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1945年8月15日の永井荷風 [読書]

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荷風に興味がない方にはどうでもいいことだろうが、1945年の815日、永井荷風はどこで何をしていたか。彼の日記、『断腸亭日乗』には次のようにある(以下、引用はすべて『摘録 断腸亭日乗(下)』1987年、岩波文庫より)。

 

  ×   ×   ×

 

八月十五日。陰(くも)りて風涼し。宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼、茄子香の物なり。これも今の世にては八百膳(やおぜん)の料理を食するが如き心地なり。飯後谷崎君の寓舎に至る。鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る。雑談する中(うち)汽車の時刻迫り来る。再会を約し、送られて共に裏道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分発の車に乗る。新見の駅に至る間隧道(すいどう)多し。駅ごとに応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る。されど車中甚しく雑踏せず。涼風窓より吹入り炎暑来路に比すれば遙に忍びやすし。新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり。欣喜措く能はず。食後うとうとと居眠りする中(うち)山間の小駅幾箇所を過ぎ、早くも西総社(にしそうじゃ)また倉敷の停車場をも後にしたり。農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る。午後二時過岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。 [欄外墨書] 正午戦争停止。

 

  ×   ×   ×

 

多少前後関係を説明しないとわかりにくいだろう。1945年の春以降、東京への空襲が激しさを増す中、荷風は東京脱出を試みる。62日に、列車の乗車券をようやく手に入れることができ、罹災民専用大阪行きの列車に乗る。明石にいったん逗留した後、岡山に疎開する。もっとも岡山も安全ではなく、628日夜の空襲では、「余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり」といった経験もした。

 

荷風が岡山に疎開したのは、当時、友人の谷崎潤一郎が岡山県の勝山町(現在は、岡山県真庭市勝山。中国山地の山の中で、東に津山市、西に新見市がある)に疎開していたという事情もある。荷風は8月に、谷崎に会いにこの勝山に行き、接待を受ける。ただ、長く厄介になるわけにもいかないと、815日、勝山から岡山に帰ることにしたのだった。

 

冒頭に引用した815日の項を見ると、食べ物のことばかり書いているのが荷風らしい。終戦に関する記述は最小限だが、その後、次第に様子がわかってくるにつれ、表現も強くなっていく。

 

・「八月十七日。・・・休戦公表以来門巷寂寞たり。市中の動静殆(ほとんど)窺知りがたし。・・・」

・「八月十八日。食料いよいよ欠乏するが如し。朝おも湯を啜(すす)り昼と夕とには粥に野菜を煮込みたるものを口にするのみ。されど今は空襲警報をきかざる事を以て最大の幸福となす。・・・」

・「八月二十日。・・・とにかく平和ほどよきはなく戦争ほどおそるべきものはなし。」

 

結局、荷風は829日に帰京のための切符を手に入れ、東京へ帰ることとなった。

・「八月廿九日。晴れて風涼し。正午村田氏の細君と共に岡山駅に至り、ツーリストビューローの事務員に面会し、金子(きんす)一包を贈り、東京行二等の切符を手にすることを得たり。事皆意外の成就にて夢に夢みる心地なり。・・・」

 

別に荷風でなくてもよいが、世代から世代へ歴史を語り継いでいくことは大切だと思う。

 


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