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宮沢賢治「虔十公園林」 [読書]

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前回紹介した「グスコーブドリの伝記」について、多くの読者は、ブドリの数奇な運命とそのヒロイックな死のゆえに、「とてもブドリのような生き方は自分には無理だ」と思うかもしれない。しかし、何も他人を助けよう、英雄的な行いをしようと身構える必要はない。他人に迷惑をかけず、自分のやりたいことをやるという生き方で十分かもしれない。結果的に、それで人を喜ばすこともある。ちくま文庫「宮沢賢治全集第6巻」に所収された「虔十公園林」は、そんな物語だ。

 

虔十(けんじゅう)は、「いつも縄の帯をしめてわらって杜(もり)の中や畑の間をゆっくり歩いている」青年だった。彼は周りからは知恵遅れと見られていて、ほかの子供たちからも馬鹿にされていた。そんな虔十が、ある日突然、母親に「お母(があ)、おらさ杉苗七百本、買って呉(け)ろ」と頼み込む。家の後ろに運動場ぐらいの野原がまだ畑にならず残っていたのだが、そこに植えるのだという。父親は、虔十がこれまで何一つ頼みごとをしたことがなかったので、買ってやることにした。

 

その野原は土質が悪く、杉が育つはずはないと馬鹿にする者もいたが、やがて見事な杉並木に育っていき、子供たちの遊び場になる。虔十は子供たちが来ない雨の日もそこに立っていて、「今日も林の立ち番だなす」と通行人からからかわれた。

 

また、この野原の北側に畑を持つ平二というワルからは、自分の畑が日陰になるから杉を切れと言いがかりをつけられた。虔十は「伐らなぃ」と言い張る。「実にこれが虔十の一生の間のたった一つの人に対する逆らひの言(ことば)だった」という。虔十は、平二にボコボコにされたがじっと耐えた。そして、その秋、虔十はチブスで死に、平二もその10日前に同じ病気で死んだ。

 

その村はやがて鉄道が通り、町になって栄えたが、虔十の林はそのままだった。ある日、昔その村から出てアメリカのある大学の教授になった若い博士が15年ぶりに故郷へ帰ってきた。彼は母校の小学校で講演したあと、校長先生たちと運動場に出て、さらに隣接した虔十の林に向かう。

 

・「あゝ、こゝはすっかりもとの通りだ。木まですっかりもとの通りだ。木は却って小さくなったやうだ。みんんなも遊んでゐる。あゝ、あの中に私や私の昔の友達が居ないだらうか。」「こゝは今は学校の運動場ですか。」

・「いゝえ。こゝはこの向ふの家の地面なのですが家の人たちが一向かまはないで子供らの集まるまゝにして置くものですから、まるで学校の附属の運動場のやうになってしまひましたが実はさうではありません。」

 

・「それは不思議な方ですね、一体どう云うわけでせう。」

・「こゝが町になってからみんなで売れ売れと申したさうですが年よりの方がこゝは虔十のたゞ一つのかたみだからいくら困っても、これをなくすることはどうしてもできないと答へるさうです。」

・「ああさうさう、ありました、ありました。その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。いつでもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。この杉もみんなその人が植ゑたのださうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」

 

賢治は、この小説の終わり近くで次のように書いている。「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さはやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。

 

×   ×   ×

 

私は、この小説を読むたびにいつも深い感慨を覚える。

 


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