宮沢賢治「フランドン農学校の豚」 [読書]
スティーブン・スピルバーグ監督の映画「戦火の馬」は、馬と人間の心の交流を描いた心温まる映画だ。確かに馬は何度も辛い目にあうが、それは人間の側も同じことだ。それに比べ、宮沢賢治「フランドン農学校の豚」における豚と人間の関係はもっと切ないものがある。
この小説は、フランドン農学校に飼われていた食用肉豚の話だ。ある豚が殺される予定の前月になって、国王から「家畜撲殺同意調印法」という布告が出され、家畜を殺す場合、飼い主はその家畜から死亡承諾書を受け取ること、そしてその承諾書に家畜の調印を要することが決められたのだ。このため校長先生は、豚から死亡承諾書をとろうとして苦労する。
× × ×
校長: どうだい。今日は気分がいゝかい。
ブタ: はい、ありがたうございます。
校長: いゝのかい。大へん結構だ。たべ物は美味しいかい。
ブタ: ありがたうございます。大へん結構でございます。
校長: さうかい。それはいゝね、ところで実は今日はお前と、内内相談に来たのだがね、どうだ頭ははっきりかい。
ブタ: はあ。
校長: 実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。人間の中の貴族でも、金持でも、又私のやうな、中産階級でも、それからごくつまらない乞食でもね。
ブタ: はあ、
校長: また人間でない動物でもね、たとへば馬でも、牛でも、鶏でも、なまづでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣(かげろう)のごときはあしたに生れ、夕(ゆうべ)に死する、たゞ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。
ブタ: はあ。
校長: そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た。大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずゐぶん大事にしたはずだ。お前たちの仲間もあちこちに、ずゐぶんあるし又私も、まあよく知ってゐるのだが、でさう云っちゃ可笑しいが、まあ私の処ぐらゐ、待遇のよい処はない。
ブタ: はあ。
校長: でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなやうなことが、ありがたいと云ふ気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知をしては貰へまいか。
ブタ: はあ。
校長: それはほんの小さなことだ。ここに斯う云ふ紙がある、この紙に斯う書いてある。死亡承諾書、私儀永々御恩顧の次第に有之候儘(これありさうらふまま)、御都合により、何時にても死亡仕るべく候 年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイヤ、フランドン農学校長殿 とこれだけのことだがね、 つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云ふことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいゝうちは、一向死ぬことも要らないよ。こゝの処へたゞちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押しておいて貰ひたい。それだけのことだ。
ブタ: 何時にてもといふことは、今日でもといふことですか。
校長: まあさうだ。けれども今日だなんて、そんなことは決してないよ。
ブタ: でも明日でもといふんでせう。
校長: さあ、明日なんていふやうそんな急でもないだろう。いつでも、いつかといふやうな、ごくあいまいなことなんだ。
ブタ: 死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか。
校長: うん、すっかりさうでもないな。
ブタ: いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。
校長: いやかい、それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬猫にさへ劣ったやつだ。
ブタ: どうせ犬猫なんかには、はじめから劣ってゐますよう。わあ。
× × ×
結局、豚は死亡承諾書に爪判(つめばん)を押さされ、殺される。以前、社会人大学院生だったA氏から、この小説とダブらせながら、自らのサラリーマン生活やリストラ体験を綴ったエッセイをもらったことがある。私は、会社、あるいはより広く組織の論理と個人の心情はしばしば一致しないし、個人が組織の理不尽さに憤りを感じることが少なからずあるといったことは全く否定しない。しかし、だからと言って、サラリーマンを「社畜」だと見なすのは、行き過ぎだと思う。
多くの場合、サラリーマン生活は辛いことばかりではない。よい仲間に恵まれ、やりがいのある仕事を経験することも多い。それによって自分も成長する。ちゃんとした組織ならそうしたチャンスは多いはずだ。また、サラリーマンを辞めて自営業(あるいは自由業)を始めたら、全く「自由」になれるというものでもない。自営業の場合、「上司」の指示を受けることはないが、今度は、顧客や取引業者などの意向を気にしなければならない。就業形態と「自由」の関係はそれほど単純ではないと思う。この点は、改めて論じたい。
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