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ロナルド・コースの業績 [経済]

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201394日の日本経済新聞、朝刊6面(国際面)の一番下に小さな死亡記事が載っていた。1991年のノーベル経済学賞受賞者、ロナルド・コースの逝去を報じたものだった。まだ存命だったのかという思いと、遂に逝去してしまったのかという思いが交錯した。私は、経済学者の端くれとしてロナルド・コースには多少の思い入れがある。

 

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アメリカ経済学会は毎年、12月の終わりか、1月の初めに年次総会(学会)を開催する。その際、前年のノーベル経済学賞受賞者が招待されてランチョン・セミナーを行う慣例がある。(何せ、ノーベル経済学賞はアメリカ人、あるいはアメリカで活躍する経済学者の独壇場だから、招待する人間には事欠かない。)1993年の1月、当時、博士論文がほぼ完成しつつあった私は、就職市場に参加するためカリフォルニア州アナハイム(ロサンゼルスの近く、ディズニーランドのある町だ)で開かれた学会に参加した。あいにく、新年早々カリフォルニアは豪雨に見舞われ、アナハイムも外出どころではなかった。

 

確かその時の学会だったと思うが、ロナルド・コースがランチョン・セミナーを行った。実は私の博士論文の一つの章は彼の着想による「取引費用」を応用したもので、彼がどんなことを話すか興味があった。ただ、私が今でも覚えているのは次のような「余談」だ。こうした機会にはノーベル賞受賞者のお弟子さんも呼ぶのが慣例らしいのだが、司会者曰く、コースのお弟子さんを探して呼ぶのは大変だったらしい。結果、呼ばれたのは独占禁止法関係のアメリカ政府機関に勤務するエコノミストとシンガポール(香港だったかもしれない)の大学教授の2人だった。失礼ながら、どちらも世界的に著名なエコノミストというわけではない。

 

そのうちの一人が語ったのは、シカゴ大学の大学院生時代、他の先生たちからはダメ出しの連続で精神的に参ることが多かったが、コース先生のオフィスを訪ねると、毎週優しく「調子はどうですか」と聞いてくれ、それでずいぶんと助けられたという話だった。実は、私にも似たような経験がある。私の指導教授H先生も、やはり毎週訪ねるたびに“How are you (doing)?”と聞いてくれた。もちろん、これは一般的には単なる儀礼的な軽い挨拶であって、こちらの具合がどうなのかを本当に聞きたいわけではない。あるとき、私は、こういう質問(というか挨拶)にどの程度、正直に詳しく答えるべきなのかと先生に毒づいたことがある。その時の先生の答えはこうだった。「確かに一般的にはこれは単なる儀礼的な挨拶だ。しかし、私が君に言うときは、本当にどうしているか知りたいと思って聞いているので、ちゃんと答えて欲しい。」私も、こうした先生に助けられたことを思い出しながら、コースのお弟子さんの話を聞いていた。

 

このエピーソードも、いつかブログに書きたいと思っていたが、忙しさにかまけて先送りになっていた。ところが、昨日(918日)の日本経済新聞の朝刊29面(経済教室のページ)を見て驚いた。コースの業績に関する短い紹介記事が載っていたが、私が理解しているコースの業績とはまるで正反対()のことが書かれているのだ。このブログ記事が天下の日経新聞のように多くの人の眼に触れることはないと思うが、それでも言うべきことは言っておかねばならないと思い、書き始めた次第だ。

 

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この新聞記事にもある通り、コースの代表的な論文と言えば、

“The Nature of the Firm.” Economica, n.s., 4 (November 1937).

“The Problem of Social Cost.” The Journal of Law and Economics 3 (October 1960).

2つだ。さらにこれら2つの論文を含め、7つの章からなる論文集、

The Firm, the Market and the Law, The University of Chicago Press, 1988. (日本語訳は、宮沢健一・後藤晃・藤垣芳文(訳)『企業・市場・法』東洋経済新報社、1992年)

がある。

 

日経の記事で驚いたことは3つある。第一、見出しに「米国流企業理論の先駆者」とある。これは1937年の論文を指していると思われるが、コースの企業理論は「米国流」でも何でもなく、「市場」や「組織」に関する一般理論だ。

 

第二、「市場の機能を万能とみなす経済学説を唱える「シカゴ学派」の経済学者」とある。コースがその後半生、シカゴ大学の教授だったのは事実だが、彼は市場万能論者では決してなかった。1937年の論文のエッセンスは、もし市場が万能だったら企業という非市場的な仕組み(組織)が存在する理由はないではないか、市場を利用するには費用(「取引費用」)がかかり、そのような費用負担を回避するために企業が存在する、というものだ。つまりこの論文の最大のメッセージは市場万能論者への批判なのだ。

 

第三、1960年の論文について。日経の記事は少なくとも3つの点で誤っている。まず、コースは、俗に「コースの定理」と呼ばれているものについて、それは自分が本当に言いたかったことではないと、1988年の著作の第1章にはっきりと書いている。

 

「コースの定理」とは何か。これは、コース自身の命名によるものではなく、シカゴ大学のジョージ・スティグラー(1982年のノーベル経済学賞受賞者)が、その教科書「価格理論」の中で、コースの1960年論文の内容の一部を取り上げて命名したことに由来する。やや解説的に言うと、次のような内容だ。

 

(コースの定理)取引費用が存在しなければ、資源配分は法的権利・義務のあり方に関わらず一定である。すなわち最も社会的に効率的な配分が実現される。ただし、所得分配は法的権利・義務のあり方によって影響を受ける。

 

つぎに、ではコースが本当に言いたかったかのは何かというと、次のような内容だ。

 

(コースが本当に言いたかったこと)取引費用が存在すると、法的権利・義務のあり方は、所得分配のみならず資源配分にも影響を与える。法的ルールの存在は取引費用の発生を抑えるが、その際、社会的効率性の観点からは、生産物価値のより低い活動に、また損害回避の方策があるのならその費用が安く済む方に責任を負わせる方がよい。

 

つまり、一般に「コースの定理」と呼ばれているのは、取引費用が存在しないというあまりに現実からかけ離れた世界における話である。それに対し、自分が強調したかったのは、取引費用が存在するという、より現実的な想定に下では一体何が起こるのかである、というのがコースの主張だ。1988年の論文集の第1章から、コース自身の言葉を引用しておこう(Coase 1988, pp. 14-15, 一部抜粋)。

 

My conclusion was: “…the ultimate result (which maximizes the value of production) is independent of the legal system if the pricing system is assumed to work without cost.” This conclusion was formalized by Stigler as the “Coase Theorem,” which he expressed as follows: “… under perfect competition private and social costs will be equal.”

 

A world without transaction costs has very peculiar properties. As Stigler has said of the “Coase Theorem”: “The world of zero transaction costs turns out to be as strange as the physical world would be without friction. Monopolies would be compensated to act like competitors, and insurance companies would not exist.” I showed in “The Nature of the Firm” that, in the absence of transaction costs, there is no economic basis for the existence of the firm. What I showed in “The Problem of Social Cost” was that, in the absence of transaction costs, it does not matter what the law is, since people can always negotiate without cost to acquire, subdivide, and combine rights whenever this would increase the value of production. In such a world the institutions which make up the economic system have neither substance nor purpose. Cheung has even argued that, if transaction costs are zero, “the assumption of private rights can be dropped without in the least negating the Coase Theorem” and he is no doubt right. …

 

It would not seem worthwhile to spend much time investigating the properties of such a world. What my argument does suggest is the need to introduce positive transaction costs explicitly into economic analysis so that we can study the world that exists.

 

This has not been the effect of my article. The extensive discussion in the journals has concentrated almost entirely on the “Coase Theorem,” a proposition about the world of zero transaction costs. This response, although disappointing, is understandable. The world of zero transaction costs, to which the Coase Theorem applies, is the world of modern economic analysis, and economists therefore feel quite comfortable handling the intellectual problems it poses, remote from the real world though they may be. …

 

コースにとって、取引費用が存在しない世界を描いた「コースの定理」ばかりが取り上げられることが、いかに不本意であったかが強く伝わってくる文章だ。

 

そして、第二に指摘したいのは、コースが政府規制等の必要性を否定したかのごとき日経記事の記述はミスリーディングであるということだ。コースは、取引費用が存在するという現実的な前提の下では、法的な権利義務関係や規制が社会的効率を高める可能性を明確に指摘している。より正確に言えば、コースは政府規制のプラス面にもマイナス面にも等しく目を向けていた。

 

From these considerations it follows that direct government regulations will not necessarily give better results than leaving the problem to be solved by the market or the firm. But equally, there is no reason why, on occasion, such governmental administrative regulation should not lead to an improvement in economic efficiency Coase 1988, p. 118. 原論文はCoase 1960.

 

第三に、記事では、いわゆる「共有地(コモンズ)の悲劇」の問題を例示し、コースが所有権の特定によって問題が解決すると主張したかのように書いているが、1960年の論文は「共有地」の問題など取り上げていない。むしろ、コースがこの論文の前半で強調しているのは、裁判所が所有権等、法的な権利・義務関係に依拠して判断を下すことに対する手厳しい批判である。(実際、上で長く引用した文章の中でも、コースは、取引費用が存在しない世界では所有権も意味を失ってしまうとのCheungの所説を肯定している。)

 

一々、新聞記事に腹を立てていたらキリがないかもしれない。おそらくこの記者氏は忙しさにかまけ、どこかのまがい物の解説本をもとに、気軽にこの記事を書いたのではないかと思う。しかし、それではコース先生があまりに浮かばれないと思い、一言反論させて頂いた。

 


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