SSブログ

「最後の晩餐」(5)-(再論)誰がユダか? [美術]

daVinci1490s_4.jpg 

ユダが銭袋を持っているか、いないかに注目してさまざまな「最後の晩餐」を見るうちに、私はいくつかの疑問を感じ始めた。

 

・多くの画は、ユダに銭袋を持たせている。たぶん、それがユダだと示すためだろう。でも、それは「知識」に属することであって、「考える」ということではない(もちろん、「考える」ためには「知識」が必要だが)。パスカルに倣って、よく考えたい。聖書の記述を素直に読む限り、「最後の晩餐」の席でユダが既に銀貨を受け取っていたかどうかは、必ずしも明確でない。仮に受け取っていたとして、それを他人から見えるように持っているだろうか。また、ヨハネ伝によると、ユダは十二使徒のいわば会計係だったのであり、銭袋を持っていたとしても何ら怪しいことはない。

 

・また、多くの画は、ユダをいかにも悪そうに描いている。しかし、そうした発想はあまりに単純すぎないか。人間の世の中には、天使の顔をした悪魔もいれば、悪魔の顔をした天使もいる。さらに厄介なことに、(確か、丸山真男がどこかに書いていたが)同じ人間が、時には悪魔に、時には天使になる。

 

・そもそも、「ユダ=裏切り者=悪人」というのが当然の前提となっているが、これすら怪しい。例えば、ペトロだ。彼はイエスに「あなたのためなら命を捨てます」と言うが、イエスは「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と答えた(ヨハネによる福音書、第1337-38。同様の記述はマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝にもある)。その予言通り、ペトロはイエスが逮捕されたあと、イエスの弟子の一人ではないかと追及されるが三度にわたって、「違う」と否定する。ほかの弟子たちはどうか。イエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のである(マタイによる福音書第2656。同様の記述はマルコ伝にもある)。

 

こうしたことを考えると、「最後の晩餐」で銭袋を持っているのがユダだ、そしてユダは裏切り者で悪い奴だ、だから(多くの場合)いかにも悪人らしく描かれるという「結論」や「知識」は、あまりに皮相な見方と言えないだろうか。私は、そう思うようになった。

 

はたして、アレナスのNHK番組「最後の晩餐 ニューヨークをゆく」はどのような「結論」で終わったのか。

 

「表向きはユダのモデルとして描かれたという一人の罪人の容貌の端々が、ほかの使徒たちの面影にも宿っているのは驚くにあたらない。誰もが幾つかの点で、イエスに背くからである。福音書は、追われる身のイエスがオリーブ山に祈りに出かけた間、一睡もしてはならないはずの使徒たちが居眠りをしたと伝えている。イエスの信頼がもっともあつかったペテロでさえ、その日、イエスなど知らぬと三度も嘘をついている」(片桐頼継、アメリア・アレナス『よみがえる最後の晩餐』NHK2000年、p. 219)。

 

「レオナルドの『最後の晩餐』に描かれた裏切り者は、銀貨三十枚入りの財布を握りしめたユダ一人にとどまらない。画面全体に、罪の意識が充満している。そこかしこに見られる動揺、衝撃、憤怒、そして悲嘆の源は、すべてそこにあるといっても良いのではないか。そして主題は、聖書の物語の枠をはるかに越えて伝えられている。十二人の使徒は一人残らず私たちの心の裡にいるのだ」(同上書、p. 219)。

 

ある意味では、「ユダ=われわれ皆」説である。私も首肯できる。さらに彼女は「ユダ=ダ・ヴィンチ」説の可能性すら言及する。

 

「『最後の晩餐』は、信頼すべき庇護者ルドヴィコ・スフォルツァに対するレオナルドの裏切りの前触れであったともいわれる。二人の付き合いは長く、この名高い壁画もルドヴィコの依頼で描かれた。ルドヴィコがミラノから追放された時、同志の多くがレオナルドの友人も含めて迫害を受け、あるいは生命を失ったが、レオナルドはルドヴィコの仇にあたるフランス宮廷のために働くことにしたのだった」(同上書、p. 220)。

 

ルドヴィコ・スフォルツァというのは1489年から1508年までミラノを統治したミラノ公で、ダ・ヴィンチのミラノ滞在時期(1482年から1499年)の最大のパトロンだった。2012423日付の当ブログ記事「自動販売機」で飲料の自動販売機も売店もないと不満を述べた「スフォルツァ城」の当主だった人物である。彼は、1508年、部下の傭兵隊長の裏切りにより、フランス軍に捕らえられ、投獄され獄死する。

 

一方、ダ・ヴィンチは1516年、フランスのフランソワ1世の招きで、フランス、ロワール地方のアンボワーズに移り、1519年に死ぬまでフランス国王の庇護の下、余生を過ごすことになる。私は、その経緯について詳しくは知らないが、自分の最盛期のパトロンを殺した相手方の庇護を受けることになったのは事実関係として確かである。パスカルが言う「人間の二重性」を想起せざるを得ない(2012414日付当ブログ「パスカル「パンセ」-人間の二重性」を参照)。

 

<この項、完>

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。