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ブリューゲルのパトロン [美術]

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ブリューゲルはなぜ障がい者を描いたのか、という問に含まれる一つのサブ・クエスチョンは、彼のパトロン(あるいは、より広く顧客)は誰だったのか、という点である。彼は有力者の肖像画を描くこともなく、「売れない」絵を画く一方、「売れる」絵で稼いでいたという節もない。また、画家は副業で、他に本職があったわけでもない。私の仮説は、おそらく物好きな新興ブルジョワがパトロンだったのではないかというものだが、なかなか証拠が見つからなかった。

 

しかし、最近ジョン・マクミランの『市場を創る』(NTT出版、2007年)を読んでいたら、興味を引く記述があった(同書35ページ)。以下に引用する。

 

レンブラントは、絵画だけでなく商業におけるイノベーターでもあった。彼は17世紀アムステルダムにおいて本格的な美術品市場を確立することに尽力した。歴史家のスヴェトラナ・アルパーズによれば、「市場システムの複雑な細部に対するレンブラントの執着は、彼の人生と仕事を貫いていた。」当時、芸術家たちは自由に活動していたわけではなく、裕福な力のある後援者に依存していた。レンブラントは、パトロン・システムを終わらせ、その代わりに広範囲の美術品バイヤーによって支えられる市場を築くために、決然と尽力した。彼の目的は自分の作品により高い価格がつくようにすることであったが、彼はまた、競争的市場が少数のパトロンたちの世話になっている状況より、大きな芸術的自律性をもたらすと考えていた。アルパーズ曰く、レンブラントは「芸術をもっと栄誉あるものとするために市場を用いていた。」

 

上で引用されているアルパーズは、Alpers, Svetlana (1988). Rembrandt’s Enterprise: The Studio and the Market, Chicago: University of Chicago Pressである。

 

なるほど。しかし、レンブラントはブリューゲルより1世紀後の人である。16世紀オランダの状況はどうだったのか。灯台もと暗し。ヨーロッパの美術館で購入したブリューゲルの解説本、ローズ=マリー・ハーゲン、ライナー・ハーゲン『ブリューゲル』(Taschen2008)の中に答があった。以下長くなるが、関連箇所を引用する。

 

・「彼(=ブリューゲル)の名は多くの人に知られており、故郷の小さな町で彼の作品は高い金銭価値を持つものとして認められ、取り引きされていた。このことは、あるネーデルラント商人が、担保として特にピーテル・ブリューゲルの作品16枚をリストに挙げていることから明らかである」(p. 7)。

 

・「(ブリューゲルが暮らしていた)アントワープはヨーロッパの中でも最も発展を遂げていた町であった。西洋における新しい金融・経済の中心地であり、多くの国から商人が集まってきた。・・・物品売買と迅速な貨幣流通は画家や画商にも利益をもたらした。1560年にアントワープで創作活動をしていた画家の数は360名にものぼると言われている。極めて高い数字だ。アントワープの人口が1569年当時、89千人だったことを考えると、実に市民の約250人に1人が画家だったことになる。何十年もの間、画家にとってアルプスの北方にアントワープ以上の町はなかった」(p. 15)。

 

・「«バビロンの塔»というタイトルが付けられた絵は、アントワープの商人であり銀行家であったニコラース・ヨンゲリンクの担保リストの中にも登場する。・・・1565年にブリューゲルの作品を16点所有していたヨンゲリンクは、裕福で教養があるエリート階級の一員という典型的なブリューゲルの購入層に属する人物だったと思われる」(p. 21)。

 

・「ブリューゲルの作品は、多くが顧客からの注文で描かれたものと考えられる。ただし細部に至るまで指示を受けることはなかったようだ。銅版画用の下絵として使われた素描画に関しては、ほとんどが注文を受けて描かれたものであることに間違いない。注文者はアントワープで版画店『四方の風』を経営していたヒエロニムス・コックである。銅版画の製造・印刷・販売をとりしきっていたコックは、どのような作品が欲しいかをかなり明確にして注文を出していたようだ。コックは、市場の要求を満たし、顧客の希望をかなえることを重視していた」(pp. 21-22)。

 

・「何百年もの間、芸術家にとって最大の注文主は教会と修道院であった。この伝統に終止符を打ったのが宗教改革である。カトリック教会の豊かな絵画装飾は、プロテスタントにとっては世俗化と、本来許されていない贅沢と権力の追求の象徴であった。・・・知られている限りでは、ブリューゲルの絵の中には、教会のために画かれたものは1枚もない。これは、当時の政治的状況と教会のおかれていた状況によるものである。つまり、ルター派と改革派は絵画を必要としてはいなかったし、カトリック教会は所有していた絵画を手元に留めるだけで、それ以上の行為は控えていたのである。しかし、カトリック教会がブリューゲルの絵に関心を示さなかったのは、彼の作品スタイルゆえでもあった。1545-1563年のトレント公会議で表明された反宗教改革の戦略は、芸術家に対し、聖人を聖人としてはっきり際立たせ、他の人間とは明らかに区別して表現することを求めた。ブリューゲルの絵はまさにその反対だったのである」(p. 25)。

 

以上を要するに、

・ブリューゲルには、新興ブルジョワのパトロンがいた。

・版画のように多くの生産が可能なものは、より広範な顧客がいた。

・さらに、彼の作品は資産的価値があり、市場取引が行われていた。

・プロテスタントの勢力拡大は、宗教画への需要を減らしたが、仮にそうした要因がなかったとしても教会はブリューゲルの絵の顧客たり得なかっただろう。なぜなら、彼の絵は教会が望む内容ではなかったからだ。

・一方、ブリューゲルが、反カトリック的な絵を描き得たのは、新興ブルジョワジーのパトロン、絵画の取引市場、表現の自由に関する一定程度の保護(キリスト教の否定は困難だったにせよ、少なくともローマ法王庁の教義に縛られないだけの自由)、そして何よりも彼の表現への強い意志があったからである。

 

そもそも表現すべき精神がなければ、表現の自由があってもしょうがない。

 

*写真は、オランダ、アムステルダムの国立ミュージアム蔵、レンブラントの「自画像」。

 


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