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ハイエクのサラリーマン社会論 [経済]

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FA.ハイエクが、サラリーマン(被雇用者)と独立人(independents)の違いについて興味深い議論をしている。『自由の条件』(The Constitution of Liberty)の第I部第8章「雇用と独立」である(以下、引用は2007年、春秋社刊の『ハイエク全集第I期第5巻』による)。

 

ハイエクの問題意識は、「われわれの大多数が大組織の被雇用者として働き、自分では所有しない資源を利用し、ほとんど他人によって与えられる指令にもとづいて行動する」ようになったとき、すなわち、サラリーマンが多数を占める社会において、自由を維持発展させることができるだろうかという深刻な懐疑にある。

 

その前提は、サラリーマンにとって自由の行使が直接的な関心事ではないこと、そして彼ら自身が享受している自由が実は独立人(independents)の存在に依存していることを十分理解していないこと、という2つの想定である。

 

サラリーマンと独立人はどこが違うのか。それは、サラリーマンは組織に縛られて自由がないのに対し、独立人は自由であるといった皮相な見方によるのではない。これはハイエクのエライところだ。例えば、次のような主張に私は全く同意する。

 

・「たとえ被雇用者の生活のなかで自由のある種の行使がほとんど関係ないとしても、これはかれらが自由でないことを意味するものではない。ある人がかれの生活様式や生活の手段を稼ぐ方法についておこなうすべての選択は、結果としてある種のことをおこなうにはほとんど関心をもたないことを意味する」(p. 169)。

 

・「自由とはあらゆるものを欲しいがままに手に入れることができることを意味しているのではない。一つの人生路を選択する場合、われわれはいつも利益と不利益の複合物のなかから選択しなければならない。そしてひとたび選択をしてしまえば、純利益のために若干の不利益をしのぶ覚悟をしなければならない。労働を売る報酬として定期的な所得を求める人は誰でも、その労働時間を他人が割りあてた当面の仕事に振り向けねばならない。他人の命令どおりに行動することが被雇用者にとっては自分の目的を達成する条件である。それにもかかわらず時々かれはまったくいやになるかもしれないが、通常かれは強制されているという意味での不自由ではない。たしかにかれが職務を放棄するときにともなう危険あるいは犠牲はしばしばあまりにも大きくなり、たとえその仕事をひどく嫌いながらも仕事を続けねばならなくなるかもしれない。しかし、これは人が束縛される他のどんな職業についても、おそらく多くの独立な立場についてもほとんど当てはまるであろう。重要な事実は、競争社会においては広範な失業の期間を除いて、被雇用者が特定の一雇用者のなすがままにはならないということである」(pp. 169-170)。

 

では、サラリーマンと独立人の違いはどこにあるのか。ハイエクは、仕事における選択の幅、私生活との区別、報酬の決定方式などを挙げる。

 

・「被雇用者の利益や価値が、資源利用を組織する危険と責任を担う人びとのそれと、いくぶん異なってしまうことは避けがたい。一定の給与あるいは賃金で誰かの監督のもとで働く人は、たえず選択に直面しなければならない人と同様に、良心的で勤勉で知性的であるかもしれない。しかしかれは同じように創造的あるいは実験的ではほとんどありえない。というのはかれの仕事における選択の範囲が、単により多く制約されているからである。規定することのできない活動、あるいは慣習的でない活動の遂行を、通常かれは期待されていない。割りあてられた仕事は一定の領域に限定され、あらかじめ決められた分業にもとづいた必然的に制約された仕事なのである」(p. 171)。

 

・「独立人の場合、一定の所得に応じて自分の時間を売る被雇用者のように、その私生活と職業生活とのあいだに明確な区別をつけることができない。被雇用者の場合、労働とは主として一定時間、自分自身を与えられた枠組に適合させることであるが、独立人の場合には、生活設計を構築したり再構築する問題であり、つねに新しい疑問にたいして答えを見つけだす問題である。とくに何を正当な所得とみなすか、どんな機会を捉えるべきか、どんな生活様式をもっとも成功に役立つものとして採用すべきかについての考え方において、被雇用者と独立人とでは異なっているのである」(pp. 171-172)。

 

・「しかし両者のあいだに存在するもっとも大きな差異は、さまざまな仕事に見合う適切な報酬がいかに決定されるべきかについてのかれらの意見に見られる。大組織の一構成員として指令にしたがって人が働く場合にはいつでも、かれの個人的な仕事の価値を確かめることは難しい。どれほど忠実に理性的に規則や指令に従ったか、どれほど十分に全体機構に自分自身を適応させたかは、他人の意見によって決められるに違いない。時には成果とは関係なく、評価された能力にしたがって報酬を受けるに違いない。もし組織内に満足感があるべきであるとするなら、もっとも重要なことは報酬がいつも公正とみなされ、それがよく知れわたったわかりやすい規則に従っており、そして誰でもその同僚がかれに帰すべきであるとみなすだけのものを受けとることについて、ある人事機関が責任をもつことである。しかしかれに相応しいと他人が考えるものにしたがって報酬を与えるというこの原則は、自分自身の発意にもとづいて活動する人びとには適用できない」(p. 172)。

 

特にハイエクは、独立人の創造性や危険負担機能を高く評価する。

 

・(所有と経営が分離した会社が多数あれば、多種多様な雇用機会を提供する上で十分と思われるかしれないが、)「競争条件を維持したり企業構造全体の硬直化を防ぐには、新たな冒険的事業のために新組織に着手するようなことがなくてはあまり適合するとは思われない。そういう場合には、危険を冒しうる財産家がなおかけがえのないものなのである。・・・大規模で十分確立した会社の場合でさえ、その顕著な成功はしばしば多額の財産の支配を通じて独立と勢力の地位を獲得したある一個人によることがある」(p. 174)。

 

さらに、彼は、こうした企業活動における独立人の役割以上に、文化などの非市場活動における独立人(独立した財産家)の役割を重視する。

 

・「自由社会では、独立の財産家は物的利得の追求にその資本を利用している場合ではなくて、物的利得を生まない目的をもつサービスにそれを利用する場合になおより重要な人物となる。市場を維持するよりも、市場機構では十分に行きとどかない目的を支援する場合にこそ、独立の財産家はどんな文明社会においても欠くことのできない役割を引き受けている」(p. 175)。

 

・「市場の限界はある種の政府活動を正当とする議論を許すが、それは決して国家だけがそのようなサービスを供給すべきであるとする議論を正当化するものではない。市場では充足できない必要物が存在するという認識があればこそ、政府が引きあわない仕事をおこなう唯一の機関であってはならないこと、そこに独占があってはならないのであって、そのような必要を満たすには、できるだけたくさんの独立の施設が存在すべきであることは明白である。自分の信念を資金的に支えることのできる個人なり集団なりの指導性は、とくに文化的な楽しみの分野、美術、教育と調査、自然の美しさや歴史的財宝の保存、とりわけ政治・道徳・宗教における新しい理念の普及において重要である」(pp. 175-176)。

 

もっとも、独立人(独立した財産家)がみんな文化活動などに貢献するとは限らない。儲からないが社会にとってはプラスとなるような活動にコミットするだけの「エートス」が必要である。

 

・「しかしながら、このような仕事を富める者が首尾よく達成できるのはそれだけの条件がなければならない。すなわち、社会が全体として富を所有する人びとにとって唯一の仕事を、富を利殖にもちいかつそれを増殖させることにあるとはみなさないことである。また、富裕階級もその資源を物質的に生産的な用途に充てることをその主要な関心事とする人びとばかりで構成されてはいないことである。別の言葉でいえば、怠惰な富める者の集団の存在に対する寛容が必要である。怠惰というのは有益なことをなに一つしないという意味ではなく、富める者の目的が物的利益の観念にすっかり支配されてはいないという意味である」(p. 178)。

 

そして、ハイエクは次のよう結論する。

 

・「成金の人たちの見栄、悪趣味および浪費性を嫌う点ではまったく同じ考えをもっているとしてもなお認めなければならないことは、もしわれわれが嫌うものをすべて妨げてしまうとすれば予測できない良いこともまたこのようにして妨げられるわけで、そのほうがたぶん悪いことより多いだろうということである。多数者がその好まないものすべての出現を妨げることのできる世界は、停滞したおそらく衰えゆく世界であろう」(pp. 182-183)。

 

私は、ハイエクの最後の結論、「多数者がその好まないものすべての出現を妨げることのできる世界は、停滞したおそらく衰えゆく世界であろう」には全く賛成である。しかし、途中の議論には疑問点も多い。

 

・第一に、ハイエクは、「独立人」の機能をあまりに美化しすぎ、「サラリーマン」の機能をあまりに矮小化しすぎていると思う。サラリーマンと比べ、独立人は創造性やリスク・テイキングの点で勝るというが、創造性の発揮には組織的な協力や切磋琢磨が有効なことが多く、リスク・テイキングには豊富な資金力が必要であるとすれば、大企業のサラリーマンが中小企業の事業主に劣るとは限らない。さらに、優れた組織では、リスク・テイキングや働き方の点で、サラリーマンが独立人的な行動をとることもある。

 

・第二に、財産家の独立人による文化貢献についても、ハイエク自身が指摘するように、独立人のエートスの問題がある。例えば、資産家が文楽の維持発展に私財を提供することを非難する人はいないだろうが、大企業のオーナー経営者が(会社の資金を)ギャンブルに散財することに寛容であれと言われても、なかなか難しいのではないだろうか。

 

このように疑問点は残るが、サラリーマンが多数を占める社会で、いかに自由や多様性を維持、発展させていくかというハイエクの問題提起は深く受け止めたいと思う。

 


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