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村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 [読書]

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先週末、村上春樹の新作、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。マスコミ報道がすごく、分量的にもすぐ読めそうだったので、つい衝動買いしてしまった。正直に言えば、私は村上春樹の熱心なファンではない。数年前、文庫本で『ノルウェイの森』を読んだのが最初で、そのあと『羊をめぐる冒険』、『海辺のカフカ』なども読んだが、あまりに現実離れした設定と難解な精神世界の描写について行けず、その後、遠ざかっていた。

 

したがって、今回の作品をいわゆる「村上ワールド」の中にきちんと位置づけ、評価するなどということは、私にはどだい無理な話だ。しかし、多種多様な読者の一人として気ままな感想を素直に記しておいてもバチは当たるまい。

 

            *    

 

小説の主人公、「多崎つくる」(戸籍上は「作」と書く)は、現在36歳、首都圏の電鉄会社で駅舎の設計・営繕を行うエンジニアだ。彼は名古屋の高校時代、男2人、女2人に彼を加えた5人の親友グループのメンバーだった。彼以外の4人の名字には、赤、青、白、黒という色彩を示す漢字が含まれており、それぞれアカ、アオ、シロ、クロと呼び合っていた。しかし、彼は、大学2年生の夏、他の4人から絶交されてしまう。理由に全く心当たりがない彼は大いに混乱し、半年ほど「ほとんど死ぬことだけを考えて生きていた」。

 

彼が36になり、ちゃんとしたサラリーマン生活を送っているということは、この辛い時期を何とか生き延びたことを示しているが、生き延びた後の彼は人が変わってしまったようで、高校時代の親友4人のことも封印してしまう。そんなとき、沙羅というガールフレンドが現れ、彼に絶交の理由を探求すべきだと強く勧める。彼女は4人の現在の所在を調べ、つくる4人を訪ねる「巡礼」を始めた。

 

            *    

 

以下は、私の感想だ。

この小説では、名字に含まれる色があちこちで強調されている。赤、青、白、黒という4人の親友の名字もそうだが、このほかに灰、緑も登場する。しかし、これらの色が何を暗示しているのか、私には最後までわからなかった。もっと言えば、色には何の意味もないと思っている。実際、4人のうちの一人、クロは、巡礼に訪れたつくると再会したとき、クロやシロという呼び名を拒否し、ファーストネームであるエリ、ユズと呼ぶように求めた。

 

「ひとつだけお願いがあるの」とクロは言った。「私のことをもうクロって呼ばないで。呼ぶのならエリって呼んでほしいの。柚木のこともシロって呼ばないで。できれば私たちはもうそういう呼び方をされたくないから」(p. 285)。

 

小説の途中で登場する「灰」や「灰」の父親の思い出話の中で登場する「緑」も謎めいた存在だ。結局、彼らがこの小説の本筋とどのように関わるのか、私には全くわからなかった。なぜ、村上は読者の注目を色に集めようとしたのか。色に意味がないことを強調するための一種の修辞技法なのか、単に読者の関心をひくためのマーケティング戦略なのか。エリが再会したつくるに対して言ったつぎの言葉は、あまりに当たり前の話ではないだろうか。「王様は裸だ」みたいな。

 

ねえ、つくる、ひとつだけよく覚えておいて。君は色彩を欠いてなんかいない。そんなのはただの名前に過ぎないんだよ。私たちは確かにそのことでよく君をからかったけど、みんな意味のない冗談だよ。君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。(p. 328

 

この小説の重要なモチーフはたぶんつぎのようなことだ。これもつくるがエリと再会したシーンの中に出てくる。

 

そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。(p. 307

 

確かに、人間関係は楽しく美しいものばかりではない。悲しく醜い面が山のようにある。村上春樹が高く評価されている理由の一つは、おそらく人間のそうした側面を見事に描く力量があるからであろう。私にはとてもできない。そうした側面を知らないからではない。無関心、無意識でもないつもりだ。ただ、深くまともに向き合おうとすれば、自分が傷つき打ちのめされることは必至だからだ。さらに、それを他人に伝えるとなれば、その恥ずかしさ、痛みは想像を絶する。全くアカの他人の話として書くことも無理だ。他人の心の中を見ることは誰もできない。したがって、それを描いたとしても、結局は自分自身の精神世界の投影であるとの疑念はぬぐい去れない。

 

上のモチーフと深く関連するのは、つくるのガールフレンド、沙羅のつぎの言葉だ。

 

「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」。沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」(p. 40)。

 

これと同趣旨のセリフは、小説の後半部分に至るまで、何度か繰り返し登場するのだが、私はこの箇所を読んで思わずニヤッとしてしまった。というのは、私も全く同じことを考え、このブログに書いたことがあるからだ。

 

フランス語で「覚えている」、「思い出す」という意味の動詞は«se souvenir (de qn/qc)»だ。名詞としての«souvenir»には、「思い出」、「みやげ」などの意味がある(英語のsouvenirも明らかに同根だ)。語源としては、«sou(s)»「下に」+«venir»「来る」、すなわち「意識の下に来ているもの」、「ちょっとしたきっかけで意識に上るもの」といった感覚だろうか。(2012310日付、当ブログ「モネ「舟遊び」(1887年)、「日傘の女」(1886年)」)

 

時間の経過は、確かに辛い体験を記憶の奥底に追いやってくれる。そうしないと日々生きていくことはできないからだ。しかし、辛い記憶は単に沈殿しているだけであって、消え去ってしまったわけではない。そして、それは一人の個人の中でのみならず、世代間でも引き継がれていくことがある。(2012318日付、当ブログ「パスカル「パンセ」-時は全てを癒やすか?」)

 

大作家と同じことを考えたり、書いたりしたというのは、悪い気はしない。私の内なる「つくる(作る)君」もなかなかやるじゃないか、と(笑)。

 


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