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シンガポール、という国 [シンガポール]

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博物館を1日に3ヵ所もハシゴするとさすがに疲れる。夕食は、中華街の屋台でとろうと思っていたが、アジア文明博物館に併設されたアジアン・レストランでそのままとることにした。シンガポール川をぼんやりと眺めながら、ビールを飲んで、6日間のさまざまな出来事を反芻した。

 

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シンガポールの歴史。さっき訪ねたばかりのアジア文明博物館の説明パネルには、「シンガポールの歴史は、1819年のイギリスによる開港で始まったと思っている人が多いが、それ以前からマレー王国(The Malay Kingdom)の人たちが住んでおり、アジア中の船舶を受け入れていた」と書いてあった。確かに、1819年に始まったというのは極論だ。しかし、日本のように、1万年以上前の遺跡があるとか(縄文時代)、4世紀頃から統一政権があった(大和朝廷)、というのとはかなり事情が違う。国立博物館やアジア文明博物館の説明パネルを総合すると、シンガポールの歴史は概略、つぎのようになる。

 

5世紀から、中国やインド行きの舟がマラッカ海峡を通っていた。

シンガポール(Temasek、シンガポールの旧名)は、1415世紀までには、そうした寄港地の一つとして知られるようになった。しかし、それ以前の歴史について記述したものはほとんど残っていない。

中国の元王朝(1314世紀)時代の陶器の破片が、シンガポールで発見されている。

東南アジアの貿易センターとしての都市間競争が激しく、シンガポールは15世紀初頭にマレー半島のマラッカにその座を奪われた。そして、マラッカの覇権は、16世紀初め、ポルトガルに征服されるまで続いた。

 

シンガポールの停滞は、1819129日、イギリス人のトマス・スタンフォード・ラッフルズがシンガポール川に上陸し、その港湾としての価値を再発見するまで続いた。当時、シンガポールは、名目的にはジョホールのサルタン(the Sultan of Johor)に支配されており、彼はオランダに忠誠を誓っていた。しかし、1824年、オランダはシンガポールがイギリス領であることを認めた。つまり、シンガポールという国は、日本の明治維新の約40年前、イギリスの植民地としてスタートしたと言ってよい。

その当時、シンガポールに住み着き、働いていた最大の集団は中国人だった。彼らの2大出身地は、Hokkiens(福建人)とTeochews(潮州人)であり、商業、農業、工芸、労務などに従事した。

インド人の植民は、シンガポールがイギリスの植民地だったことと関係がある。インド人は当初、イギリスの東インド会社から、ついでインドの植民地政府から派遣された。

そして、イギリスを初めとする欧米人も租界地をつくって住み着くようになった。

 

国立博物館にあった説明パネルによれば、「19世紀の英国領マラヤは、稼ぎを得るための一時的な場所にすぎませんでした。中国やインドから出稼ぎに来た人々はほとんどが男性で、ここで家庭を持つ意味も意志もありませんでした」、「20世紀初頭から半ばにかけて、女性の移民がかなり増えたことから、男性労働者が結婚相手を見つける機会も多くなりました」とのことである。

 

私は、何も歴史が長いか短いかでその国を評価しようとは思わない。ただ、日本とシンガポールやアメリカとでは、やっぱり何か違うな、と思う。良きにつけ悪しきにつけ。

 

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シンガポールの言語事情。現在、シンガポールの学校教育では、英語が第一言語であり、第二言語として、中国語(北京語)、マレー語、タミール語のいずれかを学ぶ。日本の旅行ガイドブックの中には、シンガポール人の英語は訛りが強いと書いているものもあるが、私の印象ではこの評価はたぶんに「偏見」が含まれている。少なくとも若い世代では、アメリカ人以上に達者なアメリカ英語を話す人が多い。私と同じ世代(50代)では、訛りのある人も多いが、インド人やフィリピン人よりは癖が少ないと思う。

 

私が興味あるのは、むしろ中国語だ。以前、ハワイに住んでいたとき、日系人は二世になると日本語が話せなくなるが、中国系は二世、三世でも中国語を話せると聞いたことがある(実際、私の観察でもその通りだった)。この点を、今回、会議で知り合った中国系の(おそらく)50代の女性に聞いたところ、(家で使っていた)広東語なら話せるという。ただ、彼女の世代は、シンガポール政府の反中共政策により、学校で中国語を学ぶ機会がなく、漢字は十分に書けないという。その点、今の若い世代は学校で中国語(北京語)を習い、試験もあるので漢字を書けるはずだという。日本には、小学校からの英語教育反対論者がおり、その論拠は、日本語がおろそかになってしまうというものだが、私自身は、オランダや北欧、そしてシンガポールや香港の若者ができて、日本の若者ができないことはないだろうと思っている。

 

シンガポール人のほぼ全員が英語を話せるというのは、欧米資本の直接投資に対する大きな誘因の一つになっていると思われる。そして、日本以上に、海外との交易に依存せざるを得ないこの国にとって、それは大きなアドバンテージだ。しかし、私が一方で複雑な気持ちを抱いたのも事実だ。

 

シンガポール国立博物館での一コマ。英語を母国語とする白人女性2名(おそらく教師)が小学生のグループを引率し、展示物の説明をしていた。(100年ほど前の金持の中国人の)霊柩御輿を前に、“You know what this is?”“You know why it is?”などと、少々鼻につく上から目線の物言いで生徒に尋ねていた。外国人から外国語(?)で自国の歴史を学ぶということを、日本人は想像したり、受け入れたりすることができるだろうか。

 

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シンガポールと言えば、香港と並んで、欧米系多国籍企業のアジアにおける堂々たるビジネスセンターだ。その強力な国家主導による新自由主義的政策は(何たる名辞矛盾!)、日本にもかなりの信奉者がいるようだ。その評価はともかく、シンガポールの経済・社会政策は大変興味深い。私自身は、深く研究したことはないが、いくつかの興味深い論点を挙げることはできる。

 

2次大戦後の独立国としてのシンガポールの基礎を形作ったのは、言うまでもなく初代首相、リー・クアンユーだ。1963年に結成されたマレー人中心のマレーシアから、1965年、華人中心のシンガポールは分離・独立する。独立シンガポールで1990年にゴー・チョクトンにその座を譲るまでの25年間、リー・クアンユーは首相の座を務めた。彼が主要メンバーの一人として、1954年に結成した人民行動党(PAP : People’s Action Party)は、発起人の多くに労組関係者が名を連ね、「独立・民主・非共産・社会主義マラヤ」を標榜していた(萩原宣之『ラーマンとマハティール』岩波書店、1996年、p. 87)。

 

PAPのこのような前身からして、シンガポールでは労働組合の政治的影響力が強い(唯一のナショナルセンターは、シンガポール全国労組会議NTUC)。おそらく、ヨーロッパ諸国以外では、国政レベルでの政労使3者構成のガバナンスの仕組みが最も確立している国と言ってよいかと思う。(日本もかつては、そう言い得たが、2001年発足の小泉政権以降は、そのように言うことは困難だ。)

 

・ ともあれ、一昔前までは、シンガポールと言えば、社会主義的、専制的、規制国家といったイメージが強かったことは否めない。アメリカの経済学者、スティグリッツは、強権政治はたまにいいこともあるが、多大な害悪をもたらしたと述べ、その「たまにいいこと」をもたらした例としてリー・クアンユーを挙げたものだ。

 

In practice, we see the great harm, as well as the occasional good, that has resulted from strong leadership: Mao’s great economic failures the backyard furnaces and the conversion of land to wheat involved untold costs; Stalin and Hitler must be included in the roster of strong leaders whose negative net product must be tallied against the occasional good leadership, such as that of Lee Kuan Yew in Singapore (Stiglitz, Joseph E. Whither Socialism? The MIT Press, 1994, p. 160).

 

・ 市民生活に関するさまざまな規制や、交通渋滞緩和のための自動車購入に対する数量制限や高率課税は今も健在だ。こうしたシンガポールが、TPPの主唱国の一つであり、欧米の多国籍企業から高い評価を受けているのは何とも皮肉なことだ。自由化とか規制撤廃という言葉は、理想状態へ近づくかのごとき語感があるが、もっと冷静に考える必要がある。この地球上にルールのない国はない。そして、特定のルールは誰かにとっては有利であり、誰かにとっては不利である。つまり、ルールをなくす、という選択肢はないのであって、どのようなルールにすべきかが問題なのである。

 

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それにしても、シンガポールの永遠の(?)与党、人民行動党(PAP)というのは、もはや社会主義政党ではなくなってしまったのだろうか。PAPのホームページを見ると、その使命(mission)は、“To build a fair and just society where the benefits of progress are spread widely to all.”(進歩の利益がみんなに広く行きわたるよう、フェアで正しい社会を築くこと)だ(http://www.pap.org.sg/)。そして、それを取り巻くように4つの基本理念(core values)がある。“Honest”(正直)、“Multiracial”(多人種)、“Meritocratic”(実力主義)、“Self-reliant”(自助)だ。4つめの「自助」の項には、ご丁寧に“We will avoid creating the dependency syndrome a welfare state generates.”(福祉国家が生み出した依存症候群を避ける)とある。どうやら社会主義とは決別したようだ。

4つの基本理念から派生した7つの特徴がさらに続くが、いずれも政党と言うよりも、企業の理念、目標のようだ。イデオロギー色は極力抑えられているが、「フェアで正しい社会」が具体的に何を意味するかは、イデオロギー抜きには決まらない。それが、「実力主義」や「自助」で決まるとすれば、ずいぶん「新自由主義的」と言ってよい。開発独裁から新自由主義への転換、きわめて興味深い現象だ。

 

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シンガポールの2012年の人口は531万人で東京都23区(900万人)の約6割、面積は716km2で東京都23区(621 m2)の約1.15倍だ(シンガポールの数値は、Department of Statistics Singaporeによる)。人口密度は東京都23区の約半分になる。つまり、過密度合いは東京都心より低いが、面積は東京都心よりやや大きい程度で、まさにコンパクトで効率的な都市国家と言える。そのことだけからしても、日本全体がシンガポールのようになることは想像しにくい。しかし、このユニークな国は、社会科学者に多くの知的好奇心を呼び起こす。そんなことをあれこれ考えながら、シンガポールの最後の夜を過ごした。

 

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シンガポール-国立博物館、アジア文明博物館 [シンガポール]

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2013317日から31日にかけて掲載したシンガポール出張記の続編である。出張の最終日(315日)、日本へのフライトが深夜発便だったので、日中は博物館巡りをして過ごすことにした。午前中はチャンギ刑務所礼拝堂・博物館を訪れたが(2013331日付、当ブログ参照)、午後は国立博物館(冒頭の写真)とアジア文明博物館を訪れた。

 

<国立博物館>

2013_03Singapore3417_2.jpg(画のタイトルは“Colonial order?”

2013_03Singapore3424_2.jpg(川と掘立て小屋)

 

国立博物館は、フォート・カニングと呼ばれる丘陵地にあるモダンな建物だ。ただ、入口や券売所の場所がわかりにくく、ライフスタイルギャラリー(映画、写真、食事、ファッションなどの部屋に分かれている)も正直言って期待外れだった。中心は、歴史ギャラリーだが、入口で音声ガイド機器をもらわなかったので、ただ見て感じるだけに終わってしまった。入場するとき、展示物に説明はついていませんよと忠告を受けたのだが、どうも私は音声ガイド機器を聞きながらのんびり回るというのが苦手なのだ。また、IKEA方式を真似たのか、順路通りにちゃんと回らないと、引き返したり、途中で出たりするのが大変だった(笑)。

 

内容面では、この国の歴史がいかに新しいかを再認識させられた。最も古い時代の遺物は1415世紀の陶器のかけら、シンガポール川から発見されたという解読不能な文字が刻まれた白い石などであり、絵画、写真、遺物などが増えるのは、19世紀、イギリスに植民地化されて以降だ。日本占領時代に関する展示もあったが、どのように説明されているのか、音声ガイド機器なしではわからなかった。

 

<アジア文明博物館>

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2013_03Singapore3467.JPG(仏陀座像、18世紀ころ、ビルマ)

2013_03Singapore3473.JPG(金箔の肩掛け、19世紀、南スマトラ)

2013_03Singapore3477.JPG14-17世紀、明王朝)

2013_03Singapore3479.JPG1938年、中国)

2013_03Singapore3481.JPGハリハラ16-17世紀、アユタヤ王国)

 

アジア文明博物館は、シンガポール川の河口近くにある。シンガポールの歴史に関する展示、パネルのほか(Singapore River Gallery)、東南アジア(Southeast Asia Galleries)、西アジア(West Asia / Islamic Galleries)、中国(China Gallery)、南アジア(South Asia Galleries)という地域別に分かれた展示室には、かなり充実した展示物、説明パネルが並んでいた。


シンガポール-「昭南島」いずこ [シンガポール]

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シンガポールのチャンギ(島の東部)というと、世界有数のハブ空港、チャンギ国際空港(Changi International Airport)がまず思い浮かぶ。以前、シンガポールに来たとき、飛行機の着陸から空港を出るまでの時間が短いことに驚いたが、今回も入国管理は行列の割にやや時間がかかったものの、飛行機に預けた荷物がベルトコンベアーに出てくるまでの時間の短さは相変わらずだった。

 

チャンギには、近代的な建物のチャンギ刑務所(Changi Prison)もある。ここは、第2次大戦中、日本軍がシンガポールを占領した際、イギリス兵、オーストラリア兵などの戦争捕虜(POW: prisoner of war)を収容した場所でもある。一般の刑務所を戦争捕虜の収容所として使うのは、国際的には稀なことらしく、イギリス、オーストラリア、オランダ(インドネシアから民間人が連れてこられた)などでは、チャンギと言えば日本軍の残虐さを象徴する場所とみなされているらしい。

 

さて、捕虜たちが刑務所内で建てた礼拝堂のレプリカを含むミュージアムが1988年にオープンしたが、刑務所内では観光客の訪問にも何かと支障があるので、2001年、刑務所の施設外の近くの場所に、チャンギ刑務所礼拝堂・博物館(Changi Prison Chapel and Museum)として移設された。

 

私がこのミュージアムに行ってみようと思ったのは、会議に一緒に参加していたオーストラリア人のマーケティング学者が一足先に行って、「想像していたよりeducational(教育に役立つ、知らないことを学べる)だった」と教えてくれたからだ。彼は、日本人である私に遠慮したのか、“educational”の内容は語らずに、少し話題を変えて、一緒にいたベトナム人の女性に、ベトナム戦争がベトナム人からどう評価されているのかを尋ねた。それに対する彼女の答えは、私にとってもオーストラリア人にとっても“educational”だった。

 

「私たち、そもそもベトナム戦争(Vietnam War)って呼んでないんだけど。アメリカ戦争(American War)って呼んでるの。その前のはフランス戦争、あとのは中国戦争。」

 

見る人の視点によって物事の認識がどう異なるかを鮮やかに示した一言で、この話題はこれでお終いとなった。

 

そんなこともあって、私は主張用務が全て終わったあと、1日だけ滞在を延長して、チャンギ・ミュージアム、国立博物館(National Museum of Singapore)、アジア文明博物館(Asian Civilisations Museum)など歴史の勉強ができる施設を集中的に訪問した。

 

チャンギ・ミュージアムへの交通の便は決してよくない。私の場合は、MRT東西線でタンピーンズ(Tampines)駅まで行き、そこからタクシーに乗った。運転手さんは中国系のおしゃべりな人だった。チャンギ・ミュージアムに行きたいというと、それは刑務所の中にあると言う。既に述べたようにそれは10年以上も前の話だが、彼は実際に刑務所の門をくぐって、守衛さんに新しいミュージアムの場所を聞き出すまで納得しなかった(ということは、このミュージアムを訪れる人があまりいない、ということでもあるのだろう)。

 

最初は、なぜチャンギ・ミュージアムに行きたいのかとか、日本兵がマレー半島を自転車で南下してきた話などをしていたが、そのうち個人的な話になった。1952年生まれの61歳、カミさんと別れ、子供たちも面倒を見てくれないので、今でも118時間働いている、今のシンガポールはバブルだ、将来性があるのはマレーシアの方だ、日本はどうか、・・・など退屈しなかった。帰りは、ミュージアム前のバス停で待っていれば簡単にタクシーをつかまえられると言われたが、タクシーはなかなかやってこない。結局、路線バス(29番)でタンピーンズ駅まで戻った。

 

肝心のミュージアムだが、内部は撮影禁止だったため写真は撮っていない。日本軍が占領する前、占領中、日本軍降伏後と時系列にしたがって、主にシンガポール人の生活や戦争捕虜の扱いなどを説明しており、当時の写真や遺品、そして関係者の証言などが展示されていた。日本兵が、現地の一般市民に対しても理不尽な暴力をふるったり、徴用したりしたといった記述が多く、気が滅入った。また、私以外の訪問者は全員白人で、寄せ書きのコーナーには、POWの親族である旨を記したカードが多かった。

 

このあと、市内に戻り、戦争記念公園とその中央にある日本占領時期死難人民記念碑を再訪した。周囲に高層ビルが増え、以前よりひっそりと目立たなくなっているように感じた。国立文化遺産局(National Heritage Board)の説明文を以下に引用しておこう。

 

Civilian War Memorial

This memorial is dedicated to all those who perished during the Japanese Occupation of Singapore, 1942-1945. Four vertical pillars soar to over 70 meters symbolising the shared war experiences of the Chinese, Indians, Malays and other races. The remains of unknown victims are interred beneath the monument.

 

The site was given by the Government of Singapore which also met half of the construction cost. The balance was contributed by the Singapore Chinese Chamber of Commerce and the people of Singapore. The monument was unveiled by then Prime Minister Lee Kuan Yew on 15 February 1967, the 25th Anniversary of the fall of Singapore to the Japanese.

 

Among the civilians who lost their lives were numerous Chinese targeted by the Japanese under the Sook Ching (literally “to purge” or “to eliminate”) operations. On 18 February1942, large numbers of Chinese were forcibly assembled at designated mass screening centres. Many were unjustly accused of involvement in anti-Japanese activities, or arbitrarily condemned. No one will ever know how many were taken away and massacred. Unofficial figures put the number of dead at about 50,000.

 

<チャンギ刑務所礼拝堂・博物館>

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<戦争記念公園、日本占領時期死難人民記念碑>

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*冒頭の写真は、シンガポール国立博物館にて。

 


シンガポール-マリーナ・エリア [シンガポール]

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しばらく花見気分で桜の写真などをアップしていたため、シンガポール報告を中断したが、再開したい。

 

シンガポール観光のシンボリックな存在と言えば、かつてはシンガポール川の河口に立つマーライオン像(Merlion、写真↑)だった。以前は、このマーライオン像が見渡す先、目立つものは何もなかったが、今や、3本のタワービルを屋上の空中庭園がつなぐ巨大ホテル、マリーナ・ベイ・サンズ(2010年開業)が立ちはだかり、その周囲も急速に再開発が進んでいる。

 

私はまず、マーライオンを出発点にして、シンガポール川を少しさかのぼった。ここはトマス・スタンフォード・ラッフルズ(1819年、シンガポールを開港し、植民地化の先鞭をつけたイギリス人)上陸の地であり、その北側には国会議事堂、最高裁判所などがある。一方、南側にはボート・キー(Boat Quay)と呼ばれるテラス式のレストラン街があり、その周囲には高層ビルが建ち並ぶ。以前来たときよりも、随分きれいになったような印象を受けた。

 

<↓シンガポール川とラッフルズ上陸記念の地>

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<↓ボート・キー>

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再びマーライオン近くまで戻って、今度は、マリーナ・ベイの北岸(マリーナ・プロムナード)を沖合方向に向かって歩いた。この岸にも新しい施設や建物が多くあるのだが、目はどうしても右手のマリーナ・ベイ・サンズ(Marina Bay Sands)に向いてしまう。マリーナ・ベイ・サンズの(北岸から見て)右手、下はショッピングセンターやカジノが入る建物で、さらにその右手の蓮の花のような形をした建物はアート・サイエンスミュージアム(Art Science Museum)だ。一方、マリーナ・ベイ・サンズの左手には熱帯雨林を模したガーデンズ・バイ・ザ・ベイ(Gardens by the Bay)が広がり、恐竜のような形をした建物は植物園だ(Flower DomeCloud Forest)。

 

マリーナ・ベイの北岸からマリーナ・ベイ・サンズには橋(The Helix)が架かっており、それを渡って、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイを散歩した。まだところどころ工事中だったが、これが完成したら、人工の「自然」と近代建築が同居するユニークな見所になることは必定と思われた。日が暮れてきたので、マリーナ・ベイ・サンズに戻って、今度はマリーナ・ベイの南岸からラッフルズ・プレイス駅(Raffles Place)まで歩き、帰路についた。

 

長期の経済停滞が続く日本から見ると、まるで別世界のようだったが、翌々日乗ったタクシーの運転手さん(61歳)は、「これはバブルだ」とはっきり断じていた。

 

<↓マリーナ・ベイ北岸からの光景>

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<↓ショッピングセンター>

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<↓ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ>

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<↓ガーデンズ・バイ・ザ・ベイとマリーナ・ベイ・サンズの間を通る高速道路>

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<↓マリーナ・ベイ・サンズホテル>

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シンガポール-オーキッド・ガーデン(2) [シンガポール]

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(承前)

 

シンガポールの国立オーキッド・ガーデンの写真の続きである。オーキッド・ガーデンには大いに満足したが、少しだけ心残りがある。私は名所を訪れるとき、事前にガイドブックなどをあまり熱心に読まない。このオーキッド・ガーデンでも、入口で地図やパンフレットをもらったが、中は見ずに、適当に歩いて回った。そしてガーデンを出たあと、パンフレットをよく見ると、少なくとも2つ、見所を見逃したことに気がついた。

 

一つは、「クールハウス(Cool House)」というヒンヤリした霧が常にあたっている建屋があり、私も通ったのだが、そこにかねてより見たかった食虫植物(ウツボカズラなど)があることに気がつかなかったことだ。もう一つは、庭園の奥まったところにあるVIP蘭園やオーキダリウム(Orchidarium)を見逃してしまったことだ。VIP蘭園には、ここを訪れた世界のVIPの名前がつけられた新しい交配種の蘭があり、オーキダリウムにはこの庭園に展示されている原種の蘭のほとんどがあるという。

 

でもまあ、これら抜きでも十分に楽しめたので後悔はすまい。温室内ではなく、自然の環境でこれだけ多種類の蘭を見られるというのは、日本ではまず望めない。

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シンガポール-オーキッド・ガーデン(1) [シンガポール]

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シンガポールの国立オーキッド・ガーデン(National Orchid Garden、国立蘭園)は、ボタニック・ガーデンの中ほどにある。この区画だけは有料で、大人は5ドルだ。入口からせり上がっていく緩い傾斜地にあり、道すがら両脇にはさまざまな種類の蘭が咲き乱れている。私は蘭に関してはほとんど無知だが、夢中で写真を撮り続けた。パンフレットに、“The largest display of tropical orchids in the world”(世界最大の熱帯蘭の展示)とあるが、決して誇張ではない。

 

以下、次回と2回に分けて、それらの一部の写真を掲載したい。

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シンガポール-ボタニック・ガーデン [シンガポール]

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<↑Eco Lake

 

今回のシンガポール出張(311日~16日)で、空き時間に是非行ってみたいと思っていたところがある。シンガポール植物園(Singapore Botanic Gardens)だ。幸い、私が宿泊していたホテルの最寄り駅(Buona Vista)からはMRTサークル線で3駅目(Botanic Gardens)と近く、朝の8時に出て昼の11時にはホテルに戻ることができた。

 

この公園は年中無休で早朝から夜中まで開いている。実際、朝早くからジョッギングや散歩をする人、太極拳やエアロビダンスをするグループなどを見かけた。お目当てのオーキッド・ガーデン(National Orchid Garden、国立蘭園)を目指したが、入口から結構遠い。小径も複雑だったが、矢印の標識に従えば迷うことはなかった。ただ、着いてみると830開園(1900まで)とのことで、まだしばらく時間があった。そこですぐ横にあるジンジャー・ガーデン(Ginger Garden、ショウガ園)をざっと見てから戻った。

 

植物園自体も素晴らしかったが、オーキッド・ガーデンではまさに至福の時を過ごすことができた。次回、その写真を掲載したい。

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ブーゲンビリア(Bougainvillea)>

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街角でもよく見かける蘭の一種>

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↓Symphony Lake

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↓Ginger Garden

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↓Rainforest

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カポック(Kapok)の木。根元が恐竜のような大木だ。

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11年ぶりのシンガポール [シンガポール]

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先週1週間、シンガポールに行ってきた。古いパスポートを調べると、シンガポールにはこれまで19972月と20022月の2回、行っている。1997年は外国人労働者問題のヒアリング調査が目的であり、また、2002年は東南アジア諸国の経営者団体による「国連・グローバル・コンパクト」(UN Global Compact)に関するワークショップにコーディネーターとして参加するためだった。今回の目的は、シンガポールのNPOによるCSRCorporate Social Responsibility)に関するパネル・ディスカッション、講演、授賞式等に参加することだ。

 

11年ぶり」と言うと、現地の人からは、「じゃあ、随分変わったでしょう」と異口同音に言われた。確かに、マーライオン(Merlion)は以前もあったが、その沖合の巨大な構築物(Marina Bay Sands)はなかった。マリーナ・ベイを取り囲むようにして立ち並ぶ高層ビル群はまるでニューヨークのマンハッタンを思わせる。それでもまだ足りないのか、街のあちこちで高層ビルが建築中だった。「街がどんどん変わってしまって、以前ここがどうだったのか、自分たちもわからなくなってしまう」と複数の初老のシンガポール人が言っていた。私も、マリーナ・ベイ・サンズなどが立ち並ぶ沖合に以前、何があったか全く思い出せない。20代のシンガポール人に聞いたところ、単なる原っぱで、地元の子供たちがたこ揚げなどをしていた場所だと言う。

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今回の出張では、パネル・ディスカッションやその合間の参加者間の会話などを通じてCSRに対する私自身の考えを深めることができ、また、植物園やミュージアムなどを訪れ、シンガポールの自然や文化・歴史に関しても見聞を広めることができた。その一端を何回かにわたって紹介したい。

 


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