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葉桜と気負いなき日々、そしてある恩人を偲んで [自分]

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東京都心は桜も終わり、葉桜の季節となった。私は、花見の喧噪が去り、若々しい新緑へと静かに移り変わるこの時期が好きだ。

 

葉桜の中の無数の空さわぐ   篠原 梵

葉桜やなにも気負ひのなき日々に   田中律子

葉桜となり山の木に紛れ込む   堀川 健

葉桜やまた歯車の月曜日   大林信爾

 

2001年の5月、私にとって葉桜はとりわけ愛おしい、まばゆいものだった。その年の2月の終わり、札幌で左足を複雑骨折し、3月中は入院、4月には退院したものの、車イスや松葉杖生活で、花見の機会はなかった。そして、ようやく歩けるようになって神田川沿いを散歩したとき、葉桜の並木がわたしを迎えてくれた。何か、静かにふつふつと生気がみなぎるように感じた。

 

その時、札幌から東京の病院への転院手続きや身の回りの諸事で大変お世話になったのが、当時K大学病院の看護副部長をしていたOSさんだ。彼女にはどれだけお礼を言っても言い尽くせない。その彼女が今年の3月、膵臓ガンで急逝してしまった。私からは何のご恩返しもできないうちに。一昨日は、氷雨の降る中、その「偲ぶ会」に参加したが、悲しみがこみ上げるばかりだった。

 

彼女は人生でいろんなことを背負いながら、そんなことはおくびにも出さず、ひたすら他人に献身的だった。他人をよく見て、冷静に評価する人でもあった。葉桜の季節は、私にまた新しい思い出をつけ加えた。 合掌

 

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*写真はいずれも2015412日、神田川沿いで撮影。


石流れ木の葉沈む日々 [自分]

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私が北陸から上京して東京の大学に入学したのは1970年代後半だ。1971-72年の連合赤軍事件などを経て、既に左翼運動は下火になっていたが、入学してみると都会の有名進学校出身者を中心に左翼シンパ的な学生が結構いるのに驚いた。一種のファッションだったのかもしれない。あるとき、そうした学生の一人が『石流れ木の葉沈む日々に』(1977年)という本を大学に持ってきて、得意げにその内容を話していた。この本は、東北大学出身の高野達男氏が、在学中学生運動に参加したことを三菱樹脂の採用面接で隠したことが入社後発覚して本採用を拒否され、その解雇撤回を訴えて起こした裁判を、高野氏を支援する側から描いた記録だ(たぶん)。当時私はこの本の内容にさして興味は湧かなかったが、そのタイトルは妙に心に残った。「石流れ木の葉沈む」。「物事が逆になることのたとえ」(三省堂『新明解国語辞典 第四版』)だ。

 

人間というのは不思議なもので、どちらかと言えば左翼嫌いの私が今年になってこの言葉を何度か思い出すようになった。一つには、「戦後レジームからの脱却」を唱える首相が、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行った。はたしてこれが、首相が言うように抑止力の向上になるのかどうか、閣議決定文書にも再三登場する「積極的平和主義」の内実は何か、何よりも憲法の平和主義に違背しないのか、疑問は尽きない。

 

学問の世界でも信じられないような事態が進行している。小保方事件だ。多くの研究不正が認定ないし指摘されているが、それに対して本人から客観的事実を踏まえた説得的な説明はほとんど全くなされておらず、勤務先研究機関および博士号授与機関からも、未だ正式な処分決定はなされていない。文部科学大臣を含め、一部政治家などからは彼女を弁護するような発言まで出る始末だ。

 

いいものはいい、ダメなものはダメ、という真っ当な倫理基準が失われてしまったのだろうか。戦後69年、石流れ木の葉沈む世の中になってしまった。

 

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写真はいずれも日光・戦場ヶ原にて。ほぼ同じ時刻に同じ場所を撮っているが、撮る位置、角度によって随分違って見える。


大阪中之島-福沢諭吉誕生地 [自分]

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上の写真は、昭和30年代前半、大阪中之島の福沢諭吉誕生地碑と私だ。当時私は大病を患い、大阪大学付属病院に入院していた。ただし、幼すぎて本人に記憶は全く残っていない。数年前、大阪に行った際、もしこの碑が残っていれば訪ねてみたい、とふと思った。大阪市役所まで聞きにいったところ、福島区の玉江橋北詰にあるとのことだった。しかし、行ってみると大きなビル(朝日放送本社)を建築中で、辺りは塀に取り囲まれ、碑は一時的に撤去されていた。

 

その後、大阪に行く機会はなかったが、先週末、ようやくその機会がめぐってきた。その際撮ったのが下の写真だ。随分きれいに整備されていたが、慶応大学のホームページによると、2010年に碑の洗浄等が行われたようだ(http://www.fmc.keio.ac.jp/research/cat36/post_4.html)。ここを訪れる人の大半は、福沢諭吉に連想をめぐらすことと思うが、私の場合は、自分を一生懸命育ててくれた両親に思いが及ぶ。入院中、私の世話をしていたのは母親だし、上の写真を撮ったのは父親だ。父親の勤務地は新潟だったので、たまにしか来られなかったはずだ。そのお陰で今の私がいる。

 

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ところで先日、山田洋次監督の映画「小さいおうち」を見たが、松たか子演じる時子奥さまの一人息子、恭一君が私と同じ病気に罹ったシーンが出てきた。彼の場合、女中のタキによる献身的なマッサージのおかげで、映画の中ではすっかり快癒したように見えた。この映画自体はとても気に入ったが、唯一合点がいかなかったのがこの箇所だ(笑)。

 

私の場合は、大阪大学付属病院を退院して新潟の自宅に戻り、母親から毎日マッサージを受けることになる。私の記憶が微かに残っているのもこの頃(23歳)以降だ。近所の魚屋さんのお婆ちゃんが按摩師だとかで、週一回通ったりもした。覚えているのは、私はマッサージを受けながら、その家の男の子たちと一緒にテレビの「月光仮面」を見ていたことだ。ともあれマッサージの甲斐なく、大きな後遺症を背負ってその後の人生を歩むことになったが、そのことは私にいろんな時期にさまざまなことを考えさせるきっかけになったことは確かだ。

 


【号外】「ラーメンの鬼」佐野実氏のご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りします [自分]

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411日(金)の夕方、たまたま見ていたTBSのテレビニュースで「ラーメンの鬼」佐野実氏(満63歳)の逝去を知った。ショックだった。新横浜ラーメン博物館のホームページにも訃報が載っている。

 

私が佐野実氏を(テレビで)知ったのは20012月下旬だ。旅行先の札幌で左足首を複雑骨折し、そのまま市内の病院に救急車で運ばれ入院した。大部屋で(当然ながら)知人もおらず、テレビを見て過ごすことが多かった。そんなとき、不安と心細さから寝付かれず、夜9時の消灯時間過ぎに、チャンネルをあちこち回しながら見たある番組がなぜか目に止まった。TBSの「ガチンコ!」だ。ラーメン屋のカウンターで、佐野が今食べたばかりのラーメンにいくらの価値があるかを、10円玉や100円玉を、碁石を指すようにパチッ、パチッと音を立てて置いていく。これはいったい何なんだ、そしてこのおっさんは何者なんだ。何だかいかがわしい番組のように感じたが、やめられなかった。それ以来、このシリーズが終わるまで、毎週火曜日の夜9時から欠かさずに見た。そして、退院後はラーメンやボクシングなど気に入った企画は全てビデオにとって、繰り返し見た。

 

「ガチンコ!」のファンだと言うと、インテリ然とした知人の中には、あれはヤラセだよと批判する者も多かった。確かにシナリオや演出はあったと思うが私は気にならなかった。全くの演技だとしても、素人があそこまでできれば立派なものだ。商売の厳しさ、ラーメンの奥深さなど、佐野のセリフは含蓄に富んでおり、共感することが多かった。今で言うパワハラの気味もあったが、それは教える相手によると思う。つまり、そういうやり方でないと伝わらない相手もいる。もちろん相手にも選択権はある。実際、佐野は去る者は追わずだった。弟子たちの店も何ヵ所か行ったが、いずれも美味しかった。上の写真は、そのうちの一軒に貼ってあったポスターだ。

 

佐野さん、有り難うございました。心よりご冥福をお祈りします。合掌

 


金沢-久しぶりの奥卯辰山墓地 [自分]

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先週末、金沢に帰省し、久しぶりに父親の墓を墓参した。前回は約1年前だった(2013427日付、当ブログ参照)。自宅からの最短経路は、浅野川を渡り、鈴見台と若松台の間あたりの山道を上るルートだ。このルートは、私が子供のころからさほど変わっていない。結構深い竹林があることは以前から気になっていたが、その辺りをよく見ると、木々が芽吹いたり、野草の花が咲いたり、春の訪れを実感した。

 

あらためてお墓を見ると、昭和49年(1974年)建立。当時、母親は40代半ば、私は10代後半だった。それが今は80代半ばと50代後半。当然の算術だが、この間のさまざまな出来事を考えると、なかなか言葉にならない。お墓の前に咲いていた紅い椿が見事だったが、それに免じて息子の親不孝を赦してもらいたい。

 

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「福寿荘 三畳一間で 一万円」 [自分]

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先々週、N社の写真講座の撮影実習で新宿御苑に行ったことは既に記した(201426日付、当ブログ)。温室で写真を撮り終えたあと、福寿草の写真を撮りに行こうということになった。そのとき、連れだって歩いていた年長の男性が私に語りかけたのが上の一句だ。私は、最初なんのことかわからなかったが、「福寿草」を「福寿荘」とかけていることに気づき、ようやく了解した。(故)5代目春風亭柳昇師匠の「雑俳」らしい。

 

私が上の句にピンとこなかった理由はもう一つある。1976年、大学に入学して上京した際、最初に入った学生寮は3畳一間だったが、家賃は1万円よりもう少し高かったような気がする。おそらく私に話しかけてきた男性は私より数年年長なのに違いない。オイルショックの前後で物価水準はかなり変わったからだ。

 

それにしても「○○荘」というのは懐かしい。私は「○○学生寮」のあと、「○○様方」に住み、就職して「○○独身寮」に住んだ。そのあと、20代の後半は「○○荘」だった。いずれも、共同トイレはあったが、(個別の)お風呂や台所はなかった。クーラーもなかった。今にして思うと、どのように暮らしていたんだろうと不思議な気がする。


日経新聞の「春秋」欄から-「バンドワゴン効果」 [自分]

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私が、自分で新聞をとりはじめたのはたぶん大学3年生のときで、「朝日新聞」だった。別に朝日のやや左がかった(と、当時は思われていた)論調が好きだったわけではない。下宿先の大家さんと同じ新聞を購読することが、集金の際の都合上便利だったというに過ぎない。その後、就職してからは「日本経済新聞」に変更した。これまた、仕事上の必要という実利的な理由からだ。何せ私が就職した職場はエコノミストだらけだったので、日経を読んでいないことには日常会話について行けなかった。さらに、仕事面でも支障をきたすことになる。例えば、課長から朝、「○○君(私のこと)! 今日、日経に載ってた××の△△調査、手に入れておいて!」などと言われることがしょっちゅうだったからだ。

 

その後、2008年にヨーロッパに行くまで、日本に住んでいたときはずっと日経をとっていた。しかし、2010年に帰国してから日経の講読を再開する気にはなれなかった。正確に言うと、日本の新聞はどこもとる気がしなかった。新聞はしばしば政治的なキャンペーンを張る。それによって、取り上げるニュースや取り上げ方も露骨に異なる。インターネットの発達で、各紙の記事を読み比べたり、新聞が取り上げないようなさまざまな真偽の不確かな情報を目にしたりすることが容易になるにつれ、特定の新聞を高い料金を払ってまで講読する気は起きなかったのだ。

 

しかし、ようやく昨年の後半になって、自分に興味がないことも含め、多少は世の中の動きを知っておくには、新聞を講読した方が良いかなと思い直し、日経の購読を再開した。インターネットでは自分の興味があること以外、積極的に情報収集する気になれないが、新聞はただパラパラと紙面をめくれば、興味がないことでも目に入ってくる、という違いがある。

 

前置きが長くなりすぎたが、日経新聞を読み始めて気づいたことの一つは、「社説」や13面あたりの記事と「春秋」というコラム欄の論調の違いである。前者は新自由主義的な観点が色濃く出ていることが多いのに対し、後者は、やや左がかったというか(笑)、時の政権にも距離を置いたような論調が少なからず見られる。「春秋」の執筆者は各部の記者が日替わりで担当しているらしいが、なかなか「大人」が多いな、と実は私は結構評価している。

 

つい先日(24日付け)も、「バンドワゴン効果」にこと寄せて、大阪市の橋本市長に批判的と読める内容が載っていた。私が読んでもほとんど違和感のない内容だ。このコラムが載ったあと、ある有名「作曲家」のゴーストライター問題が発覚したが、彼のCDが大いに売れたのも一種の「バンドワゴン効果」だったと言えるだろう。

 

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そう思って、この記事を再読してみると、「バンドワゴン効果」について、「政治の世界では見馴れた光景だ」、「ビジネス界にも似た現象がある」と2つの業界をやり玉に挙げている。あれっ、マスコミは? 「現代のベートーベン氏」が一部でブームを呼ぶようになったきっかけは、そもそもマスコミが好意的に取り上げたからだ。また、マスコミは、民主党政権末期に消費税引き上げのキャンペーンを張っていたが、そのとき盛んに言っていたのは財政赤字と社会保障制度の立て直しだったはずだ。今、そのどちらにも目処がついていないのに、マスコミはほとんど騒いでいない。一体どうしたことか。それに追い打ちをかけるように、公共放送の会長や経営委員会は、自ら狂信的に鉦や太鼓を打ち鳴らす「バンドワゴン」と化したようだ。世も末か。

 

冒頭の写真は、以前、倉敷のチボリ公園(2008年末に営業終了)で買った「裸の王様」のぬいぐるみ。自戒の念も込めて大切にしている。


2014年の新年を迎えて [自分]

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ここ10数年、年賀状には自分で撮った写真を使っている。今年は、昨秋11月に訪れた箱根・長安寺の五百羅漢の一つを使った(2013118日付け、当ブログ参照)。ちょっと猫背で頭が禿げているところが私と似ており(笑)、いかにも一徹な頑固親父といった風情だ。何よりも直ぐ目先ではなく、ちょっと遠い先を射貫くような視線がいい。

 

今年は、あまり周囲のことにとらわれず、前に向かって歩んでいきたいと思い、この写真を選んだ。

見知らぬ読者の皆様、本年もどうぞよろしくお願いします。


冬の北陸-金沢、内灘(2) [自分]

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(承前)

 

金沢から近い海辺と言えば内灘だ。港としては、金石(かないわ)や大野があるが、私はまだ行ったことがない。内灘は子供のころ、夏に海水浴で何度か行ったことがある。また、高校時代、日本史のS先生から「内灘闘争」の思い出話を聞いたこともある。金沢駅から北陸鉄道浅野川線という2両編成の小さな電車に乗って17分で内灘駅に着く。

 

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電車に乗ってしばらくすると雨が激しく降ってきたが、内灘の一つ手前、粟ヶ崎(あわがさき)を通過するころには止んでくれた。内灘駅から砂浜までは歩いて10数分だろうか。人っ子一人いない砂浜に出て、20分くらい、冷たい風が強く吹きすさぶ中、バチバチとシャッターを切った。幸い、その間に激しい雨が降ることはなかったが、雲の動きは激しく、天気も目まぐるしく変わった。帰りの電車に乗ったころは、また雨と霰だった。久しぶりに「北陸の冬」を味わった。なぜか心地よかった。

 

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冬の北陸-金沢、内灘(1) [自分]

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週末、金沢の実家に帰省した。飛行機を利用したが、小松空港から金沢駅までバスに乗るので、結局、金沢駅を経由することになる。駅舎の一部は北陸新幹線開業を目指して工事中だった。また、駅前に小さなプレハブのスペースがあり、何かと思ってみると、新しい新幹線のファーストクラス車両に装備される座席が展示されていた。「グランクラス」というのだそうだ。「グラン」(grand)という以上、「クラス」(classe)もフランス語だろうか。だったら、「クラス」は女性名詞なので、「グラン」ではなく、「グランド」(grande)でなければならないはずだが、・・・。しかし、敵も然る者、「グランクラス」のホームページを見るとつぎのような説明が載っていた。日本語って便利、というかいい加減だ(笑)。

 

フランス語で「大きな」の意味を表す「Gran」と、英語の「Class」を由来とする造語で、高級感に加え、大きな特徴であるゆとり・居住性を表現しています。

 

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駅からタクシーに乗った。運転手さんと金沢弁でいろいろ話したが、新幹線開通後の影響を必ずしも楽観していないようだった。金沢への来訪者は増えるだろうが、ビジネス客の場合、泊まりがけ出張が減って、日帰り出張が増えるだろうというのだ。北陸地方の個人タクシーの運転手さんの同業者組合があるらしく、その集まりで、新潟の運転手さんから、上越新幹線開通後、そうしたことが起きたと言われたのだそうだ。さて、どうなることか。

 

ところで、「冬の金沢」というと、「カニが食べられていいですね」とよく言われる。確かに、「金沢の台所」、近江町市場(おうみちょういちば)では、この時期、カニを売る店が多い。しかし、地元の人は一体どれくらいカニを食べているのだろうか。何せ1杯、数千円以上もするのだ。少なくともわが家ではほとんど全く食べたことがない。もちろん、その分、観光客が散財してくれるのは大歓迎だ(笑)。

 

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私にとって(あるいは地元の人も多くがそうだと思うが)、冬の金沢といえば、寒く陰鬱でコロコロと変わる天気だ。今回も、羽田で飛行機に乗るとき、「現地の天候次第では引き返すことを予めご承知下さい」とのアナウンスがあった。天気はそれほど荒れ模様ではなかったが、小松から金沢に向かうバスの車窓からは、低く垂れ込めた鉛色の空と荒々しく打ち寄せる波が見えた。そして、ときどき冷たい雨や霰(あられ)がたたきつける。何と言っても、これこそが北陸の冬だ。北陸に来た以上、それをちゃんと実感しなければと思い、翌日、海に行くことにした。

 

(次回に続く)


背負うべき十字架の数 [自分]

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「十字架を背負う」という表現がある。クリスチャンでもない私がここで「聖書」の解釈論議をするつもりはない。単に「心の負債」といった程度の意味で使う。人生が長引くにつれ、負債はどんどんたまり、天命(?)が、もうこの辺で放免してやろうと判断するまで累積していくんだろうな、という感覚が私にはある。そして、先週の金曜日、私が背負うべき十字架の数はまた確実に増えた。そのことについてはここで書かない。ただ、そのことがきっかけで、今日は東京都の北方面に出かけた。そして夕暮れ時、久しぶりに荒川の土手に立ち寄った。

 

冒頭の写真は、荒川と平行して流れる小さな川だ。鳥は常に群れているものと思っていたが、一羽離れて横断するものもいる。次の写真は、荒川沿いの土手下のススキだ。箱根仙石原のように広範囲に群生しているわけではない。ところどころに小さなグループがあるという感じだ。それがよけい侘びしさを感じさせる。

 

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帰りの電車は埼京線の浮間舟渡(うきまふなど)駅から乗った。(駅の近くに美味しそうな焼鳥屋があったので、つい立ち寄ってしまった。)埼京線に乗る機会はほとんどないが、この辺りでは新幹線と並走していることを再認識した。新幹線は何度も乗ったことがあるのに、そのことをほとんど意識していなかった、というのはちょっとしたショックだった。人間の意識には、明らかに自分中心に物事を見たり、感じたり、考えたりするというバイアスがあるようだ。それが改まらない限り、十字架の数は増えていくのだろう。

 

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金沢-K中学とN先生 [自分]

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一昨日から今日まで金沢に帰省した。昨年の秋以来だ。帰省の際は、父親の墓参をすることにしているが、今回もそうした。また、前回の帰省の際には、主に犀川周辺を散歩したので(20121123日~28日付け、当ブログを参照)、今回は浅野川周辺を散歩することにした。

 

私の自宅は浅野川の近くにあり、そこから奥卯辰山墓地(金沢市営)に行くには浅野川を渡らなければならない。浅野川のすぐほとりには、私が卒業したK中学があり、久しぶりに立ち寄ってみた。ちょっと確認してみたいものがあったのだ。私の中学生時代と言えば、もう40年前だが、当時N先生という大変印象深い先生がおられた(20121128日付け当ブログ、「金沢-長町武家屋敷」を参照)。

 

N先生は、主に1年生の英語の授業を担当しておられた。頭は坊主頭で、内股気味のすり足で小走りされ、話し方は今風に言うとオネエ言葉だった。江戸時代から続く金沢の有名な老舗のご子息であることは、生徒間の噂で知っていた(先生の苗字は、その老舗の屋号と同じだった)。とても熱心に授業をされ、宿題もとてもていねいに添削したりコメントしたりしてくれた。(宿題と言っても、アルファベットを繰り返し書くとか、“This is a pen.”のレベルだが。)私の英語の基礎は、N先生によってつくられたと言っても過言ではない。

 

悪ガキたちもN先生の前ではおとなしかった。N先生の圧倒的な情熱は、その外形的な柔さを忘れさせるような、ときに鬼気迫るものがあった。私は、あるとき先生がふと口にされた次の言葉を今でも鮮明に覚えている。「軍隊生活が、私を変えてしまった、と言う人がいます。」なぜ、そんなパーソナルなことを、どんな文脈で言われたのかまでは覚えていない。

 

N先生は、英語の授業以外に、もう一つの「活動」でも生徒に知られていた。校門を入ってすぐのところに小さな掲示黒板が建っており、先生は毎朝早く来られて、そこに「今日のことば」を書いておられた。内容はことわざや格言の類いだが、私が記憶する限り、N先生は一日も欠かしたことがなかった。今回、確認したかったのは、その掲示黒板がどうなっているかだ。10年くらい前だろうか、一度訪ねたときには、何も書かれていない掲示黒板が寂しそうに残っていた。そして、今回は掲示黒板自体が跡形もなく消えていた。その代わり、というわけでもないだろうが、昨夏のロンドンオリンピックで優勝した女子柔道選手の活躍を讃える横断幕が校舎に掛かっていた。それはそれで喜ばしいのだが、この横断幕もいつ外すのか、タイミングが難しいな、と他人事ながら気になった。

 

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私が卒業した後のN先生の消息は知らないが、1998年にK中学が発刊した「創立50周年記念誌」にN先生が寄稿しておられる。それによって、N先生がK中学に在職されたのは、昭和234月~昭和313月と、昭和404月から昭和503月の2度であることを知った。また、先生自身、「今日のことば」に大変な思い入れがあったことは、この寄稿文のタイトルが「今日のことば」であることからも改めて思い知らされた。

 

「さて、新校舎に移って以来、私は早朝出勤し、玄関前の掲示板に「今日のことば」を毎日書きました。これは約13年続きました。時には宗教的なことば、むずかしい諺を書いて注意されたこともありました。」

 

「さて、私は3年前に家族全員を失い、一時は悲嘆と追慕に明け暮れましたが、庄川町で聖路加看護大学学長 日野原重明先生に出逢い、ボランティア活動に参加するように勧められました。私は石川県民介護講習、その他に参加し、ホームヘルパー3級の資格をいただき、養護老人ホームで折り紙などを教えておあげしたり、デイサービスセンターでお年寄りの話し相手や歩行の介助、爪切り、また、時には一緒に風船バレーや双六をして遊んだりして生きがいをみつけようと努めております。」

 

「最後に、とくに私の心に響くことばを書きます。」

「忘己利他(伝教大師)」

「一隅を照らす(後漢書)」

「子供のときに良き節度を学び、青年時代には感情をコントロールすることを学び、中年には正義を学び、老年になってはよき助言者になることを学ぶ。そして悔いなく死ぬ。(ギリシャのアポロ神殿の碑石に彫られていることば)」

 

「とくに私の心に響くことば」は全部で18挙げられているが、私が特にN先生らしいと思った3つを上に引用した。

 

     *     *     *

 

K中学で、このほか変わったこととしては(あくまで外から見ての話だが)、校地のすぐ脇に浅野川を跨ぐ歩行者用の橋ができたことがある。私が中学生だったころ、対岸は、高台の宅地造成がポチポチ始まっていたものの、低地帯は一面田んぼだった。それが今や、低地帯もほとんどが住宅地となり、大型スーパーが進出し、「杜の里」などというしゃれた名前がついている。川沿いには遊歩道が整備され、さらに奥地にある金沢大学に向けては「哲学の道」もあるらしい。年寄りの懐古趣味と言われそうだが、この辺りのたんぼ道を駆け回っていた中学生のころが懐かしい。

 

 

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ブログ開設1周年 [自分]

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このブログの最初の記事は2012229日に掲載した。少々書き溜めてあったので、同じ日に5本の記事を一気にアップした。それから1年近く経つが、それなりに続いたと思うと多少の感慨もある。

 

「ブログなんかで世間に自分をさらそうとする人の気が知れない」と言われたこともある。まあ、わからなくもないが、たぶんそれは幸せな人だ。(見ず知らずの人を含め)他人に何か言わずにはおれない(ことがある)というのは、おそらく人間の本源的な欲求の一つだと思う。

 

フランスの女流作家、アニー・エルノー(Annie Ernaux)の小説、『居場所』(La place)と『恥』(La honte)の冒頭に掲げられたエピグラフ(épigraphe)を以下に引用しておこう。

 

«Je hasarde une explication: écrire c’est le dernier recours quand on a trahi.» Jean Genet

(大胆な説明になるが、書くというのは、人が裏切ったときの最後の頼みだ。)

 

«Le langage n’est pas la vérité. Il est notre manière d’exister dans l’univers.» Paul Auster, L’invention de la solitude

(言葉は真実ではない。われわれがこの世で生きていくための流儀だ。)

 

*冒頭の写真は、自宅ベランダの白梅。

 


雪の上野 [自分]

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2013114日の成人の日、東京では珍しく雪が降り、積もった。前日の13日は晴天だったので写真を撮りに出かけたが、雪が降ったら降ったで、また出かけたくなった。もっとも雪の東京の撮影シーンとしてどこがよいか見当がつかない。そう言えば去年の雪の日には上野の国立西洋美術館に行ったなと思い出し、今回も上野に行くことにした。雪と言えばふるさとの北陸、成人の日と言えば東京での大学生活、そして大学受験で来た上野、そんな連想が働いたのかもしれない。

 

私のように、北陸から上京する者にとって、当時(1970年代)は上野が“port of entry”だった。別に外国に行くわけではないのだが、北陸で生まれ育ち、東京は中学3年時の修学旅行で駆け足の見物をしただけの田舎者にとっては、それくらいの心理的障壁があった。上野駅から先、国電(今のJR)や私鉄、地下鉄などにどんな路線があり、どのように乗ったらよいかもわからなかった。そこで私は、上野駅近くのビジネスホテルに泊まり、そこから入試の受験会場まで歩いて行った。その後、茗荷谷の大学を受験した同じ高校の友人が地下鉄丸の内線の乗り方を教えてくれ、ようやく都内を電車や地下鉄で移動できるようになった。

 

当時、北陸から東京に行く最も安価な交通手段は、夜行急行列車の「能登」か「越前」の普通席(2人席×2の対面形式)で、帰省の際は専らこれを使った。金沢から上野まで少なくとも8時間はかかったと思う。座れればまだいいのだが、一度、車内が山手線並みに混んで、全区間立ったままのことがあり、そのときはさすがに往生した。その後、私の経済状態が少し好転したこともあり、昼間の特急「白山」や「はくたか」を使うようになり(片道6時間程度)、米原経由の東海道新幹線(片道5時間強)を使うことも増えた。今は、飛行機(乗っている時間は1時間ほど)か、越後湯沢経由の上越新幹線(片道4時間強)だ。ちなみに北陸新幹線が開通すれば、金沢-東京は2時間半程度になるらしい。

 

私自身は、自分の成人式の日に何をしていたか、記憶がある。都内B区にあるI県出身者のための学生寮の自室で本を読んでいた(テレビは持っていなかった)。B区の区役所から成人式の案内は来ていたと思うが、東京に「地元」意識はなく、出ようという気は起きなかった。寮の北向きの3畳間で、厚く着込み、小さな電気ストーブを抱え込むようにしながら、「そう言えば、今日は成人式だったな」と思い出したことを今でも覚えている。だから、私は若い人たちに自信を持って言える。青春なんて惨めで辛くてもいいじゃないか、と。

 

雪の上野の写真を紹介するつもりが、自分の思い出話になってしまった。「成人の日」に免じてお許しいただきたい。

 

<お茶の水駅ホームから、聖橋と湯島聖堂>

*今回はシャッタースピードの練習も兼ねていたため(笑)、シャッタースピードと絞り値の情報を記しておく。

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<上野、国立西洋美術館のロダンの彫像>

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<上野公園内、西郷像>

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<東京駅、神楽坂>

*総武線が止まったため、秋葉原ではなく東京駅まで行き、そこから地下鉄に乗り換えた。神楽坂上もかなり雪が積もっていた。

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2013年の新年を迎えて [自分]

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私はこれまで、新年を迎えたからといって、特に「新年の誓い」(vœux de nouvelle annéeのようなことを文章に書いたことはない。それでも一応こうしたい、ああしたいといったことを考えないわけではない。ここ数年来、体力の衰えを痛感するが、特に昨年の後半は医者通いが続いた。このブログを始めた一つの理由でもあるが、一日一日、一年一年を大切に過ごしていかねばと思っている。そんなこともあり、「新年の誓い」のようなものを記録に留めておくことは、一種のコミットメントとして意味があるという気になった。

 

私が今年考えてみたいのは、日本の経済や雇用の将来像、正確に言うと、それらの検討に資するような現状分析だ。

 

多くのエコノミストが、経済成長の必要を説いている。財政赤字の削減にせよ、社会保障システムの維持にせよ、経済成長なしに解決することはまずありえない。その際、重視される指標は1人あたりGDPの成長だ。人口が減少する中でGDP全体の大きさは減速が避けがたいから、「1人あたり」に注目するのは妥当な選択だ。そして、1人あたりGDPの成長を規定する最も重要な要因は生産性向上だ。ここまでは大方の合意があると思う。

 

問題はその先だ。「生産性向上」とは具体的には何を意味し、それをどう実現するのか。よく言われるのは、規制緩和、構造改革などの新自由主義的な政策だが、そうした政策が今よりよいパフォーマンスをもたらすかどうかは全く自明ではない2012510日付当ブログ記事、フランス大統領選-2つの「成長戦略」」を参照)。市場へのレッセ・フェールは、証明不要な一種の「神話」に過ぎない。市場経済が円滑に働くためには、何らかの規制なり制度的、文化的な枠組が必要だ。その具体的な内容を多少とも明らかにする必要がある。

 

その際に、雇用の観点から重要なのは、女性や高齢者など多様化する労働力と生産性向上をどう両立させるかだ。ICTの活用や組織・働き方の改革が必要になろう。それがどの程度可能なのかはよくわからない。

 

私の中には、もう一つの可能性も根強くある。それは、市場価格で評価されるGDPや生産性からの決別だ(あくまで、一定程度の、ということだが)。そうしたことを思うようになったのは2年間のヨーロッパ生活が大いに影響している。今や貿易可能な工業製品は世界中のほとんどの地域で、ほぼ同じものが大差ない価格で購入できる。しかし、サービスに関してはその質も価格も大きな差がある。大ざっぱな言い方になるが、日本のサービスは先進国の中で、比較的低価格で高品質である。その背後には、比較的低賃金でよく働くサービス業従事者の存在がある。高価格ではなく、しかもしばしば長時間労働なので、時間あたりの付加価値生産性は低くなるが、顧客はその結果、大いに便益を受けている。そのことをどう評価すべきなのか。市場価格で測った生産性が高い部門と低い部門の、こうした共存は是か非か。まだ、十分には考え抜いていない。

 

1年後にはたしてどこまで「答え」が出ているか。そう考えると、少し楽しみな1年だ。

 


Salut, 2012! [自分]

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「サリュー(salut)!」というのは、フランス語で「やあ!」とか「じゃ、また!」といった出会いや別れのくだけた挨拶言葉だ。こういう言葉で気軽に言い合うほど親しいフランス人はほとんどいないこともあって、私自身は使ったことも使われたこともない。この言葉が印象に残っているのは、むしろスペイン語の「サルー(salud)!」(通常「乾杯!」の意味で使われるが、出会いや別れの挨拶としても使われる)としてだ。

 

*   *  *

 

19581231日夜のキューバ革命の決定的なシーンが、アメリカ映画 「ゴッド・ファーザー Part II」に出てくる。マフィアの2代目ボス、マイケル・コルレオーネはキューバに多くの利権を持つユダヤ人実業家ハイマン・ロスらとともにハバナに滞在する。ただし、ロスは持病の心臓病が悪化し入院中だ。マイケルはロスが自分の命を狙っていることを知っており、大晦日の晩、ロスのところへ刺客を送る。しかし、この計画は事前に相手側に漏れてしまい、刺客はキューバ軍警察に殺される。

 

同じ時間、キューバのバティスタ大統領主催の新年パーティーが開かれており、マイケルもその兄フレドも参加している。マイケルはロス側に内通していたのはフレドであることを確信し、そのことを本人に伝える。

 

“There’s a plane waiting to take us to Miami in an hour. Don’t make a big thing about it. I know it was you, Fredo. You broke my heart. You broke my heart.” (1時間後にオレたちをマイアミに運んでくれる飛行機が待機している。騒ぐんじゃないぞ。フレド、お前がやったことはわかっている。オレの心を引き裂いてくれたな。)

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一方、パーティーの席で大統領は辞任演説を始める。キューバ革命の帰趨が決まった瞬間だ。演説を聞きながら、パーティーの招待客たちはつぎつぎに退散し始め、港や空港は国外脱出を試みる人々で大混乱となる。もはや演説を聞く人がほとんどいなくなるなかで、大統領は、Salud! Salud! Salud!と繰り返し叫ぶのだ。

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*   *  *

 

1958といえば、日本では東京タワーができた年だ。今年は東京スカイツリーがオープンし、すっかりそちらにお株を奪われてしまった観がある。しかし、先週、東京タワーに行ってみたところ、それなりに人出があった。23割は外国人だっただろうか。展望台からのパノラマは、新宿だけでなく、この辺り(赤坂や汐留など)にも高層ビルが多く建ち並んでいることを再認識させた。また、今や東京の地上からはほとんど見えなくなってしまった富士山もくっきりと望むことができた。特別展望台(250m)は50分待ちだったので訪れず、大展望台(150m)のみの見学だったが、結構満足した。

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*   *  *

 

日本でも今月、政権交代があったが、そう言えば前の総理大臣は国民に対して何かお別れの挨拶をしただろうか。民主党の国会議員たちに対してはお詫びの言葉があったようだが、本来お詫びするべき相手は国民ではないのか。弁解しない、というのが美学なのかもしれない。でも、それだったら在任中に「命がけで」などと大げさな物言いはしないことだ。それにひきかえ、先日の松井の引退会見は、彼らしい味のある内容だった。同じ郷里の偉大な後輩に対し、心からSalut!と言いたい。

 

Salut! さらば、2012年!」

 


富士山とH先生と龍馬 [自分]

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9月に入ってから猛烈に忙しくなり、ブログの更新も随分滞ってしまった。平日だけでなく、毎週末、何かしらの行事がある。先週末は、三浦半島の湘南国際村に行ってきた。台風が沖縄を襲った余波で、関東地方も急に雨が降ったりする不安定な天気だった。このため富士山が見えるとはほとんど期待していなかったが、夕暮れ時、ふと窓外に目をやると富士山のシルエットがはっきりと見えた(写真)。美しい姿だった。

 

恥ずかしながら、私はこれまで富士山に登ったことはないのだが、いくつか思い出がある。時々思い出すのは、中学3年生の時の担任だったH先生の言葉だ。先生は、東京の富士見坂にあるH大学の出身で、あるとき「富士山を見て美しいと思うかどうかで人間の価値が決まる」といった趣旨の話をされたことを、その後の人生で時々思い出す。確か、「龍馬がそう言った」と話されたと思う。

 

その話を今回また思い出し、ひょっとしたら司馬遼太郎の『竜馬がゆく』にでも書いてあるのかなあと思いながら読み始めたところ、はたして図星だった。

 

龍馬が嘉永6年(1853年)、剣術修行を志して上京したときのことである。大阪で出会った藤兵衛という泥棒と一緒の道中のことだった(文春文庫、第1巻、pp. 76-77)。

 

×   ×   ×

 

「藤兵衛、一向に驚かぬな」

「見なれておりますんで」

「若いころ、はじめてみたときはおどろいたろう。それともあまり驚かなんだか」

「へい」

藤兵衛は、にが笑いしている。

「だからお前は盗賊になったんだ。血の気の熱いころにこの風景をみて感じぬ人間は、どれほど才があっても、ろくなやつにはなるまい。そこが真人間と泥棒のちがいだなあ」

「おっしゃいますねえ。それなら旦那は、この眺望をみて、なにをお思いになりました」

「日本一の男になりたいと思った」

「旦那」

と藤兵衛はむくれて、

「それは気のせいでございますよ」

「あたりまえだ。正気で思うものか。坂をおりればすっかり忘れているにちがいないが、しかし一瞬でもこの絶景をみて心のうちがわくわくする人間と、そうでない人間とは違う」

 

×   ×   ×

 

中学時代の私は、成績はよかったが、教師や権威に反抗的な「扱いにくい」生徒でもあった。陸上部でありながら、仲間に呼びかけて、校内マラソン大会で最初から歩くという「反抗」を試み、首謀者としてH先生からビンタをくらったこともある。そんな私が、中学校を卒業して20数年後、H先生の母校であるH大学の教員になったのは、何かしら不思議な縁というしかない。

 


「東京オリンピック」(1965年、日本映画) [自分]

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前回、映画「ミュンヘン」のことを書いたので(622日付)、オリンピックつながりで、幼い頃の思い出をいくつか記しておきたい。1964年に東京オリンピックが開催されたとき、私はI県の田舎町Nで小学1年生だった。家に白黒テレビはあったはずで、オリンピックもそれで見たのではないかと思う。この頃、N町では豊かな農家などには観音開きのカラーテレビが入り始めており、私も友人の家に「ジャングル大帝レオ」などを見せてもらいに通った記憶がある。

 

オリンピックの競技自体に関しては、大松監督率いる「東洋の魔女」こと女子バレーボールチームが大活躍したこと、マラソンのアベベ選手(エチオピア)がローマ大会に次いで2連覇したこと、やはりマラソンで円谷選手が競技場に入ってから抜かれはしたものの3位に入ったこと、柔道の無差別級で神永選手がオランダの巨漢ヘーシンク選手に敗れたことなど、小学1年生の割には結構覚えている。

 

さらに私の記憶を確かにしたのは、翌年、市川崑監督の「東京オリンピック」の映画を見たことだ。N町には映画館は一つしかなく、それもちゃんと独立した映画館ではなく、八百屋の裏手に併設された試写室といった趣だった。私はたぶん1965年の6月の終わりか7月のはじめ、学校から鑑賞券が支給されて、友達と一緒に見に行ったのだ。1回だけ見て帰るのはもったいないと思い、2回繰り返して見た。映画館を出ると外はもう薄暗くなっていたが、友達と神社の裏山に笹を取りに行った。七夕の飾りをつけるためだ。その年の夏、私は父親の転勤に伴い、同じI県の県庁所在地K市に引っ越すことになっていた。したがって、八百屋の裏の映画館で見た「東京オリンピック」と神社の裏山に笹を取りに行ったのは、N町での最後の思い出だ。

 

「東京オリンピック」の映画、それ自体について言うと、映画の最初の方に、古い鉄筋コンクリート建てのビルを大きな鋼鉄球でぶちこわし、東京の街を改造するシーンが出てくるが、なぜかその印象が最も強烈だった。N町には、そもそも鉄筋コンクリート建ての建物などなかったからかもしれない。

 

それにしても、オリンピックの記憶がもっぱら子供時代に限られているのは不思議だ。私は、オリンピックの開催地が、ローマ、東京、メキシコシティ、ミュンヘンの順だったことは言える。しかし、そのあとは、どんな順番で何年にあったのかとなるとほとんど真っ白だ(例外は「パルパル(88)オリンピック」と呼ばれたソウルくらいか)。ちなみにネットで調べると、モントリオール、モスクワ(日本やアメリカはボイコット)、ロサンゼルス、ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京、ロンドンの順となる。大人より子供の記憶力の方が確かだという証左かもしれない。

 

N町の映画館では、ディズニーの「101匹わんちゃん大行進」も見た。ネットで調べると、この映画の日本公開は19627月とあるので、小学校入学前のことだ。これは、私の記憶では、たぶん人生で最初に見た映画だ。結構お気に入りで、親に「101匹わんちゃん」の絵が描かれた下げ鞄を買ってもらった。のちに、K市の小学校にもその鞄を持って行ったが、そんな漫画を書いたような鞄を学校に持ってきていた生徒は他におらず、恥ずかしい思いをしたことがある。

 

ところで、数年前、このN町を再訪した(2012418日付、Un souvenir d’enfance)。かつて映画館があった八百屋が冒頭の写真である。土曜日なのに閉まっていた。N町自体も、近隣のより大きなN市に編入されていた。イタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」で、主人公が久しぶりに故郷の映画館を訪ねたところ、既に閉鎖されていたというシーンが出てくる。ちょっとキザに言うと、私もその時の主人公のような気持ちだった。

 

*下の写真の1枚目は、映画のあと笹を取りに行った神社。2枚目は、高台から見下ろした(旧)N町。

 

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Un souvenir d’enfance [自分]

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フランス語の過去時制に「単純過去」(passé simple)と呼ばれるものがある。おとぎ話や古い小説ではよく使われるが、日常会話や現代文では「複合過去」(passé composé)に代替され、あまり使われない。パリのフランス語学校に通っていたとき、上級クラスでは何度か単純過去を用いた文章を読んだり、書いたりすることがあった。あるとき、サルトルが自分の少年時代の思い出を書いた文章(単純過去をふんだんに使っている)を読んだ上で、各自がそれに倣って、自分の子供時代の思い出を作文するようにとの宿題が出された。

 

下にそのまま引用するのは、そのときに私が書いた作文だ。日本語訳はあまりに気恥ずかしいので勘弁させて頂く。我ながら、多くの罪深いことをしてきたものだと、懺悔するのみである。

 

Monsieur O... , ayant la cinquantaine maintenant, passa son enfance de quatre ans à sept ans dans un petit village N... sur la mer du Japon. Ce village était en pleine campagne, plein de nature avec aucun bâtiment n’ayant plus d’un étage. La plupart des habitants étaient fermiers ou petits commerçants. L’école primaire était au bout du village. Le bâtiment était en bois et avec un étage. Il y avait une grande cour de récréation qui avait une treille de glycine magnifique.

 

Il était bon élève. Mais de temps en temps il faisait des bêtises. Un jour, il trouva un serpent mort par terre dans la cour. Il le ramassa et le jeta au ciel. Le serpent tomba près d’une fille qui jouait à une barre fixe. Elle prit peur et tomba de la barre. Heureusement, sa blessure n’était pas très grave. Il ne comprend toujours pas pourquoi il fit ça parce qu’il a depuis toujours la phobie des serpents.

 

Il a un autre souvenir regrettable. Dans sa classe, il y avait une fille dont la peau était très blanche. Il souvent se moquait d’elle en disant : « haku-jin », qui veut dire une personne blanche, autrement dit, une personne occidentale. Elle ne répondait rien. Quand il quitta cette école en raison du déménagement de sa famille, son institutrice demanda aux élèves d’écrire des rédactions sur lui. Il les reçut le jour de son départ. Il trouva celle de cette fille « blanche », qui avait écrit : « J’ai ressenti de la tristesse quand tu m’as dit haku-jin ».

 

Il ne se souvient pas du nom de cette fille, ni de celui de l’institutrice. Elles lui enseignèrent toutefois une leçon importante : « ce que l’on pense de soi-même et ce que d’autres pensent de soi sont souvent differents ». Il y a quelques années, il alla à cette école de nouveau parce qu’elle lui manquait beaucoup depuis longtemps. Mais son bâtiment avait été déjà démoli. Il marcha dans les ruines en pensant à ses souvenirs d’enfance.

 

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*写真は、いずれも(旧)N町にて。

 


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