リーマン・ショックと合成の誤謬 [経済]
2008年9月2日の夜、私はジュネーヴ国際空港に到着し、翌3日から勤務先の国際機関に出勤した。2年間にわたったヨーロッパ生活のスタートだ。その2週間後、いわゆる「リーマン・ショック」が起き、勤務先での仕事内容にも次第に大きな影を落とすようになった。にわか勉強で金融市場や世界経済の最近の動向をフォローしたが、そのときに読んだ本の一つが、リチャード・ブックステーバー『市場リスク 暴落は必然か』(日経BP社、2008年5月)だ。
著者は、MITで経済学博士号を取得し、モルガン・スタンレーやソロモン・ブラザーズなどの名だたる金融機関で、金融商品のリスク・マネジメントやヘッジファンドの運用を行ってきた人物で、まさに金融危機を引き起こしたプレーヤーの一人だ。(もちろん、政治家や政策、規制当局の幹部らも重要なプレーヤーだ。)
この本の最初の方に、次のような記述がある。著者が、ある若いオプション・セールスマンとの間で交わした会話の要点だ。
Q) 株価指数が下がったら、あなたはどうするか?
A) 相場が下がれば株式を売って、さらなる損失を防ぐだけだ。
Q) では、全ての投資家が同じことをしたら、市場にどんな影響が及ぶか?
A) 株価の下降スパイラルへと突き落とされる。
「この結論にたどりつくことは造作もなく、どんな人でもそうした結論を導き出せたはずである。しかし、誰もがこの最新のイノベーション(引用者注:ポートフォリオ・インシュアランス・プログラムのこと)を売り込んで、カネ儲けをすることに興じすぎて、この種の不快なシナリオについて真剣に考えることなどできなかったのだろう。」(p. 35)
この箇所を読んで、すぐに思い出したのは、昔、大学で経済学を勉強したときに読んだサムエルソンの教科書の最初に出てきた「合成の誤謬」(fallacy of composition)の話だ。
「合成の誤謬 一部分について真であることが、そうであることだけのゆえに、全体についても必然的に真であるとみなされる誤謬。」
「経済学の分野ではとくにはっきりといえることだが、個人にとって真であるようにみえることが、必ずしも社会全体にとっては真でないということ、また逆に、全体にとって真であるようにみえることが、いずれか一個人にはまったく当てはまらないかもしれないということが多い。行列をよく見ようとして、ひとりだけ爪先立ちするなら効果があるけれど、誰もがそうしたのでは役に立たない。経済学の分野では、この種の例を無数にあげることができよう」(P.A.サムエルソン『経済学(上)』(原書第11版、1980年)、岩波書店刊、1981年、pp. 15-16)。
これは、経済学を勉強する場合の注意点をいくつか記した序章に出てくる。サムエルソンの教科書(日本語版)は、上下2巻に及ぶ分厚いもので、全部通読するのは正直しんどいが、最初の章くらいは当時の経済学部生の多くは読んだはずだ。そして、序章の中でも、合成の誤謬は最も印象深い指摘と言ってよい。実際、大学卒業後に出会った、ある理系出身者は私に、「経済学の勉強と言えば、サムエルソンを読んだくらいだけど、その中に、映画館で一人の観客が立てばよく見えるが、みんなが立ち上がると誰も見えなくなってしまうとかいう話が載ってたよね。あれはおもしろかった。覚えているのは、それくらいだけど・・・」と語ったものだ。確率微分方程式など高度な数学に通じたファイナンス研究者が開発した投資戦略プログラムが、このように単純な合成の誤謬を考慮していなかったとは、正直言って驚きだ。
ただ、今回、サムエルソン『経済学』のその後を調べてみて、少々合点がいった。サムエルソンの単著としての教科書は1985年の第12版が最後で、それ以降はノードハウスとの共著になる。そのヴァージョンにも「合成の誤謬」は載っているが、説明は簡略になっている。そして、サムエルソンとノードハウスの共著は、グローバル教科書市場での覇権を失い、ハーバードの若手経済学者マンキューの教科書が新たな覇者となる。しかし、マンキューの教科書には、「合成の誤謬」のゴの字も出てこない。
学問は時代とともに進歩するのかどうか、社会科学の分野では怪しい気がする。少なくとも、研究分野の細分化や研究手法の数学的高度化は進歩のメルクマールではない。
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