東の地中海沿岸部は多いが西は少ないという傾向があることがわかる。すなわち、ブルーカラーが多くても支持者の少ない地域(北西部)や、小規模事業者が多くても支持者の少ない地域(南西部)がある。ル・モンド紙は、それは地域の気質(tempéraments locaux et régionaux)、生活基盤である地域共同体で共有されている感情(sentiment partagé par une communauté locale de vie)のためだとしている。

 

経済危機が長引く中で、特に経済的ポジションの弱い層により大きな負担がのしかかっている。それが、経済的に恵まれた層や、さらなる緊縮策によってより大きな負担を強いようとする政権与党(やそれに対して有効な対案を提示できない野党第一党)への不満として蓄積されている。日本もフランスも直面している問題の本質は、意外に共通しているのだ。

 


オランジュ-中世祭り [フランス]

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せっかく訪ねたオランジュで凱旋門が見られず、少々落ち込んだのだが、人生悪いことばかりではない。観光案内所で、私がたまたま訪ねた2009530日というのは、年に1回の特別な日であることを知った。«Journée Médiévale, XIIème édition»(第12回オランジュ中世の日)だったのだ。朝、市庁舎前で藁を積んだりしていたのも、この準備をしていたのだ。

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市庁舎近くに戻ると、パレードが始まっていた。中世の衣装をまとった町民が、鼓笛隊や踊り子たちとともに街を練り歩くのだ。

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そのあと、古代劇場前では、中世風の寸劇が行われた。プログラムを見ると、これらはプレリュードに過ぎず、興味深い数々の催しが夜まで続くことになっている。私は、当初の予定通り、午後早くに次の目的地アヴィニョンに向かったが、正に後ろ髪を引かれる思いだった。

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*写真は全て、2009530日、オランジュの中世祭りにて撮影。


オランジュ-凱旋門と古代劇場 [フランス]

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当ブログの記事「ミモザの花が咲いた」(2012329日付)で、「オランジュについては、改めて書いてみたい」と書きながら、1と月近く経ってしまった。遅ればせながら約束を果たしたい。

 

オランジュを訪ねたのは2009530日だ。ジュネーヴからマルセイユに行き、そこをベースにしてプロヴァンスの街を1つか2つ訪ねたいと思った。そこで選んだのがオランジュ(Orange)とアヴィニョン(Avignon)だ。マルセイユからの列車の便の都合からして、午前中にオランジュを訪ね、その帰路にアヴィニョンに寄るという旅程で、十分日帰り旅行ができる。

 

フランスの古い街の国鉄(SNCF)の駅は、しばしば街の中心部から少し離れたところにある。オランジュもそうだ。最初に市庁舎(Hôtel de Ville)を目指して歩いた。土曜日の朝だったが、市庁舎の前では時代がかった衣装を身につけた人たちが藁を積んだりしており、少し不思議な気がした。

 

市庁舎前を右に曲がり、旧市街を抜けてしばらく歩くと凱旋門(Arc de Triomphe)がある。カエサルの勝利を記念して紀元前20年頃に建てられたという由緒あるものだが、何と修復工事中だった(写真↓)。«Tant pis!»(注:修復工事は2009年中には終わったようだ。)

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大いに落胆したが、気を取り直して、もう一つのお目当てである古代劇場(Théâtre Antique)に向かった。これは凱旋門とは反対側、市庁舎前を左に曲がった先にある。こちらは十分に堪能した。舞台背後の石壁は2000年前に造られたもので、古代ローマへの感慨を誘うに十分だった。座席は新しく整備されており、今も使われているというのも素晴らしい。しばらくぐるぐる回ったり、上ったり降りたりしてから、外に出た。当初予定していた2つの遺跡を早々に訪ね、さて、このあとどうしようかと思案した結果、観光案内所に行って他の見所を尋ねてみることにした。

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注:写真は2枚目の凱旋門以外は、全てオランジュ古代劇場にて。

 


アヌシー [フランス]

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私にとって、アヌシー(Annecy)は、パリ以外で訪ねた初めてのフランスの街であり、思い出深い。2009年の5月と6月、ジュネーヴ滞在時にバスで日帰り旅行した。きっかけは、勤務先の同僚と雑談していたとき、「(20089月に)ジュネーヴに来て以来、まだほとんどどこにも旅行していない」と言ったらエラく驚かれ、「せめてアヌシーには行った方がいいわ。とってもキレイな街だもの」と言われたからだ。

 

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アヌシーは、アルプスの麓、アヌシー湖の北端に開けた小さな町だ。湖畔は公園になっており、散歩や休憩にぴったりだ。公園内にかかる「愛の橋」(Pont des Amours)はちょっとした観光名所らしい(写真↑)。湖から西方の旧市街に小川(運河)が流れ出している。その中洲には、街のシンボルマーク的存在、旧牢獄(Palais de l’Ile)がある(写真↓)。小川の両岸には、レストランや土産物店が多数あり、観光客で賑わっている。

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湖から出ている小川の左岸の小高い丘の上にはアヌシー城があり、現在は博物館となっている(写真↓)。サヴォワ地方の自然、風俗や歴史に関する展示が多数あり、興味深い。また、博物館の裏手から見下ろした旧市街の街並みも美しい(写真↓↓)。

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旧市街を一通り歩き回って、湖畔の公園のベンチに腰掛けて休んでいたら、地元の小学生の男の子が物珍しそうなようすで近寄ってきた。「どこから来たの?」と言うので、「東京から」と言うと、「東京はでっかいけど、この街はちっちゃい」と大袈裟に腕を広げたり、縮めたりしてみせたのが可愛らしかった。その日は、確か水曜日だったが、フランスの学校は水曜日は休みなのかと尋ねたところ、幼稚園はどう、小学校はどう、中学校はどう・・・と一生懸命教えてくれた。肝心の答えは忘れてしまったが(笑)。

 

そんなこともあって、この街が2018年冬季オリンピックの開催地に立候補したとき、応援したい気もしたが、結局、韓国の平昌に敗れた。冬季オリンピックの開催地は、これまであまりにヨーロッパ中心過ぎたので、これも妥当な結果と思う。

 


パリの桜 [フランス]

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パリやその近郊のイル・ド・フランスで、桜は決して珍しい花ではない。私は、パリの東、12区に住んでいたが、アパートから歩いて10分くらいのところにヴァンセンヌの森(Bois de Vincennes)があった。パリの西側には、ブローニュの森(Bois de Boulogne)があるが、いずれも、とてつもなく広い。地図を持って歩いても簡単に迷ってしまう。ブローニュの森を歩いたのは一度だけだが、ヴァンセンヌの森は近所ということもあり、天気のよい日など、よく散歩した。森の一角に桜が比較的多いスポットがある。都会にいることを忘れさせるような、野生味あふれる枝ぶり、咲きっぷりだ。

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一方、12区のドメニル通り(Avenue Daumesnil)の西方、バスティーユ広場近くまで、通り沿いに高架鉄道跡を改修した遊歩道がある。私は、ふだんは地上の歩道を歩いていたが、桜の季節、高架上の遊歩道を歩いたことがある。さまざまな種類の花木が植えられており、桜は最も目立つものの一つで美しかった。

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この遊歩道にはちょっとした思い出がある。私は東端の出入口から階段を上って遊歩道に入り、西端のバスティーユ広場に向かった。しかし、西端の出入口は何と鉄格子の扉がしっかりと施錠されており、出られない! 仕方なく、東方に戻りながら、途中の出入口をチェックしてみたが、どれも閉まっている。小説『レ・ミゼラブル』でジャン・ヴァルジャンはパリの下水道を出口を求めて彷徨うが、私も同じ運命かと辛い気持ちになった。そうこうするうちに、ホームレス風のおじさんと一緒になった。彼も出口を探していたのだが、まあ、彼について行けば大丈夫だろうと少し気が楽になった。しかし、このおじさんが、「ここだ」と言う出入口も全て閉まっており、結局、最初に入った東端の出入口まで引き返すことになってしまった。おじさんは、«C’est la vie.»と肩をすくめてみせた。なぜ、東端の一つを除いて、全ての出入口が閉まっていたのか、未だに謎である。

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世界中の観光客が訪れるシャンゼリゼ通り(Avenue des Champs Elysées)にも桜がある。コンコルド広場寄りの公園の一角だ。桜はどこの国の人にも「絵になる」と見えて、観光客がはしゃぎながら写真を撮っていた。

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*上から1枚目と2枚目の写真は、201046日、ヴァンセンヌの森で撮影、3枚目と4枚目は2010417日、ドメニル通り沿い高架鉄道跡の遊歩道で撮影、5枚目は2011329日、シャンゼリゼ通りで撮影。

 


トロワの桜 [フランス]

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4月になった。東京は、昨日ようやく開花宣言があった。日本では、桜の開花と新年度、新学期が重なることもあり、桜と言えば、何かしら晴れやかな希望のイメージがある。しかし、桜は、薄曇りの、あるいは小雨交じりの少々肌寒い日にも似合うと思う。実際、桜は一輪一輪を見ると、「花見」など派手な印象とは裏腹に、何にでもマッチしそうなむしろ控えめな色合いだ。

 

そんなことを思ったのは、東日本大震災の直後、20113月末に、フランス、シャンパーニュ地方の中世の交易都市トロワ(Troyes)を訪ねたときだ。(ちなみに、私はこの街のことをJ. ギース、F. ギース『中世ヨーロッパの都市の生活講談社学術文庫で知った。)震災前から計画していたパリ出張で、予定のヒアリングが早く終わったため出かけた小旅行だったが、震災の精神的後遺症が重くのしかかり、私はずっと沈んだ心境だった。

 

古い司教館を改築した現代美術館の中庭に2本の桜の木があり、満開過ぎだが咲いていた。小雨に煙る中、背後のアパートや教会の屋根ともよくマッチしており、味わい深かった。(フランス的な?)原色のコーディネーションではなく、こうした薄墨色のコーディネーションもなかなかいい。何か、心に深く染み入るものがあった。

 

街角では、被災した日本への寄付金を呼びかけるポスターを見かけた。1年間のフランス滞在中、気を許したフランス人に、さまざまな非効率、サービスの質の悪さ、自己主張の強さなどフランスの悪口をよく言っていたが、ちょっと言い過ぎたかなと、今は反省している。

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トゥルーズの惨劇(Drame de Toulouse) [フランス]

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今週、フランスのトップニュースは、トゥルーズで起きたアルジェリア系フランス人の23歳の若者による、ユダヤ人学校の生徒、教師4名の殺人事件(さらに、フランス軍兵士3名も殺したとされる)だった。昨日、特殊部隊が犯人宅に突入し、犯人射殺でひとまず幕を閉じた。残念ながら、ヨーロッパでは、人種や宗教対立に起因したこうした事件が後を絶たない。メディアは来月に迫った大統領選への影響をあれこれ論じているが、私は、今回の事件がさらなる悪循環を引き起こすことを懸念している。

 

そうした一般論とは別に、今回、トゥルーズと聞いて、「エッ、あのトゥルーズで?」というのが正直な感想だった。なぜなら私が知るトゥルーズは美しく平和で、フランスの中でも私が最も好きな街の一つだからだ。

 

トゥルーズ(Toulouse)は、フランス南西部の中心都市で、その建物の多くが煉瓦色に統一されていることから「バラ色の街」(la ville rose)の異名を持つ美しい街だ。古くてモダンな教会や美術館がいくつかあり、文教都市、エアバス社の企業城下町の顔も持つ。私が訪れたのは20108月の3日間だけだが、すっかり気に入った。もしも私が20代の若者なら、専攻はコンピューター科学であれ、ヨーロッパ史であれ、とにかくこの街に留学したいと思ったことだろう。

 

下の写真は、私が今年の年賀状に使ったものだ。オーギュスタン美術館(かつて修道院だった建物を改築して使っている)の礼拝堂に差し掛かったとき、ちょうどバラ窓から西日が差し込み、それが煉瓦色の床に反射し、息をのむような美しい色を醸し出していた。

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私は、特に一人旅のときは、夜遅くまで出歩くことは普通しない。昼間歩き回った疲れを癒やすため、早めに一杯飲んで寝ることにしているのだ。しかし、この街は例外だった。昼間訪れた教会や街並みを夜にまた歩き回りたくなった。ガロンヌ川の川沿いを散歩すると、若者たちが河原の芝生に三々五々集まって歓談していた。アルコールも多少は飲んでいたと思うが、大声を上げたり、騒いだりする者は誰もいない。そのことにまた、深く感銘を受けた。

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だから、どうしてこの街で? と思うのだ。前にこのブログでユゴーの「人の魂の内部は海よりも、空よりも大きく、これ以上、恐ろしくて、複雑で、神秘で、無限なものはない」という趣旨の言葉を引用したことがある(201235日)。私がこの言葉を引用したのは、単に修辞的な意味で美しいからではない。これまでの人生で、何度もそのことを実感してきたからだ。今回のテロ事件の犯人も、「100の顔を持つ」(Mohamed Merah, lhomme aux cent visagesとル・モンド紙(323日付)は報じているが、深い心の闇を抱えていたに違いない。


コーディネートの妙 [フランス]

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フランスに初めて行ったのは確か1998年の秋だった。パリ大学の先生がコーディネーターを務めるEU主催のミニ・コンファレンスがあり、私は日本のことを報告しに行ったのだった。会議自体は1日で終わったが、週末まで滞在を延長してパリ観光をした。そのとき訪れた中に、マレ地区のピカソ美術館がある。お土産物コーナーで、しゃれたデザインのワイン・オープナーを見つけ、「そこの青いのを下さい(That blue one please.)」と言ったところ、先方は(たぶんフランス語で)「これは青じゃない、〇〇色だ」というようなことを言った。青の同系色が何種類かあったのならそう言われるのもわかるが、青色系はどう見ても一つに特定できた。フランス人にアンビィヴァレントな感情を抱くようになったのは、たぶんこの些細な出来事がきっかけだ。

 

ただ、私はフランス人の色彩感覚、とりわけコーディネートの妙については、それなりに評価している。冒頭の写真は、マルセイユのとあるアパートで見かけた洗濯物だが、三色旗に見立ててTシャツを干すのはいかにもオシャレだ。(それを言えば、日本の「日の丸弁当」も同じことかもしれないが・・・。)今やフランス菓子の代表格とも言うべきマカロンの色使いもすごい(下の写真は、パリで)。これまた、日本でも昔、マーブルチョコレートというのがあったが・・・(確か、中に鉄腕アトムのシールが入っていた)。

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服装のコーディネーションもなかなかだ。下の写真は、スイスのジュネーヴに近いニヨンの町で撮ったものだが、正に「コーディネーションはこーでねーと」である。

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ル・ピュイ・アン・ヴレ-岩山の上の礼拝堂 [フランス]

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人間の記憶というのは面白いもので、忘れたいことをなかなか忘れられなかったり、忘れたくないことを忘れたりする。失恋体験などは前者、外国語学習などはさしずめ後者か。私は30数年前、大学生だったが、当時の講義内容で覚えていることはほとんどない。不思議なことに、多少覚えていることがあるとすれば、教師が何気なく語った雑談の類だ。

 

例えば、K先生の西洋史の授業。特に熱心に聞いていたわけではなく、出席率も半分くらいだった。先生自身の講義内容も失礼ながら「雑談」調だった。そんな中、今でも覚えていることが2つだけある。一つは、当時(1976年)、中国は文化大革命の終期にあったのだが(197610月には、いわゆる四人組が逮捕された)、フランスの雑誌(L’Expressだったと思う)を教室に持ってきて、その中の報道写真を見せながら(確か、市中引き回しの様子などが写っていた)、「中国では今こういうことが起きているんですよ、日本の新聞、雑誌はだらしないですね-、こういうことをちっとも伝えないんだから・・・」と仰ったこと。もう一つは、自分はヨーロッパのあちこちの教会や史跡の写真を撮って回っています、旅行して楽しんでいるように思われるかもしれませんが、重い撮影機材を背負って回るのは大変なんですよ、と愚痴(あるいは自慢? 言い訳?)をこぼしておられたことである。

 

いったいどんな写真を撮っておられたのか知る由もなかったが、卒業後、堀米庸三(編)『西欧精神の探求-革新の十二世紀』(日本放送出版協会、1976年)という本を偶然本屋で手にしたとき、疑問は氷解した。この本にはK先生が撮影した写真が多数載っていたのだ。中でも、表紙を開けて直ぐの頁にあるカラー写真、サン・ミシェル・デーギーユ礼拝堂には驚いた。円錐状の岩山のてっぺんに小さな教会が乗っかっているのだ。いったい、どのようにしてこんなところに教会を建てたのか疑問だったし、どのようにしてこんな写真を撮ったのかも疑問だった。まるで航空写真のような構図なのだ。

 

写真の説明には、つぎのようにある。「サン・ミシェル・デーギーユ礼拝堂(ル・ピュイ、11世紀末~12世紀)噴火によって出来た「針山」の頂上(地上80メートル、268階段)に、敵を寄せつけぬ姿勢で建立された「鳥の巣」型教会の典型である。」

 

こんな記憶があったものだから、フランスで暮らす機会が訪れたとき、ル・ピュイ・アン・ヴレ(Le Puy-en-Velay)には是非行ってみたかった。ル・ピュイのあるオーヴェルニュ地方は、中央山塊(le Massif central)に囲まれており、フランスの主要地域の中では唯一TGV(新幹線)が通っていない。パリからは、リヨンの少し先(サンテティエンヌ)までTGVで行き、そこからローカル線に乗り換え、この山国に入るのだ。ル・ピュイは、巡礼(le pèlerinage)の地として知られる。フランスから遠くスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに至る巡礼路がいくつかあるが、その東側の出発点の一つだ。

 

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町の中心の小高い丘の上に古い大聖堂があり、その裏手をさらに登ったところにピンクがかった色のフランス聖母像がある。そしてその高台の上からは眼下の街並み、四囲の山々、そして岩山の上の礼拝堂を臨むことができる。航空写真かと思ったK先生の写真は、フランス聖母像がある高台から見下ろして撮ったものだ。私も、そうしてバチバチと写真を撮った。

 

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ただ、人間というのは欲深いもので、岩山の上の礼拝堂の写真を撮っただけでは満足できなかった。「大聖堂」、「フランス聖母像」、「岩山の上の礼拝堂」の3点セットを同時に収めた写真を撮れるポイントはないかと探し始めたのだ(ただし、広角レンズは使用禁止、高い建物に上がって撮るのもダメ)。そして、街のあちこちを何時間も歩き回った末、ついに見つけた!他人からはつまらないことだと思われるだろうが、私は心地よい達成感を感じて帰路についた(下の写真は、左から岩山の上の礼拝堂、フランス聖母像、大聖堂)。

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アミアン大聖堂のソドムのレリーフ [フランス]

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パリの北、列車で1時間ちょっとのところに、ピカルディー地方の中心地アミアンがある。このユネスコ世界遺産の大聖堂で有名な都市を20108月に訪ねた。フランスの歴史ある都市は古い建物や街路が残っていることが多いものだが、この街は、いずれも新しいというのが第一印象だった。

 

真っ先に大聖堂に向かい、一通り内部を見終えて、ファサードに出たとき、興味深いレリーフが目にとまった。建物がガラガラと崩れ、人々に襲いかかっている画だ。

 

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これは『旧約聖書』のソドムをモチーフにしたものと思われる。「彼女(ソドム)とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである」(「エゼキエル書」164950)。「主(しゅ)はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした」(「創世記」192425)。

 

私がソドムのレリーフに引っかかったのは、地震の記憶や予感からというわけではない。むしろ、日本が精神的な意味で「壊れている」との感を抱いていたからだ。そのころ日本から伝わってくるニュースは、単に経済の低迷というだけでなく、政財官界、言論人等、本来公共精神のリーダー役たる人々の使命感の欠如、国民の間に蔓延する悲観主義や過度の利己主義など、どうしてこうなってしまったのかと、私自身を絶望的な気分にさせていたのだ。

 

考えてみれば、アミアンを含むこの地域はベルギー国境に近く、第1次大戦、第2次大戦ともに、独仏の主戦場になったところだ。そうしたつらい経験が、アミアンの人々をして大聖堂のファサードにソドムのレリーフを刻ませたのだろうか。

 

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大聖堂の直ぐ近く、サン・ルー地区の運河は何ごともなかったかのように静かに水をたたえていた。それが救いだった。

 

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1940年当時の戦場図は、パリ、アンヴァリッド(廃兵院)の軍事博物館にて。他の写真は全てアミアンにて。本ブログにおける『聖書』の日本語訳は、新共同訳、日本聖書協会(2007年)による。

 


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