「最後の晩餐」(1)-ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会食堂 [美術]
イタリアのミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(写真↑)の食堂に有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」(1497/98)の壁画がある。私は2009年8月にミラノを旅行した際、ここを訪ねた。観覧はグループ毎の入替制で、1グループ15分間、インターネットで事前に希望するグループ(時間帯)を予約できる。朝一番早いグループにしたところ、それほど混んでいなかった。
私は、15分間の見学時間中、近づいたり、遠くに退いたりしながら、ずっとこの名画を見つめ続けた。1977年~1999年という長年にわたる修復作業が終わった後であり、かなり鮮明なものかと期待していたが、実際はそうではなかった。どうも私は「修復」という言葉を誤解していたようだ。片桐頼継、アメリア・アレナス『よみがえる最後の晩餐』(NHK、2000年)によると、修復とは、「作品の損傷や劣化を防ぐための技術」、「少なくともそれ以上破損が進行しないような処置をほどこすこと」だそうである(pp. 26-27)。すなわち、作品をオリジナルな姿に戻す「復元」とは全く異なる。
下の写真は、「最後の晩餐」がある室内の写真で、教会内で売られていたパンフレット(ピエトロ・C・マラーニ『最後の晩餐-サンタ・マリア・デッレ・グラーツェ教会食堂の案内』Electa)からとった。実際には、画の前にロープか鉄柵が張られていて、もう少し暗かったような記憶がある。
また、下の写真は、やはり教会内で売られていた絵はがきからとったものだ。この絵はがきの下部には、キリストと十二使徒の名前が示されているが、まず、それらをカットしたものを示したい。誰が誰だか分かるだろうか。まあ、キリストは真ん中の赤い服の人だろうと想像がつくが、弟子たちとなると全く見当がつかない。特に「裏切り者」として知られるユダはどの人物か?
とりあえずの手掛かりは、「聖書」の記述だろう。「聖書」で「最後の晩餐」について書いているのは、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の4つであり、それぞれ以下の引用箇所である(日本聖書協会刊の新共同訳(2007年)による)。
<マタイによる福音書 第26章>
(20)夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
(21)一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
(22)弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
(23)イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」
(24)人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
(25)イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
<マルコによる福音書 第14章>
(17)夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
(18)一同が席について食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
(19)弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
(20)イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
(21)人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
<ルカによる福音書 第22章>
(14)時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
(15)イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越(すぎこし)の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。・・・
(20)食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
(21)しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
(22)人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
(23)そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
・・・
(35)それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履き物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、
(36)イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。
(37)言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」
(38)そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振り(ふたふり)あります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
<ヨハネによる福音書 第13章>
(2)夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
(3)イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
(4)食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
(5)それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
・・・
(21)イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
(22)弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
(23)イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
(24)シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
(25)その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
(26)イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
(27)ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
(28)座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
(29)ある者は、ユダが金入れ(かねいれ)を預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
(30)ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
正直言って、これらの「聖書」の記述を読んでも、画に描かれたどの人物が誰なのかという手掛かりはほとんど得られない。強いて言えば、
・イエスのすぐ隣には、イエスが愛していた弟子が座っており、ペトロがこの弟子に合図したこと(ヨハネ伝)、
・ユダは食べ物をキリストと一緒に鉢に浸したか、パン切れをキリストにもらったこと(マタイ伝、マルコ伝)、
・ユダは、財布か袋を持っている可能性が高いこと(ルカ伝、ヨハネ伝)、
くらいだろうか。それ以外は、席順も衣装も容貌も不明である。ところが、なぜか画の中の人物一人一人について名前が特定されている。不思議だ。
<次回に続く>
友人の紹介で貴ブログを知りました。私もダ・ヴィンチの最後の晩餐ですべての弟子たちが特定されていることに疑問を持っています。拙論をご高覧戴ければ幸いです。
by Tamotsu Hashimoto-Gotoh (2013-02-20 23:37)