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羅生門(1950年、日本映画) [映画]

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台風が日本列島を縦断した敬老の日、自宅に籠もって過ごしたが、「羅生門」(監督:黒澤 明)のDVDを見た。この映画は、欧米のビジネススクールなどで教材として使われることがあるらしい。どこで読んだか、聞いたか覚えていないが、一つの事象でも立場の異なる人が見れば異なるストーリー、解釈になってしまう、といった趣旨だったと記憶している。確かにそういう見方もできるだろうが、私はもっと積極的なメッセージを感じた。(それ自体、私のモノの見方を反映しているのだろうが。)

 

一つは、人間の利己心の問題だ。人は互いに協力し合わないと生きていけないはずだが、貧困に追い込まれ、生活に余裕がなくなると、他人のことなど構っていられないといったメンタリティになりがちだ。最近見た映画「少年H」のなかにもそうしたシーンが出てきた(2013910日付け、当ブログ)。平安時代末期と終戦後では時代は遠く隔たっているが、明らかにダブるものがある。この映画が公開された1950年と言えば、まだ貧困と混乱の時代だ。そうした時代背景がこの映画に反映していないはずはない。

 

もう一つは、人間と人間の不信の問題だ。人間は自分勝手で、自分のためなら噓もつく。そして(この映画に出てきたセリフだが)、噓をつくと言って噓をつく人はいない。その結果、人が人を信じられない世の中になってしまう。オーウェルの「1984年」は独裁体制下の人間不信を描いたが(2012729日付け、当ブログ)、この映画のように、よりアナキーに近い社会でも人間不信が生じる契機は十分にある。だから、私は独裁体制にも全くの自由放任体制にも反対だ。

 

以下、自分への備忘録として書いたこの映画のメモを載せておく。映画を見る前にあらすじを知りたくない人にはお勧めしない。

 

     *     *     *

 

<登場人物>

杣(そま)売り:事件の通報者(かつ目撃者)。羅生門の下に佇む。

旅法師:山道を歩く武士とその妻の目撃者。羅生門の下に佇む。

下人:羅生門の下に駆け込んできた男。

 

武士(金沢武弘):旅の武士。山中で、死体で発見された。

その妻(真砂):山中を武士と同道していた女。

多襄丸(たじょうまる):悪名高い盗賊。女好きとしても有名。山中で武士の妻と姦通した。

 

     *     *     *

 

雨の羅生門に二人の男が佇んでいる。杣売りと旅法師だ。杣売りは「わかんねえ、何が何だかさっぱりわかんねえ」とつぶやいている。そこに下人が飛び込んできた。そして、杣売りと旅法師は今日、検非違使の庭であったという、その「わかんねえ」話を下男に語り始める。

 

<杣売りの話>

3日前、山に薪を切りに行ったとき、武士の死体を発見し、最寄りの役所に届け出た。

今日、検非違使庁に呼び出され、発見者は自分であること、死体の近くに市女笠(いちめがさ)、侍烏帽子、切れた縄、赤地織の守袋が落ちていたと証言した。

 

<旅法師の話>

旅法師も検非違使庁に呼ばれ、3日前の昼下がり、山道で死骸と同じ男に会ったこと、彼は馬に乗った女と一緒だったことを証言した。

 

<盗賊の話>

盗賊の多嚢丸(たじょうまる)が容疑者として検非違使庁に連行されてきた。殺された男の馬や武具を持っていたからだ。多嚢丸は、確かに自分があの男を殺したと言う。その事情は次の通りだ。

多嚢丸が山中で休んでいたとき、武士と女の二人連れを見かけ、女に欲情し後を追いかけた。そして男を連れ出して縛り付け、その前で女をモノにする。

望みを達成して帰ろうとしたところ、女が呼び止めた。(二人の男のうち)「生き残った男に連れ添いたい」と嘆願するのだ。

そこで多嚢丸は男と決闘し、勝利する。しかし、そのとき既に女はどこにもいなかった。

 

<女の話>

生き残っていた武士の女が検非違使庁に連れてこられた。彼女の話はこうだ。

多嚢丸は、夫の眼前で自分を手込めにすると、去って行った。自分は夫に駆け寄り抱きつくが、自分を蔑む冷たい怒りの目で見つめられた。

自分を殺すよう夫に頼むが、彼は身動き一つしない。そして自分は気を失い、気がついたときには、死んだ夫の胸に自分の短刀が刺さっていた。その後、自殺を試みるも、死に切れなかった。

 

<死んだ男の話>

死んだ男の代理人として巫女が呼ばれた。彼女を通して語られる夫の話はこうだ。

多嚢丸は妻とコトを終えた後、自分(=多嚢丸)と連れ添わないかと妻を誘った。これに対して妻は「どこへでも連れて行ってください」と答える。

さらに、妻は多嚢丸に夫を殺すよう頼む。それを聞いた多嚢丸は、自分のところに近づき、妻を殺すか生かすかと問いかけた。その間に妻は逃げてしまう。

後に一人残った自分は、妻に裏切られた無念さから、妻の短刀で自害した。

 

<杣売りの話>

実は、杣売りには検非違使庁で話さなかったことがある。関わりになるのがいやだったからだ。まず、男が刺されたのは短刀ではなく太刀だった。そもそも杣売りは男の死体を発見したのではなく、武士がまだ生きていたときからの一部始終を目撃していたのだった。

山中で杣売りが女の泣き声に気づいたとき、そこには縛られた男、女、多嚢丸の3人がいた。多嚢丸は女に、自分の妻になってくれと懇願していた。しかし女は「無理です。私には言えません。女の私に何が言えましょう?」と言う。

それに対し、女の夫は「こんな女のために命を懸けるのはご免だ」、「こんな女はくれてやる」と言う。一方、多嚢丸は一人で立ち去ろうとする。

急に泣き止んだ女は哄笑して、二人の男を挑発する。「女は何もかも忘れて、気違いみたいになれる男のものなんだ」と。

その挑発にのった二人の男は決闘し、結局、多嚢丸が武士を刺して決着をつける。そして女を連れて行こうとするが、彼女は逃げ去ってしまう。

 

     *     *     *

 

以上の話を全て聞き終わった下人は、杣売りの話も含め、誰の話も信じられないと言う。「人間のすることなんか全く訳がわかんねえって話だ。」

そのとき、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。置き去りにされた赤ん坊だった。下人はその着物を剥いで持ち去ろうとする。杣売りは下人に対し「お前は鬼だ」と非難するが、逆に「この赤ん坊を捨てた親の方が鬼だ」、「人の気持ちを考えていたらキリがねえ」、「人間が犬をうらやましがっている世の中だ」、「手前勝手でないやつは生きていかれる世の中じゃねえ」と反論される。杣売りは、「誰も彼もてめえのことばっかりだ。てめえ勝手な言い訳ばかりだ」とつぶやき、下人をさらに責めようとするが、「あの女の短刀はどこに行ったんだ、お前が盗んだんじゃないか」と言われ、返す言葉がなかった。・・・

しかし、映画は、人が人を信じられない世の中に、かすかな光が差し込むところで終わる。ちょうど雨が止み、赤ん坊を抱えて立ち去る杣売りに陽が当たる。


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