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「キリマンジャロの雪」(Les neiges du Kilimandjaro、2011年、フランス映画) [映画]

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7月に入って、目先のあれやこれやの仕事に追われ、ブログの更新もすっかり滞ってしまった。こうした状況はあと1週間くらい続きそうだが、今日は久しぶりに、先週観た映画の感想を書いておきたい。神田神保町の岩波ホールで上映中のフランス映画「キリマンジャロの雪」だ。

 

まず、映画のあらすじを簡単に紹介しておこう。舞台はフランスのマルセイユ、主人公はそこの造船所で働くミシェルだ。彼は労働組合の委員長でもあり、リストラの人選のためのクジ引きシーンからこの映画は始まる。クジ引きの結果、ミシェルを含めた20人がリストラされることになった。ミシェルには介護ヘルパーの仕事をしている妻のマリ=クレール、義弟ラウルの夫婦、そして子供たちのそれぞれの家族、といった親族がいる。

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リストラ後に、これらの親族や組合仲間を招待して、港の埠頭でミシェル夫妻の結婚30周年記念パーティーが開かれた。そこで夫妻は、親族からアフリカのキリマンジャロへのガイド付きツアーのチケットとお金をプレゼントされ大いに喜ぶ。それからしばらくたったある晩、ミシェル夫妻とラウル夫妻が、ミシェル宅で一緒にトランプをしていたところ、二人組の強盗が押し入り、4人をガムテープで縛り付け、旅行のチケットや銀行のキャッシュカードを奪う。

 

その後、ミシェルは、ひょんなことから犯人のうちの一人を突き止める。職場の同僚であり、ともにリストラされた若いクリストフという青年だった。彼には幼い二人の弟があり、三人で暮らしていた。犯行はそうした生活苦によるものだった。ミシェルが警察に通報したことでクリストフは捕まり、少なくとも23年刑務所行きとなることは不可避となった。その間、誰が幼い弟たちの面倒を見るのか・・・。ミシェル夫妻はある重大な決意をする。

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×  ×  ×

 

この映画については、日本の主要日刊紙にもいくつか評論が載っており、格差社会の厳しい現実のなかでも、罪を憎んで人を憎まないミシェル夫妻の「博愛心」を讃えたものが多いようだ。しかし、それはこの映画の一つの側面でしかない。確かに、ミシェル夫妻の信じがたいほどお人好しな(ひょっとしたら、独りよがりな)慈善精神が描かれているが、同時にクリストフの絶望的なまでの人間不信、自ら犯した罪への罪悪感のなさが描かれている。はたして両者がお互いを理解し合うことがあるのかどうか、映画で描かれた範囲では何ともわからない。そういう日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。

 

私は、こういう何だか割り切れない思いを抱きながら、この映画を見終えた。私と同様の感想を持った方は他にもおられるようで、朝日のデジタル版に古賀太氏(日本大学芸術学部映画学科教授)が「『キリマンジャロの雪』、各紙の映画評に疑問」というエッセイを載せておられた。氏の主張のポイントは、おそらく次の一節に要約される。「この映画がおもしろいのは、現代における世代間のコミュニケーションの決定的な不可能性を見せているからだ。グローバリズムは世界中に浸透し、南仏の港町まで変えてしまった。労働組合が会社と交渉することで労働者を守っていた時代は終わりを告げた。もはや誰もがいつ仕事がなくなるかわからない時代だ。そこでは20世紀的な労働観も博愛精神も通用しない。

 

私は、この主張に半分まで同意する。人と人がわかり合うことの難しさ、という点において。しかし、それがグローバリズムとか世代間対立とかいう話になると、いささか安易なステレオタイプ的決めつけのように感じられ、賛成できない。小さな共同体や家族のなかであっても、同じ世代であっても、人がお互いにわかり合えないという状況は決して珍しくない。わかり合えないなら、お互い無視して関わらないようにするのがよいのか、お節介で反感を買ってでも関わるべきなのか、第三者の関与、介入を求めるべきなのか、簡単な答えは見つかりそうにない。

 

例えば、クリストフの一家だ。母親は生存し所在も一応わかるが、男の愛人になって子供を作っては男に捨てられ、また別の愛人を捜し求めるという生活を続けている。そして、自分が子供の母親だと言ったのでは男ができないという理由で、母親であることを隠し通している。こういう人間に誰がなんと言ったら話が通じるであろうか。

 

最後に、私の専門分野のテーマの一つであるリストラ対象者の選定基準についても、簡単にコメントしておこう。リストラ(経営都合解雇)の規模(人数)が決まったとき、その対象者をどのような基準で選ぶかという問題だ。ベストの解法はなかなかなく、どこの国の労使関係でも試行錯誤を重ね、ある種の「相場」が形成され、それが「定石」のようになっているというに過ぎない。例えば、アメリカでは先任権順位が低い(勤続年数が短い)方から、日本では年齢が高い方からというのが典型的なやり方だ。ただ、いずれのやり方も、反論は可能である。また、日本の裁判例でも、高齢者から解雇したのは合理的という判決もあれば、逆に若年者から解雇したのは合理的という判決もある。

 

・「人件費削減、必要最小限の人員で事業を継続するという合理化の目的に照らせば、人件費コストの高い『45歳以上の者を』解雇の対象とすることは合理的理由がある」(エヴェレット汽船事件・東京地裁・昭6384

・『36歳未満の者』との整理基準は、貢献度が低いこと、再就職の可能性が大きいことなどからみて人員整理の目的にそうものであり合理性がある」(高田製鋼所事件・大阪地裁・昭55929

 

では、この映画のようにクジ引きというやり方はどうか。こうしたやり方が実際に使われたという話は、この映画以外に私は知らないが、やや乱暴なやり方だったように思う。おそらくミシェルは、全員の確率が等しいし、(くじ引きの対象から除外することもできた)組合委員長の自分も入っているのだから、文句あるまいと考えたのだろう。しかし、全員の確率が同じなら平等で公平だというのは、どのような正義観、公正観で評価するかによって異なる。映画のなかで、この点に関し、ミシェルとクリストフの間で興味深いやりとりがある。

 

・(クリストフ)「こいつは早期退職者で小さな家でのんきに暮らしている。」「昔とは時代が違うんだ。職を失って暮らせるか? 新入りだから解雇手当もない。」

・(ミシェル)「クジが一番公平だった。」

・(クリストフ)「まず金持ちや共働きの人から解雇。給料や労働時間も減らす。それか工場に放火! 汚い妥協よりマシだ!

 

やや穿った見方をすれば、クジ引きによる解雇というやり方の是非が、平等や公平とは何かという根源的な問いかけのメタフォーになっている。

 


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