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太宰治「新樹の言葉」 [読書]

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私は太宰の熱心な読者であったことはないが、彼の文章力、とりわけ比喩表現の巧みさにはしばしば感心する。例えば、この小説の冒頭で彼は、甲府のことを次のように表現する。

 

「甲府は盆地である。四辺、皆、山である。小学生のころ、地理ではじめて、盆地という言葉に接して、訓導からさまざまに説明していただいたが、どうしても、その実景を、想像してみることができなかった。甲府へ来て見て、はじめて、なるほどと合点できた。大きい大きい沼を、搔乾(かいぼし)して、その沼の底に、畑を作り家を建てると、それが盆地だ。・・・沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、『擂鉢の底』と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである」(『太宰治全集2』ちくま文庫、pp. 267-268)。

 

この小説自体は短く、ストーリーも他愛ないと言えば他愛ない。東京での生活に倦んで甲府にやってきた主人公、青木大蔵が、内藤幸吉と名乗る若者と偶然出会う。その若者は青木に対して、津軽であなたの乳母をしていた女性の息子だと名乗り、青木も記憶がよみがえる。その乳母をしていた女性、つるは、乳母を辞めた後、甲州の甲斐絹問屋の番頭のところに嫁ぎ、一男一女をもうけたのだった。夫は、やがて独立して甲府で呉服屋をはじめたが、つるは若くして死んでしまい、呉服屋は傾き、夫は自殺し、二人の子供が残された。

 

幸吉は、出会った日に青木を立派な料亭に誘う。それは、かつて自分が生まれ育った呉服屋の建物に他ならない。青木はすっかり酔っ払って悪態をつく。

 

「私が大学の先生くらいになっていたら、君は、もっと早く、私の東京の家を探し出して、そうして、君は、君の妹さんと二人で、私を訪ねて来た筈だ。いや、弁解は聞きたくないね。ところが私は、いま、これときまった家さえない、どうも自分ながら意気地のない作家だ。ちっとも有名でない」(p. 285)。

 

「『しょげちゃいけない。いいか、君のお父さんと、それから、君のお母さんと、おふたりが力を合わせて、この家を建設した。それから、運がわるく、また、この家を手放した。けれども、私が、もし君のお父さん、お母さんだったら、べつに、それを悲しまないね。子供が、二人とも、立派に成長して、よその人にも、うしろ指一本さされず、爽快に、その日その日を送って、こんなに嬉しいことないじゃないか。大勝利だ。ヴィクトリィだ。なんだい、こんな家の一つや二つ。恋着しちゃいけない。投げ捨てよ、過去の森。自愛だ。私がついている。泣くやつがあるか。』 泣いているのは私であった」(pp. 285-286)。

 

それから二日後の夜中、火事があった。青木が城跡の高台まで上って見下ろすと、燃えているのは例の料亭だった。とんと肩をたたかれ振り向くと、幸吉兄妹だった。「あ、焼けたね。」「ええ、焼ける家だったのですね。父も、母も、仕合わせでしたね。」

 

小説の最後は、青木のつぎの言葉で結ばれている。「君たちは、幸福だ。大勝利だ。そうして、もっと、もっと仕合わせになれる。私は大きく腕組みして、それでも、やはりぶるぶる震えながら、こっそり力こぶいれていたのである」(p. 291)。

 

今日は、卒業式ということもあって、この小説を思い出した。太宰に代わって、私からも卒業生諸君にひとこと言おう。「困難な時代に巣立つ君たちは大変だと思う。でも、かつてより恵まれていることもたくさんある。いずれにせよ、君たちは若い。それだけでも大勝利だ。Bravo! Bon courage!

 

*写真は、甲府の山梨県立美術館にて。富士山がかすかに、爪先程度のぞいている。

 


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