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ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズI・II』(講談社、2011年)(1) [読書]

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201110月にスティーブ・ジョブズが死去したのち、ほどなくして出版されたのがこの伝記だ。私もすぐに買い求めたが、上下2巻をちゃんと通読したのは今年の春だった。私がアップルの製品に最初に出会ったのは1985年とかなり古いが、その創業者であるジョブズについては、この本を読むまでほとんど知らなかった。彼は私より2歳年長なのでほとんど同時代人と言ってもいいが、その人生がまるで別世界なのに驚いたし、いろいろと考えさせられることが多かった。

 

1巻でカバーされているのは、ジョブズの出生(1955年)から結婚(1991年)までだ。

 

ジョブズの生みの親は、シリア出身のイスラム教徒である父親とドイツ系移民の母親で、二人はともにウィスコンシン大学の大学院生だった。しかし、二人は結婚することがかなわず、ジョブズは生後すぐに養子縁組に出される。養父母になったのは、機械いじりが好きな高校中退の父親ポール・ジョブズとその妻クララだ。生みの母親は「大卒の家庭」を希望したが、それはかなわず、代わりにジョブズを大学まで進学させることを条件に宣誓書にサインした。このことは、ジョブズ自身、のちにスタンフォード大学卒業式でのスピーチの中で語っている(http://news.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html)。なお、ジョブズはその後、生みの母親とは再会するが、生みの父親との再会は固く拒んだ。

 

中学時代のジョブズは飛び級を経験するなど勉強はできたが、いたずら好きで我の強い子供でもあった。高校時代には、HP社製の部品が必要だからと、CEOに直接電話をかけ、夏休みにHPの工場で働くなど、旺盛な行動力の片鱗も見せる。高校の卒業生で、5歳年長の天才プログラマー、スティーブ・ウォズニアックと知り合ったのもこの頃だ。

 

大学は、オレゴン州のリード・カレッジに進むが、ここで過ごしたのは1年半だった。必修科目がつまらないと言って中退するのだ。ただ、中退後もしばらく居候して、興味のある授業に出席し、その一つ「カリグラフィー」の授業が、のちに多様なフォントをパソコンで使えるようにしたきっかけとなったのは有名な話だ。また、菜食主義、断食、禅宗、瞑想などにのめり込んでいったのも、この大学時代だ。その後、インドの田舎で7ヵ月間過ごす、といった体験もしている。

 

1976年、ジョブズとウォズニアックはアップルを設立し、最初の製品であるアップルIを製造販売する。作業場所はジョブズの実家で、作業員は家族や友人だった。1977年に、完全パッケージの一体型パソコン、アップルIIを製造販売し大成功する。

 

アップルの名声を不動なものにしたのはマッキントッシュだが、このプロジェクトは当初、ジェフ・ラスキンという多才な開発者をリーダーとして細々と続けられていた。「マッキントッシュ」という名前も、ラスキンが好きなリンゴの品種にちなんでいる。しかし、このプロジェクトはやがてジョブズに乗っ取られた。ジョブズは、自分が主導していた別のプロジェクト「リサ」を、社長のマイク・スコットから降ろされて、そのリベンジをしたいと思っていたのだ。結局、リサは1983年に、マッキントッシュは1984年に発売されるが、両者にソフトウェアの互換性はなく、リサは2年も経たずに製造打ち切りとなった。この間、ジョブズの熱心な誘いに応じて、ペプシ・コーラのジョン・スカリーが1983年、アップルの社長に就いた。

 

当初は相思相愛に見えたジョブズとスカリーだったが、1985年春には、事業戦略や互いの性格、言動などをめぐって、その関係にひびが入りつつあった。そして、ジョブズはスカリー追放のクーデター計画を策動するが、逆にスカリーに機先を制されてしまう。こうして、5月にジョブズは何の権限もない会長職に祭り上げられ、9月にアップルを辞任する。

 

「アップルから追放されたあとに創設した会社で、ジョブズは、良い意味でも悪い意味でも本能のおもむくままに行動した。束縛する者もなく、自由だった。その結果、華々しい製品を次々と生み出し、そのすべてで大敗を喫する。これこそがジョブズ成長の原動力となった苦い経験である。その後の第3幕における壮麗な成功をもたらしたのは、第1幕におけるアップルからの追放ではなく、第2幕におけるきらめくような失敗の数々なのだ」(第I巻、p. 342)。

 

     *     *     *

 

私がアップルの製品に出会ったのはちょうどこの頃だった。1985年の秋、私はアメリカ東部のある大学院に留学した。当時、学内のコンピューター・ルームには「Macintosh 512K」や「Macintosh Plus」が入っていた。私が属していた学部では、コンピューター・ルームの受付の右側がMacintosh部屋、左側がIBM PC部屋だったが、Macintosh部屋は満員で順番待ちだったのに、IBM部屋はガラガラだった。Macintosh部屋がいつも混んでいた理由の一つは、当時、その学部で統計学を教えていた先生がマック用の統計ソフトを開発し、それを授業や宿題に使っていたためだが、ふつうのワープロとしてもよく使われていた。いちいちコマンドを打ち込む必要がなく、直感的に操作できるGUIGraphical User Interface)は、実に革新的で、レポートや修士論文の作成に大いに役立った。

 

そんなわけで、私が最初に買ったパソコンは「Macintosh SE」だ。日本で買ったら60万円以上はしたと思うが、アメリカの大学で学割で購入したので、2030万円だったと記憶している。さらに、のちに博士課程に再入学した際には、「Macintosh IIsi」を購入した。ワープロ、表計算ソフトが主な用途で、統計計算は、大学の大型コンピューターで行っていたが、電話回線を介して自宅の端末として重宝した。

 

しかし、1993年にハワイの研究所に就職すると、そこはIBM PCオンリーの職場環境で、コンパックのPCを買い与えられた。その頃にはWindowsもかなり使いやすくなっていたこと、統計ソフトもMac用より充実していたことなどもあって、急速にMac離れが進んだ。ハワイ時代にノート版のMacである「Macintosh PowerBook」を買ったが、画面が暗く、あまり使わなかった。その後、今年になって「MacBook Air」を買うまでの20年近くの間、Macのパソコンを買いたいと思ったことは全くなかった。

 

この間も、それ以前も、アップルの経営者の交代や社内のさまざまな闘争に関してほとんど興味、関心がなく、無知だったが、私がアップルの製品を愛用したり、しなくなったりしたのは、(タイムラグや感度の鈍さはあるが)基本的には製品の質、魅力だったと思う。その意味で、本書の中でジョブズが次のように言っているのは、合点がいく。

 

アップルに来るまで、スカリーは炭酸飲料やスナック菓子など、レシピを気にもしていないものを売る仕事をしており、製品に強い思い入れを持つタイプではなかった。これは、ジョブズにとってこれ以上はないという大罪だった。「エンジニアリングの機微を教えようとはしたんだけど、製品がどのように作られるのか彼は理解できず、最後はいつも口論になってしまった。でも、僕は自分の見方が正しいとわかっていた。製品がすべてなんだ」(第I巻、p. 307)。

 

それにしても、ジョブズというのはこんなに大変な人だとは知らなかった。世間的なルールを無視しても構わないという信念、人は「賢人」か「バカ野郎」しかおらず、仕事の出来は「最高」か「最低最悪」しかないという極論、ともに歩んできた人間にも感傷を抱かない冷酷な神経、何でも自分の思い通りにしないと気が済まない我の強さ、・・・。ジョブズの下で働くなど、私にはとうてい無理だと思うが、一消費者の立場で言えば、良いものを作って、リーズナブルな価格で売ってくれればそれでよい。経営者にとって最も重要な資質は何か、われわれに問い詰めているようである。


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