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モデル分析の意義と限界 [経済]

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前回のブログ(2012530日付「天国の喩えとしての「ぶどう園の労働者」(マタイ伝20章)」)では、人々の「公正」観の多様性と移ろいやすさ、そして「喩え話」の限界について書いた。「喩え話」の限界とは、次のような意味だ。「喩え話」は、話のポイントをわかりやすく説明するために複雑な現実の中から、ある一部の事象のみを取り出して論点を提示するが、しょせん現実の一側面に過ぎないので、その適用には限界があるということだ。

 

これは多くの科学者が用いる「モデル分析」の意義と限界にも通じる。例えば、経済学者は、社会科学の中でも特にモデル分析を多用しているが、いかなる場合も、モデルは現実のごく一部を取りだしたものに過ぎない。実際、「現実のあらゆる様相を考慮に入れたモデルは、原寸大の地図同様役に立たない」(J.ロビンソン『経済成長論』東洋経済新報社、1963年。「原寸大の地図」は、Lewis Carroll, Sylvie and Bruno. p.169より)のである。

 

モデルを地図に喩えるのはうまい比喩だと思う。最も「正確な」地図というのは実際の地形や構造物そのものであろう。でも、それを再現することは不可能だし、そもそも「実際の地形や構造物」が既に存在しているのを、あえて再現する必要もない。地図が有益なのは、正にそうした現実そのものではなく、それを大胆に捨象して、ある特定の目的にとって有益なようにデフォルメするからである。例えば、世界にどんな国があるかを示すのに、現実の国土の色とは全く関係のない色をつけて国を描いたりする(今はどうか知らないが、私が子供の頃、日本はよく赤く塗られていた)。鉄道の路線図(冒頭の写真はパリの地下鉄路線図)は、各路線の駅の配置や乗換駅については正確だが、実際の距離や方角は不正確だ。なぜなら路線図の目的は前者の情報であって後者ではないからだ。

 

このように考えると、モデルの作り方、使い方がはっきりしてくる。まず、モデルには明らかにしたい、あるいは説明したい何らかの事象がある。そのために、それ以外の事象については思い切って捨象する。そうして作られたモデルは、もちろんその現実妥当性や予測能力を検証する必要があるが、その目的外使用には慎重でなければならない。そもそも、そこまで広い適用範囲を想定して作られてはいないからだ。これは鉄道の路線図から、2つの駅の間の正確な距離を測るのがナンセンスなのと同じである。一方、本来の目的に沿って、正しく作られたモデルを用いることの意義はいくら強調してもし過ぎることはない。研究者はそのためにいるのである。

 

近ごろの日本の政策論議を見ていると、政治家も研究者もこうした点の理解がどうなっているのか、首をかしげたくなることが多い。正しいモデルを本来の目的に沿って使わずに、適用範囲を超えて使ったり、あるいはそもそもモデル分析などの科学的な知見を無視したりして、結論を導こうとしている。マスコミは「決められない政治」と無責任なレッテル貼りでそうした動きを後押しし、扇動的政治家は、さんざんコトを煽った上で、科学的な知見を「うわべや建前論ばかり言ってもしょうがない」と開き直る。

 

彼らの背後にあるのは、何らか特定の利益集団の利益だ。一部の利益を代弁することは簡単だ。誰でもできる。難しいのは「全体の利益」を代弁することだ。責任ある政策決定を行う政治家や、政策決定に影響力のある研究者は、是非、彼らが唱える政策がいかに「全体の利益」をもたらすのかきちんと説明してほしい。さらに言えば、マスコミはそうした説明をバランスよく、紹介してほしい。憲法の重みもどんどん軽くなってきているが、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(日本国憲法第15条)という条文の意味は、とても重いと思う。

 


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