SSブログ

ジョージ・オーウェル「1984年」 [読書]

Orwell_1984.jpg 

K先生は、私が尊敬する同僚の一人だ。頭の回転が恐ろしく速く、博覧強記、それでいてどこか憎めない愛すべきキャラだ。少々口が悪いので「敵」も多い(かもしれない)が、私の場合は、何度か衝突するうちに親しくなっていった。先日も、「福祉」の語源、語義や“welfare”“well-being”の違いについて(私は、同じ意味という立場だが)、楽しく議論した。K先生は、「福祉」という言葉を初めて日本語として訳出したのは、福沢諭吉だと最初言っていたが、私がそれは違うんじゃないかというと、今度は西周、やがて中村正直ということになった。多少不正確でも、大局を外さないところがK先生らしい。

 

そんなK先生に、最近メールを送ったところ、文字化けで読めないと返信があった。私はK先生宛のメールは、親愛の情を込めて、いつも「大兄」と書き始めている。そこで、文字化けしても読めるように英文に直して再送した際、それを直訳して“Dear Big Brother,”と書いてしまった。案の定、K先生から皮肉たっぷりの返信があった。曰く、「Big Brotherってのは、オーウエル『1984年』に出てくる、共産党、ってことですよ(私の主要敵の)。ま、読めました。」

 

実を言うと、私は昨年、オーウェルの『1984年』をかなり丁寧に再読したばかりだ。以前は、何となくプライバシーのない情報管理社会、監視社会の怖さを描いた小説のように思っていたが、それだけでなく、人間が人間を信じられない社会の怖さを再認識させられた。

 

「ビッグ・ブラザー」というのは、この国(「オセアニア」)の支配者がそう呼ばれているのだが、誰もそれが実際にどんな人物なのかよく知らない。ヒトラーやスターリン、「金王朝」のような目に見える独裁者ではないのだ。ビッグ・ブラザーには、エマニュエル・ゴールドスタインという「人民の敵」がおり、「二分間憎悪」というプロパガンダ・プログラムで毎日のようにやり玉に挙げている。敵を作ることが権力の維持・強化に必須だというのは、古今東西を問わず政治の定石なのだろう。

 

小説の主人公、ウィンストン・スミスは真理省に勤める役人だが、ビッグ・ブラザーへの違和感を抱えている。そんな自分の本心を同僚や隣人に気づかれないかと恐れる。相手は、油断ならないように見えて、実は同じ考えを共有している同志なのかもしれないし、自分に同情的なように見えて、実はビッグ・ブラザー側のスパイなのかもしれない。全体主義の最も恐るべき本質は、おそらくこの人間不信の連鎖にある。

 

この小説には「二重思考」(doublethink)という言葉がキー・コンセプトの一つとしてよく登場する。「二重思考とは、ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力をいう」(ハヤカワepi文庫版、p. 328)。ビッグ・ブラザーやその取り巻きに二重思考が要請される理由は単純だ。彼らは全能で誤りを犯さないことになっている。しかし、実際には全能でも誤りを犯さないわけでもない。このため、「事実の処理に於いて、たゆまない臨機応変の柔軟性が必要となる」のである(p. 325)。

 

人間不信に二重思考が加わると、コミュニケーションというものは、全くの機能不全になる。例えば、ある人が誰かに「好きだ」と言ったとしよう。しかし、相手は自分の敵かもしれないし味方かもしれない。相手がこれをどのように解釈するか全くわからない。「好きだ」は容易に「嫌いだ」という意味に変換される。実際、この国でよく聞かれるスローガンは、「戦争は平和なり 自由は隷従なり 無知は力なり」だ。

 

ところで、この「二重思考」と、パスカルの「パンセ」にある「両極端の中間を満たすこと」(2012519日付け当ブログ)の関係をどう整理するか、結構厄介だ。英語でよく使われる表現に“double standard”(二重基準)がある。手許のWebster’s New World Dictionary (Third College Edition)によれば、“a system, code, criterion, etc. applied unequally; specifically, a code of behaviour that is stricter for women than for men, especially in matters of sex. ”とある。男女の性行為に対する評価が例に挙げられているが、実際にはより広い文脈で使われ、差別意識などネガティヴな含意を伴うことが多い。つまり、複数の判断基準を使用者が自分に都合良く使い分けるという意味だ。『1984年』の「二重思考」も、ビッグ・ブラザーに体現される体制の権力維持、永続化が目的であるところが問題だ。

 

つまり、複数の基準や原理を柔軟に使い分けること自体が問題ではなく、目的の道徳性、正当性が問われていると私は思うのだが、では、誰がいかにして目的の道徳性なり正当性を証明するのかと問われれば、残念ながら自分自身納得のいく答えはまだない。

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。