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金沢-片町・香林坊 [日本]

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奥卯辰山墓地を墓参したあと、天神橋方面から山を下り、昼食をとるため片町・香林坊(かたまち・こうりんぼう)に向かった。片町・香林坊と言えば、昔は金沢随一の繁華街だったが、いつのころからか人出が少ないのが気になっていた。そして、もはやそれは確信となった。日曜日の昼下がりというのにほとんど人がいないのだ。飲食店や小売店も結構シャッターが下りている。これが人口46万人の地方中核都市の繁華街だろうか。

 

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金沢一のデパートと言えば大和(だいわ)だが、昭和32年(1957年)、片町に完成したその本店ビルは昭和61年(1986年)、ラブロ片町という別の商業施設となり、この3月にはそれも閉店となり、建物自体も取り壊されるという。一方、大和本店は近くの香林坊に新築されたビル(アトリオ)に移ったが、このあたりもそれほど人出は多くない。人口が郊外に移動し、そこに新たにできた大型商業施設を利用するようになったのか、あるいはデパートという業態自体が顧客ニーズに対応していないのか。私はラブロ片町には入ったことがなかったが、閉店記念行事として「旧大和ジオラマ展」をやっていたのでのぞいてみた。昭和40年代(私の子供時代)の写真をみると人や車がいっぱいで、まさに隔世の感がある。

 

<↓現在の旧・大和デパート前>

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<↓「人出の日曜日を行く花電車」(昭和42年)北國(ほっこく)新聞社保存写真>

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<↓「交通渋滞の香林坊」(昭和42年頃)北國(ほっこく)新聞社保存写真>

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<↓現在の大和デパート>

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香林坊と兼六園の間の地区は広坂(ひろさか)と呼ばれ、県庁、市役所、県警本部などが集まる官庁街だったが、今や県庁も県警本部も郊外に移転してしまった。だが、レンガ造りの旧制四高旧本館は、金沢大学理学部、金沢地裁、県立郷土資料館、石川近代文学館、石川四高記念文化交流館と用途を変えながら立派に生き残っている。これは老人の気持ちをほっとさせてくれる。

 

<↓旧制四高(しこう)旧本館>

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筑波山-富士山と梅林公園 [日本]

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201323日朝7時、筑波山中腹より撮影)

 

この週末、12日で筑波山に行ってきた。毎年、この時期恒例の行事に参加するためで、昨年も訪れた。そのとき、筑波山から富士山が見えることを初めて知った(冒頭の写真)。関東平野というのは広いんだなと再認識するとともに、深い感動を覚えた。今年も富士山が見られることを期待して望遠レンズまで持っていったが、あいにく2日間とも曇天で見えなかった。

 

その代わりというわけでもないが、今年は初日の朝、早めに行って山の中腹にある梅林公園を訪れた。斜面の上方の紅梅はかなり咲いていたが、全体としてみると見頃はまだまだ先だった。それにしても梅の木の本数の多さからして、見頃の時期はさぞや圧巻に違いない。斜面の下方はまだほとんど咲いていないように見えたが、念のため下りていくと、臘梅が咲き誇っている区画があった。こちらは、既に傷み始めた花も多く、ピークを少し過ぎたようだった。しかし、臘梅がこれだけ密生しているところは初めて見た。本来の仕事も無事に終わり、良い週末だった。

 

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冬の富士五湖(3)-天下茶屋、山中湖 [日本]

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<天下茶屋>

本栖湖の入口近くのレストランで遅い昼食をとって(食べたのはもちろん「ほうとう」だ)、河口湖方面に戻り、御坂峠の天下茶屋に向かった。かつて太宰治が逗留したところとして有名だ。これまで何度か来たことがあるが、富士山がまともに見えたことはなく、今日なら見えるだろうと思って来たのだった。そして、ようやく念願がかなった(笑)。

 

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(参考:201298日撮影)

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(参考:2011627日撮影)

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<山中湖>

天下茶屋を見てこのまま帰京しようかと思ったが、一緒に来たK君は、富士五湖でまだ唯一立ち寄っていない山中湖も見たいという。そこで、南下ルートをとり、山中湖経由で帰ることにした。立ち寄ったのは三国峠に向かう730号線の途中にある「パノラマ台」というところだ。途中、山中湖の別荘地区を通ったがかなりの積雪があった。また、帰り道、三国峠から南方向に坂道を下ったが、道路はずっと凍結しており、夏タイヤではちょっと恐かった(汗)。ただ、パノラマ台から見渡す富士山と山中湖の景色は絶景だった。また、写真は撮らなかったが、三国峠からの景色も、茜色に染まる空をバックに白い霧が山並みの間を漂って幻想的だった。

 

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冬の富士五湖(2)-精進湖、本栖湖 [日本]

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<精進湖(しょうじこ)>

西湖のあと、精進湖に行った。小さな湖だが、真正面に富士山が見えて、いいロケーションだ。

 

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<本栖湖>

本栖湖には「千円札の富士」と呼ばれる撮影スポットがあり、そこに行った。道路沿いの高台の上からの景色も、下に下りた岸辺からの景色もどちらもよかった。千円札の裏の図案にあるような「逆さ富士」は残念ながら見られなかったが、透明度の高さは本当だった。

 

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冬の富士五湖(1)-河口湖、西湖 [日本]

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昨年の年末に風邪をひいてしまい、正月はほとんど家に閉じこもって過ごした。まだ時々咳き込むものの、体調は回復してきた。そんなとき、2年間指導した中国からの留学生K君から、帰国前に富士山を見たいと言われ、先週の金曜日(110日)、撮影旅行をかねて富士五湖に出かけた。ニュースでは、今年最大の寒波到来と報じていたが、好天に恵まれ、いずれの場所からも富士山はよく見えた。

 

<河口湖>

最初に訪れたのは河口湖北岸の大石公園だ。ここからは「逆さ富士」が見えるとのことだったが、残念ながら湖面は太陽の照り返しが強く、鏡のようにはなっていなかった。しかし、人気の撮影スポットだけあって、富士山の姿形は見事だった。

 

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<西湖・いやしの里 根場(ねんば)>

河口湖の北岸をそのまま西方に進み、西湖の北岸へ抜けた。西湖自体には立ち寄らず、その西端近くにある「いやしの里・根場」と呼ばれる観光地を訪れた。ここには茅葺き屋根の民家(を復元したもの)が20棟ある。それぞれの家屋は食事処、体験工房、資料館、土産物屋などになっているのだが、先を急いでいたので、グルッと一周りするに留めた。

 

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鹿野山 九十九谷(かのうざん くじゅうくたに) [日本]

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ゴルフをした1228日(土)は、一緒にプレーした友人3人とともに、その中の一人「画伯」の別荘に一泊した。そこは、鹿野山と呼ばれる山の頂上近くだが、眼下の低い山並みが見下ろせる絶景ポイントがあり、翌朝みんなで訪ねた。聞けば、東山魁夷の出世作「残照」のモデルとなった場所らしい。今は、あちこちにゴルフ場が点在しているが、魁夷がこの画を描いた1946-47年には本当に何重にも折り重なった山並みと谷しか見えなかったに違いない。

 

山並みは幾重もの襞を見せて、遙か遠くへ続いていた。冬枯れの山肌は、沈鬱な茶褐色の、それ自体は捉え難い色であるが、折からの夕日に彩られて、明るい部分は淡紅色に、影は青紫色にと、明暗の微妙な諧調を織りまぜて静かに深く息づいていた。その上には雲一つ無い夕空が、地表に近づくにつれて淡い明るさを溶かし込み、無限のひろがりを見せていた。人影の無い山頂の草原に腰をおろして、刻々に変ってゆく光と影の綾を私は見ていた。 (東山魁夷エッセイ「冬の山上にて」より)

 

このあと、通りを隔てた向かい側にある白鳥神社を訪ねた。そこの狛犬も気に入った。ただ、この神社の左右と背後は、昨日プレーしたゴルフ場だ。ゴルフは楽しかったが、私も罪深い「自然破壊」に荷担したことになる。

 

<鹿野山>

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<白鳥神社>

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海ほたるの日の出 [日本]

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昨日の土曜日(1228日)、千葉でゴルフをするため、早朝、アクアラインを通った。めったにないことなので、海ほたるに寄って日の出の写真を撮りたいと思った。海ほたるに着いたのは6時過ぎ。空は既に白み始めていた。特に木更津の左側、市原や袖ヶ浦のあたりがオレンジ色に染まっている。(余談だが、「夜明け前が最も暗い」という人がいるが、前から、これは間違い!と思っていた。)

 

この日の東京の日の出は650分、直前に空が焼けたように山の端が紅くなり、太陽が顔を出す。すっかり日が出てしまうと、とても眩しくて肉眼では正視できない。したがってカメラを向けることもできなくなった。展望デッキの反対側にまわると、富士山がくっきりと見えた。江ノ島まで出かけて見えなかった富士山が東京湾からこんなにきれいに見えるとは!

 

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冬の江ノ島 [日本]

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土曜日、日比谷で映画を観た後、天気もよかったので江ノ島に出かけた。実を言うと江ノ島には行ったことがなく、以前から一度行ってみたかったのだ。鎌倉までJR、そこから江ノ電に乗り換えて江ノ島まで行った。江の島弁天橋をわたると到着だが、急遽思いつきで来てしまったので、さて、どう回ろうかと思案した。そもそも江ノ島の地理は全く知らず、何となく島の外周を歩いて一回りできるのではないかと想像していたが、右方向は行き止まりになっており、そういう造りではないことがわかった(笑)。多くの人は左右に土産物屋が建ち並ぶ参道と思しき通りを、そのまま直進するようだった。私もそこは行かなければと思ったが、その前にまず左手に行って海を見てみたいと思った。江ノ電の車窓から光輝く海やサーファー、ヨットなどが見えたからだ。そこで左方向に向かってしばらく歩き、ようやく防波堤に突き当たった。

 

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その後、引き返して最初に見た参道に戻ろうとしたが、住宅街に「江島神社、山頂へ」という標識があったので、それに釣られて狭い階段を上ることにした。着いたのは江島神社の中津宮で、そのまま山頂付近から日没の海を眺めることにした。途中、多くの観光客が日没とは違う方向にカメラを向けていることに気づき、その方向を見ると富士山のシルエットがかすかに見えた(下の6枚目の写真)。しかし、それはごく短時間で、また雲の向こうに隠れてしまった。

 

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日没を見届けてから、来たのとは別のルートで帰ることにした。奥津宮を通り、階段道を下りると、直ぐ間近は海で行き止まりだった。どうやら岩屋と呼ばれる場所に来てしまったようだ。ただ、道を間違えたとは言え、夕暮れ時の素晴らしい海や空の光景を見ることができたのは幸いだった。

 

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このあと、来た道を途中まで引き返し、正しい帰り道に復帰できた。そして着いたのは江島神社のスタート地点、瑞心門だった。なるほど、本来は参道経由で、この門を通って上に上がっていくんだなと了解した。次回からはもう大丈夫だ(笑)。

 

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箱根-大涌谷 [日本]

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今回の箱根日帰り行では、仙石原の長安寺とススキ草原さえ見られたらいいと思っていたが、せっかくなので大涌谷に寄ってから帰ることにした。

 

大涌谷にはこれまで34回は来たことがあると思う。最初は中学3年生の修学旅行のときだ。最後に来たのは10年くらい前で、何かの行事の帰路、友人数名と一緒に立ち寄った。地表から立ち上る水蒸気や硫化水素ガスの臭いは記憶に残っているが、正直言ってそれ以上のことはあまり思い出せない。有名な黒たまごは今回も買わなかった(笑)。ただ、久しぶりに富士山が見えたのはよかった。

 

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箱根-仙石原ススキ草原 [日本]

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長安寺を訪問したあと、同じく仙石原にあるススキ草原に行った。ここは、3日前の日曜日にも行ったが曇天で薄暗くなりかけた時刻だったので、天気の良いときに再訪したかったのだ。朝10時半ころに到着したが、日曜日ほどではないものの、かなりの人出だった。この時期、ここは箱根でも有数の観光スポットなのだろう。

 

草原の真ん中に一本道の見学路が通っているが、その山側からは日が差し込み、逆光の中、ススキが黄金色に輝いて波打っている。一方、谷側は順光で、青空や遠くの山並みをバックにススキが揺らめいている。この対照的な両側を交互に見ながら写真を撮って歩いた。多くの写真の中から一部を下にセレクトしたが、大半は逆光の山側に向けて撮った写真だ。よほど黄金色に輝くススキの波が印象深かったのだろう。

 

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箱根-長安寺(2) [日本]

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長安寺では、本堂左手の傾斜地に「五百羅漢」がある。小さな石仏なのだが、一つ一つ実に個性豊かで楽しめる。「五百羅漢」とは何か、お寺のパンフレットによると次の通りだ。

 

五百羅漢について

お釈迦様の弟子で、仏道修行して阿羅漢という人間として最高の位を得た方です。その阿羅漢を五百人集めたのが五百羅漢であり、その姿は喜怒哀楽の表情を浮かべた実に人間味のある仏様です。当山では、昭和六十年より建立、現在進行中です。

 

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箱根-長安寺(1) [日本]

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昨日(116日)、日帰りで箱根に行ってきた。実は先週末の連休にも12日で行ってきたのだが、初日は何度か交通渋滞に巻き込まれ、朝早く都心を出たにもかかわらず、到着は夕方近く、2日目は雨と濃霧の中でのゴルフと、結局お目当ての一つだった紅葉の写真撮影はかなわなかった。そこで、好天に恵まれた昨日、急遽出かけたという次第だ。

 

真っ先に訪れたのは仙石原の長安寺だ。(それにしても、都心から御殿場経由で、2時間弱で着いたのには驚いた。日曜日と何たる違い!)紅葉のピークはもう少し先のようだったが、本堂の裏手のもみじなどはかなり色づいていた。左手の傾斜地には有名な「五百羅漢」(写真は次回掲載)があるが、その周囲の紅葉がもっと進んでいれば最高だったに違いない。しかし、贅沢は言うまい。平日の朝ということもあり、参拝者はそれほど多くなく、ゆっくりと楽しむことができた。

 

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日光・華厳滝 [日本]

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連休3日目は華厳滝、中禅寺湖方面に行った。最初に向かったのは明智平展望台だ。しかし、いろは坂に入ったころから、小雨がぱらつき、霧が濃くなり始め、明智平ではほとんど視界が効かなかった。そこでロープウェイに乗るのはあきらめて、華厳の滝に向かった。

 

華厳の滝も小雨交じりで霧がかかっていたが、我々が着いたときはわずかに霧の晴れ間があった。エレベーターで下まで下りることはせず、上から見ただけだが、さすが、名にし負う名瀑だった。

 

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日光・東照宮 [日本]

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先週末の3連休、気が置けない友人3人と日光・鬼怒川方面に行ってきた。初日は日光・東照宮、2日目はゴルフ、3日目は日光・華厳滝に行った。

 

恥ずかしながら、私は日光・東照宮や華厳滝は初めてだった。あいにく東照宮の陽明門や輪王寺の三仏堂は修復工事中だったが、東照宮、二荒山(ふたらさん)神社、輪王寺の3箇所を足早に見て回った。(ただし、東照宮裏手の奥社に至る階段は長い行列だった。)派手な東照宮と地味な二荒山神社の対照が印象的だった。また、寺社の下を流れる大谷川(だいやがわ)の水があまりにきれいに透き通っていたのにも驚いた。

 

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箱根・芦ノ湖 [日本]

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週末、箱根の芦ノ湖に行ってきた。あいにく天気はあまりよくなく、土曜日は曇り、日曜日の午前は雨だった。しかし、空き時間に芦ノ湖の湖畔を少し散策し、東京へ帰る前には箱根関所を見学することができた。ガイドブックを見ると、箱根にはいろんな見どころがあるようだ。これまであまり関心がなかったが、今後、何度か来てみたいと思った。

 

<芦ノ湖>

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<箱根関所>

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靖国、喧噪去りて [日本]

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昨日(819日)、昼ごろ靖国神社を訪ねた。おそらく終戦記念日の15日には、各種団体、政治家、警察、マスコミなどで喧噪の中にあったと思うが、昨日はさすがに落ち着いていた。灼熱の中、参拝客はまばらで、賑やかに聞こえてくるのは蝉時雨だった。

 

靖国は、職場や自宅から比較的近いので、これまで何度も来たことがある。明治2年(1869年)の創建以来、軍隊や政治と密接に関わり合ってきたその来歴ゆえ、時によってさまざまな顔を見せる。例えば、「喧噪」時の靖国では、およそ宗教的な場には相応しくない光景が繰り広げられる。テレビや新聞などで、そうしたシーンが報じられることはまずないが、当日参拝した人ならみんな目撃しているはずだ。

 

そうした靖国の顔も知っているだけに、写真を撮るにしても、何をどう撮ればよいか困惑してしまう。喧噪と静寂、何が本当の靖国なのだろうか、と。

 

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「戦後」は遠くなりにけり [日本]

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「降る雪や明治は遠くなりにけり」(1931年)とは、中村草田男(なかむら くさたお、1901-1983年)の有名な俳句だ。それをもじって詠むなら、この夏はさしずめ、「蝉時雨「戦後」は遠くなりにけり」といったところだろうか。

 

終戦当時(1945年)既に生まれていた人といえば現在68歳以上だが、70歳以上人口の総人口に占める割合は18.1%80歳以上(当時12歳以上)となると7.3%だ(総務省統計局「人口推計」201371日現在概算値より算出)。戦争を直接経験した人が減っているだけではない。それを知ろうとする努力も加速度的に減退している感がある。「戦後レジームからの脱却」なる主張もそうした動きと同調している。

 

かくいう私も戦争の何たるかを実感しているわけではない。まさに「戦争を知らない子供たち」の一人だ。私が戦争のごく一端を垣間見た気がしたのは、いずれも海外生活中に偶然見たテレビ放送の一コマだ。

 

1991年の湾岸戦争当時、私はアメリカに住んでいた。巡航ミサイルがイラクの軍事拠点に命中する様子を写した動画映像がCNNなどで連日放送されていた。ある記者会見で、記者が楽観的な調子で戦況の見通しを尋ねたのに対し、当時の統合参謀本部議長、コーリン・パウエルはこう言ってその記者を諫めた。「戦争は、ニンテンドーのゲームなんかじゃない。」ベトナム戦争で2度の負傷経験を持つ者ならではの迫力があった。のちに、ブッシュ(息子の方)政権下で国務長官を務めた際、従軍経験のないブッシュ大統領やチェイニー副大統領がイラク戦争開戦に積極的だったのに対し、パウエルは最後まで反対だったと言う。戦争を頭の中の空想として理解しているか、リアルな実体験として理解しているかの違いかもしれない。

 

2008年秋、スイスのジュネーブに滞在中、たまたまテレビをつけると、イギリスのBBCが作成したイラク戦争帰還兵(主に米兵)のドキュメンタリー番組をやっていた。帰還後、メンタル面で変調を来し社会復帰できずにいる元兵士たち、出征前は元気にバスケットボールに興じていた若者が、砲弾を浴びて負傷し、帰還後、植物人間となってベッドで生きながらえている姿、等々、悲惨というしかない内容だった。今の日本のテレビ局がこうした番組を作成することはそもそも期待していないが(何せ、政治番組と言えば政治家同士の化かし合い、「お笑い」の範疇だ)、少なくともBBCから放映権を買い取ってでも放送すべきではないか。日本では戦争の証言者が少なくなってしまったかもしれないが、海外には今もリアルタイムでたくさんいるのだ。

 

写真は、自宅ベランダに実った巨峰ブドウの房。この冬に、70cmくらいの枝も葉も出ていない苗木を買って鉢植えしたところ、やがて芽が出て、葉がつき、実がなり、実は緑から紫へと熟していった。今年味わったささやかな喜びの一つだ。

 


那須・フラワーワールド [日本]

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那須湯本の藤城清治美術館を見たあと、せっかくなのでもう1箇所、どこか見てから帰京しようと思った。たぶん定番コースは那須ロープウェイで茶臼岳に上ることだろうが、この日は天気が余りよくなく、せっかく上っても眺望を楽しめるか心配だったこと、藤城清治美術館だけで満腹感(?)があったことから、もう少し軽めのところがよかった。そこで行ってみたのは、「那須・フラワーワールド」という広大なお花畑だ。お客さんは少なかったが、なかなか良いところだと思った。

 

この時期(8月中旬)、園内の主役はクレオメとヘメロカリスだ。どちらも聞いたことのない名前だったが、クレオメというのは、帰宅してからネットで調べると、和名では風蝶草(フウチョウソウ)とのこと、なるほど風に蝶が舞うような姿に見えなくもない。色は白、ピンク、紫などで可憐な感じの花だ。一方、ヘメロカリスはユリ科キスゲ属の花で、道理でニッコウキスゲとよく似ている。色は、赤、黄、オレンジ、桃色などバリエーションに富んでいる。別名、“daylily”とも呼ばれるが、これは1つの花は1日しか咲かないことに由来している。これもニッコウキスゲと同じだ。

 

帰りは、白河ICから東北道に入った。インターまでの田舎道、栃木から福島への県境を越えたとたん、道の両脇に「除染作業中」の幟が目立つようになった。林や高原、田畑など複雑な地形の中でいったいどのような作業をするのか、また、その「効果」はいかほどのものか見当もつかない。さっき訪ねたばかりのフラワーワールドも随分と人手をかけていたが、同じ「投資」でも両者の懸隔にはいろいろと考えさせられた。

 

<クレオメ>

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<へメロカリス>

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<その他>

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信州での夏休み-馬籠 [日本]

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信州での夏休みの最終日、5日目は朝方、馬籠宿を訪問してから帰京した。昨日来の雨は明け方になってようやく止んだが、雲は低く垂れ込めたままで、恵那山は最後まで姿を現してくれなかった。馬籠宿を訪れるのは3度目だが、石畳の坂道沿いの宿場町や木々の生い茂る山並みの光景は全く飽きない。

 

<馬籠宿街道筋>

8時ころ、街道の下に到着し、石畳の坂道を上りはじめた。観光客はまばらで、両側の土産物店などもまだ閉まっている。街道の右側にある脇道に出て恵那山方向を眺めるが、雲や霧に覆われたままだ。高札場の少し上に展望台のような場所があるが、そこまで上って引き返した。

 

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<永昌寺>

藤村記念館はまだ開館前だったので、その裏手にある永昌寺に回った。『夜明け前』では万福寺の名前で登場する島崎家の菩提寺だ。このお寺には藤村の父親、正樹(とその妻、ぬい)のお墓が、島崎家一族のお墓より低いところにポツンと建っていることを、以前、あるエッセイの中で書いたことがある(http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/05/pdf/094-095.pdf)。ただ、幸いなことに正樹のお墓からの眺めは決して悪くない(下の写真2枚目)。

 

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<藤村記念館>

最後に藤村記念館に立ち寄った。藤村の生家、馬籠本陣の跡である。本陣の建物は1895年(明治28年)の大火でほとんど焼失したが、祖父母の隠居所(下の3枚目の写真)は唯一残ったという。いつも感心するのだが、書庫にはフランス語の小説を中心とした洋書や、『夜明け前』執筆の際に使ったと思われる資料や書籍(本居宣長や平田篤胤の全集など)が多数残されている。記念館入口の白壁には、藤村のつぎの言葉が、赤地に黒い字で書かれている。

「血につながるふるさと 心につながるふるさと 言葉につながるふるさと」

9歳のとき木曽を離れて上京して以降、40代のときには3年間渡仏するなど、ふるさとから離れようとするベクトルが強い一方、ふるさとや非業の死を遂げた父親との精神的つながりはむしろ強まる一方だったのではないかと思われる藤村。これはその心情をよく表した言葉なのかもしれない。

 

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最後に、『夜明け前』の末尾近くにある次の一節を引用して、2013年夏、信州旅行記の結びとしたい。昨今の日本の政治・社会情勢ともダブルものを感じるからである。

 

人々は進歩を孕(はら)んだ昨日の保守に疲れ、保守を孕んだ昨日の進歩にも疲れた。新しい日本を求める心は漸く多くの若者の胸に萌(きざ)して来たが、しかし封建時代を葬ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むことも出来ないような不幸な薄暗さがあたりを支配していた。

 


信州での夏休み-妻籠 [日本]

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信州旅行4日目の朝、八島ヶ原湿原を訪ねたあと、妻籠に向かった。その日の晩は中津川のホテルに泊まることにしており、翌日は馬籠を訪ねて帰京する予定だったからだ。中央道を南下し、飯田山田で高速を下りて国道256号線を通って山越えし、木曽谷に向かった。雨はどんどん強くなり、山越えの間は豪雨の様相を呈していたが、妻籠に着いたころは雨足もいくぶんか弱まっていた。

 

<妻籠の街道筋など>

町の中央駐車場にクルマを停め、蘭川(あららぎがわ)を渡って、旧・中山道の街道筋を北向きに歩いた。雨の日の午前中ということもあって、観光客はまばらだった。水車小屋、高札場(こうさつば)よりもう少し先まで行ってみたが、西方(川に近い側)には小さな水田や畑があった。2日前に訪れた木曽福島で、「木曽谷は街道筋として栄えたが、伊那谷と違ってお米がとれないので生活は厳しかった」という話を聞かされたことを思い出した。お米が全くとれないわけではないが、広い水田はとても確保できない。何せ、「木曽路はすべて山の中である」からだ(島崎藤村『夜明け前』)。そのせいもあり、木曽では江戸時代、年貢米の代わりに「木年貢(きねんぐ)」を納めていたという。

 

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<脇本陣・奥谷(おくや)>

妻籠の脇本陣は林氏が当主を勤めていたが、副業として酒造業を営んでおり、その屋号が奥谷だった。現在の建物は1877年(明治10年)に建て替えられたもので、その際に2階建て、総檜造りとなった。1880年(明治13年)、明治天皇が東山道を巡幸された際、この宿で休憩をとられたとのことで、そのために特設された「御用御便所」が大切に残されている(実際には使用されなかった)。家族が使っていた囲炉裏の間は、特に冬の時期格子戸から入り込む光線が美しく、多くのカメラマンが何時間も待機する撮影スポットになっているとのことだった(興味ある方は、「妻籠脇本陣 囲炉裏の光」などでネット検索されたい)。私もカメラをぶら下げていたせいで勘違いされたのか、案内の女性がわざわざ薪に火をつけてくれたのには恐縮してしまった。なお、同じ敷地にある歴史資料館は木曽の歴史や生活を知る上で充実した内容だった。

 

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<本陣>

脇本陣・奥谷の斜め向かいに本陣がある。当主を勤めていたのは島崎氏だが、最後の当主、広助(ひろすけ)が東京に出たあと取り壊され、現在の建物は1995年(平成7年)に復元されたものだ。妻籠の本陣は、藤村の母親(ぬい)の生家で、彼女は馬籠の本陣、島崎家(当主は正樹)に嫁いだのだった。藤村(本名は春樹)は正樹とぬいの間の四男坊にあたる。広助は次男坊で、3歳のとき母の実家、妻籠の島崎家の養子となって、妻籠本陣を継いだのだった。木曽福島でも藤村のお姉さん(その)が登場したが、木曽谷を旅行すると島崎家の人々の名前がよく出てくる。なお、妻籠本陣の最後の当主である広助氏の曽孫、博(芸名、古巡)氏の水彩画が展示されていた。この人はカナダで地理学の博士号をとり、同国に帰化した学者だが、本業の一環として玄人はだしの水彩風景画をたしなんでいる(同氏のサイト、http://www.hiroshishimazaki.com/ を参照)。まことに多士済々の一族と言うべきか。

 

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信州での夏休み-八島ヶ原湿原 [日本]

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4日目の朝早く、八島ヶ原湿原に行った。諏訪の辺りに行ったときは、ほぼ必ず立ち寄る場所だ。到着したのは6時半ころだが、この時間帯はまだ雨は降っておらず、風もそれほど強くなかった。しかし、7時半ころには風が強くなり出し、雨もポツポツ降り始めた。花の写真は、花が風で大きく揺れるので、大半をコンティニュアスの3Dモード(被写体が動いてもピントを追いかけてくれる)で撮ったが、やがてそれでも対応しきれなくなり、8時過ぎには引き上げることにした。この日はもともと朝からずっと雨の予報だったので、12時間だけでも散策して写真を撮れたのはむしろ幸いだった。以下、湿原と高山植物の写真の一部を載せておこう。

 

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<↓ヤマホタルブクロ>

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<↓カラマツソウ>

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<↓ホソバノキリンソウ>

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<↓ニッコウキスゲ>

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<↓ノハナショウブ>

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<↓ヤナギラン>

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<↓コウリンカ>

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<↓レンゲツツジ>

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<↓オニシモツケ>

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<↓ノアザミ>

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<↓シナノキンバイ>

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<↓ツリガネニンジン>

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<↓ノリウツギ>

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信州での夏休み-松本 [日本]

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3日目の午後は松本に行った。車山高原から美ヶ原高原に行くオプションも考えていたが、天気があまりよくなかったので、美ヶ原はスキップし、直接松本に行くことにしたのだ。途中、和田峠を下りながら、以前やはり同じようなルートで松本に行ったときのことを思い出していた。

 

それは200588日、よく晴れた暑い日だった。美ヶ原高原で王ヶ頭までの長い坂道を上ったあと、松本市内にクルマで下りていく途中、ラジオをつけたら参議院本会議の様子を伝えていた。郵政改革法案に対し、私はそれほど強い意見を持っていたわけではないが、それが否決されたことが報じられると、思わずクルマを脇の空き地に入れて停め、しばし聞き入ってしまった。そのあと、まさに「喧噪の中で」衆議院選挙が行われた。あれから8年経ったことになる。「造反」議員の中には既に政界を去った人が多いが、与党の幹部として復活した人もいる。今回の旅行に出かけた日曜日には参議院選挙が行われたが、6年前は滑り込みで当選した議員が今回はトップ当選したかと思えば、前回はトップ当選、今回は落選という例もある。何が変わり、何が変わらないのか。「祇園精舎の鐘の声・・・」との感慨が募って仕方ない。

 

<松本城>

さて、松本では前回もそうだったが、まず松本城を見学した。立派な天守閣があり、上まで上がることができる。「現存する日本最古の五重天守」だそうである。ところで、天守閣のあるお城を訪ねると私は少々複雑な感懐にとらわれる。私のふるさとは加賀100万石で有名な金沢だが、金沢城には天守閣はない。一方、松本城は623代の藩主が居城としたが、松本藩の石高は610万石だった。ここから何か確かな教訓や結論を引き出そうというのではないが、興味深い論点だと思う。

 

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<旧開智学校校舎>

開智学校は、1873年(明治6年)に開校された小学校であり、1876年(明治9年)、今に引き継がれるモダンな校舎が完成した。もっとも、小学校として使われたのは1963年(昭和38年)までであり、1964年(昭和39年)に現在の場所(松本城の近く)に移築、復元され、それ以降、教育資料館として使われている。長野県は教育県として知られるが、それを象徴するような建物だ。

 

校内のさまざまな展示資料は興味を惹くものが多かったが、開校当時の長野県知事(当時の言葉でいえば、筑摩県権令)永山盛輝が大変教育熱心だったこと、工事費の7割は松本町民の献金によるものだったことなどが印象深かった。また、盲点を突かれたように思ったのは「子守教育所」の存在だ。子守奉公に出ている子供たち(その多くが女の子)への教育を目的に、1899年(明治32年)開設され、1941年(昭和16年)まで続いた。「稚児を背負っての授業であったため、松本幼稚園に附設され、保母(保育士)によって授業が進められました。授業内容は、国語、算術、裁縫等の科目から育児法についても教えられ、授業料は無償でした」(展示パネルより)。

 

一番下の写真は、1934年(昭和9年)当時の子守教育所における授業風景である。展示品の中には、子守教育所の卒業生総代が答辞で用いた自筆原稿のコピーもあった。以下に引用、紹介しておこう。

 

答辞

私共は不幸にして學校へもあがらず子守にまゐりましたが先生や御主人のおかげ様で文字や子供のしつけ方などおしへていただき今日めんじょうをいたゞくことになりましてまことにうれしく思ひますこののちは一そうべんきょうして御恩にむくひたいと思ひます

明治四十四年 三月二十五日

子守生徒總代  赤澤たつ江

 

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信州での夏休み-車山高原 [日本]

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信州旅行の3日目(723日)は、朝早く車山高原に行った。お目当てはニッコウキスゲだ。昨年は8月上旬に訪れたのだが、既にシーズンを過ぎており、開花期の7月中旬に再度行ってみたいと思っていたのだ(2012812日付け当ブログ「車山高原」)。

 

ニッコウキスゲは派手な目立つ花だが、その命は儚い。1本の茎に10前後の花が咲くとは言え、1輪の花は昼間だけ咲いて1日で終わる。だから、かなり広い群生地でも見ごろは12週間程度と思われる。今回はちょうど良い時期に来ることができて幸いだった。

 

まず、リフトで車山高原の山頂まで上り、そこからゆっくりと花や景色を楽しみながら歩いて下りた。山頂付近はガスがかかっていて、あまり良い眺望ではなかったが、ニッコウキスゲの群生を楽しむには十分な天気だった。車山高原の下りだけでも十分堪能したが、帰り道、霧ヶ峰富士見台(茶店とパーキングがある)の向かい辺りにも見事な群生地があったので、そこにも立ち寄った。以下は、それらの場所で撮ったニッコウキスゲの写真である。

 

<車山高原>

 

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<霧ヶ峰富士見台>

 

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信州での夏休み-木曽福島(2) [日本]

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(承前)

 

せっかく木曽福島まで来たのだから、山村代官屋敷、福島関、高瀬資料館、興禅寺にも立ち寄ることにした。(このうち、高瀬資料館以外の3つは、3巻共通の入場券900円が利用できる。)ちょうど雨が降り始めてしまったが、幸い屋内の見学が主だったので、大きな支障はなかった。

 

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<山村代官屋敷>

江戸時代、木曽は尾張藩の領地となったが、実際にこの地域を治めたのは関ヶ原の戦いで功があり、幕府の代官(福島関所の関守も兼ねた)となった山村氏だ。権勢を誇った山村氏の屋敷の一部が「山村代官屋敷」として残っている。入口の檜の木立や、屋敷内に展示された調度品の数々が印象深い。

 

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<福島関>

福島関所は、町の北方の入口近くの切り立った崖の上にある。江戸時代、4大関所の一つとして知られたところだ(ほかの3つは、やはり中山道の碓氷、東海道の箱根、荒居)。関所を通行するために必要だった手形や証文、取締りに使われた道具や武具が展示されている。

 

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<高瀬資料館>

福島関の横に並ぶようにして建っているのが高瀬資料館だ。高瀬家は山村氏の重臣として仕えた名家で、奇應丸(漢方薬の一種)の製造、販売を副業として営んでいた。ただ、この家を有名にしているのは単に地方の一名家ということではない。ここは、文豪島崎藤村の姉、園(その)の嫁ぎ先であり、小説「家」のモデルとなった家なのだ。実際、蔵を利用した展示室には、藤村やその家族に関する資料が多く展示されていた。

 

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<興禅寺>

ここは木曽家、山村家の菩提寺である名刹だ。また、新築された宝物殿の天井絵をはじめとする美術・工芸品も見事だ。ただ、私のような素人には、昇龍の庭(登龍門)、看雲庭(石亭)などの庭園がよかった(下の写真)。

 

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後半は雨中の散策となってしまったが、この町で出会った人たちはみんな親切だった。同じ木曽路の宿場町の中でも妻籠、馬籠や奈良井などと比べ、観光地としては一歩出遅れてしまったとの意識からだろうか、観光客の集客に力を入れている様子がひしひしと伝わってきた。その成功を応援したい。

 


信州での夏休み-木曽福島(1) [日本]

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2日目の宿泊地は諏訪である。このため、千畳敷カールを見終えたあと、駒ヶ根から諏訪まで北上することになるが、途中、木曽福島に立ち寄った。木曽路はこれまで何度か訪れているが、最も印象深かったのは、数年前、最初に訪れたときだ。妻籠から、国道19号線沿いに塩尻までドライブし、途中、寝覚の床、木曽福島、奈良井などに立ち寄った。このうち奈良井は昨秋再訪し、妻籠は今回の旅で再訪する予定だ。そんなわけで、木曽福島もぜひ再訪したいと思ったのだ。

 

木曽福島は旧・中山道を代表する関所があったところで、両側を山に挟まれて流れる木曽川沿いに拓けた狭く、細長い町だ。以前は木曽福島町という町名だったが、2005年、木曽町福島に町名が変わった。前回は時間的制約もあり、山村代官屋敷、興禅寺、福島関所資料館(+高瀬資料館)の3大名所を足早に訪れるにとどまったが、今回は古い街道筋をゆっくりと歩いてみたかった。そこで、まず町役場(木曽町木曽福島支所、本陣跡)の手前にある観光案内所に行って、町の案内図をもらうとともに見所を教えてもらった。真っ先に勧められたのが「上の段」と呼ばれる高台の街道筋だ。

 

<上の段>

上の段へ至る坂道の途中でまず目にしたのは「高札場」だ(冒頭の写真)。坂を上りきって左折すると、古い宿場街を復元した小路がしばらく続く。やがて下り道となり、八沢川(木曽川の支流)にぶつかる。JR中央線がその上を走っている。そのあたりで、偶然、お祭りの山車が方向転換するところに鉢合わせした。聞けば、この日と翌日は夏祭りに当たっていたのだ。山車や御輿を見るのは、実に久しぶりで懐かしかった。また、この近くにはそばの老舗「くるまや本店」がある(http://www.soba-kurumaya.com/)。かつての「尾張藩御用水車屋」だ。せっかくの機会なので天ざるそば(大盛り)を食べたが、さすがおいしかった。

 

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<木曽川>

おそばを食べ終わって、木曽川に出た。下の写真のうち上のものは下流方向、下のものは上流方向である。川沿いに、わずかな空き地も惜しむように家々が建ち並んでいる。街の観光案内図では「谷底の町」と形容しているが、確かに川沿いとその両側の狭い傾斜地に拓けた細長い地勢の町だ。「山蒼く暮れて夜霧に灯をともす 木曽福島は谷底の町」(太田瑞穂)。

 

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信州での夏休み-千畳敷カール [日本]

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2日目は、朝早く、バスで「しらび平駅」に、そしてロープウェイに乗り継いで「千畳敷駅」まで行った。到着したのは7時半ころ。この時間帯はまだ、眼前の宝剣岳も後方の南アルプス、富士山もあまりガスはかかっていなかったが、その後12時間もすると、両方とも濃いガスがかかるようになった。遠方の写真を撮るにはちょうど良いタイミングで到着したと感謝。昨年の秋、ここを訪れたときはハイキングコースを1周しただけだったので、今回はできれば宝剣岳の横にある乗越浄土あたりまで上ってみたいと思っていたが、天気が悪化しそうだったので(それを言い訳に?)諦めた。

 

いずれにせよ、お目当てだった高山植物と富士山の写真を撮れたのはよかった。高山植物で目立ったのは、ウラジロナナカマド(下の4枚目の写真)、ショウジョウバカマ(下の7枚目の写真)、ミヤマキンバイ(下の9枚目の写真)、チングルマ(下の11枚目の写真)などだ。探し求めていたクロユリ(一番下の写真)が見つかったのも嬉しかった。

 

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信州での夏休み-駒ヶ根高原 [日本]

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1日目は駒ヶ根高原のホテルに宿泊した。すぐ向かいにある駒ヶ池から、翌朝の目的地である千畳敷カール方向を望むとガスがかかっている(冒頭の写真)。ちょっと心配だが、悩んでもしょうがない。

 

ホテルの近所をしばし散策した。民家の庭先には野趣豊かな花々が咲き誇っている。近くを流れる太田切川にかかる「こまくさ橋」を渡ると「山野草園」があり、さまざまな野草花をまとめて見ることができた。もっとゆっくりしたかったが、雨がぱらついてきたので、急いで引き返した。しかし、山の天気は気まぐれ。やがて雨は止み、ホテル裏手にある「大沼湖」まで足を伸ばした。湖を1周してホテルに戻り、ビュッフェスタイルの夕食。ついつい食べ過ぎてしまった(笑)。

 

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信州での夏休み-諏訪 [日本]

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信州旅行1日目の宿泊地は駒ヶ根だったが、時間に余裕があったので、途中、諏訪にも立ち寄った。お目当ては原田泰治美術館だ。原田泰治の絵も、何度見ても飽きない。そして、心を優しい気分にしてくれる。ちょうど高橋まゆみ人形展が開催されており、こちらは初めて見たが、信州の田舎の人々の暮らしを描いており郷愁を誘われた(氏の作品の常設館は飯山市にある)。

 

原田、高橋両氏の作品を見終わって、諏訪湖畔をしばし散策した。夏の時期は藻が繁茂するのか、湖面は緑色だった。

 

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信州での夏休み-昇仙峡 [日本]

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ここ数年、夏になると信州に出かけるのが習慣のようになってきた。今年も、日曜日から昨日(木曜日)まで、信州をあちこち回ってきた。今回の旅の最大の目的は、昨年は時季遅れだったニッコウキスゲを見に車山高原に行くことだったが、その前にまず、山梨の昇仙峡にある「影絵の森美術館」に立ち寄った。

 

大好きな藤城清治の影絵は何度見ても飽きない。お土産物コーナーの店員さんの話だと、今年6月に那須高原の藤城清治美術館もオープンしたとのこと(http://www.fujishiro-seiji-museum.jp/index.html)、今度是非行ってみたい。

 

これまでは、美術館に立ち寄った後、すぐに引き返していたが、今回は昇仙峡の「仙娥滝」まで下りてみた。美術館から歩いてすぐのところにあり、なかなか立派な滝だった。周囲の木々の緑は深く濃く、大きなヤマユリが咲いていた。中央高速に戻って八ヶ岳PAに立ち寄ると珍しいものがあった。ツバメの巣だ。親鳥が雛にせっせと食べ物を運んでいた。

 

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伊勢(5)-月読宮、倭姫宮、神宮の博物館 [日本]

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(承前)

内宮の参拝を終えたあと、代表的な別宮である月読宮や倭姫宮、そして神宮の博物館を訪れた。これまで多くの日本人が、「一生に一度は訪れたい」と願ってきた神宮を私も無事に参拝することができ、幸せなことだと感謝している。

 

<おはらい町、おかげ横丁>

内宮は、朝の7時半から9時ころまで参拝した。朝食抜きだったのでお腹がすいたが、門前町である「おはらい町」、「おかげ横町」の食堂はどこも11時スタートのようだった。そこで、朝食は我慢し、北にある月読宮(つきよみのみや)まで歩いて行くことにした。

 

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<月読宮(つきよみのみや)>

月読宮(つきよみのみや)小さな(しかし奥深い)森の中にある。宮殿は4つあり、奥の方から、伊佐奈弥宮(いざなみのみや)、伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、月読宮(つきよみのみや)、月読荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)の順に並んでいる。お参りする順番は決まっているらしいのだが、私は空いているところから順にお参りした。

 

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<伊勢うどん>

このあと、さらに北にある神宮徴古館などを見学するつもりだったが、さすがにガス欠だった。幸い近くに近鉄鳥羽線の五十鈴川駅があったので、いったん電車で伊勢市駅まで戻って昼食をとり、出直すことにした。昼食は名物の(?)伊勢うどんにした。正直言って、私には食べ慣れた普通のうどんの方がよかった。濃い味に慣れすぎているせいかもしれない。

 

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<倭姫宮(やまとひめのみや)>

ともあれ一休みして元気が出たので、倉田山にある倭姫宮(やまとひめのみや)神宮の博物館(神宮徴古館、美術館、農業館)に向かって歩いて行くことにした。倉田山には神道研究で有名な皇學館大学もあり、ここは神宮、神道に関する学術研究のメッカのような地区だ。

 

倭姫宮は皇大神宮(内宮)の適地として伊勢を推薦した倭姫命(やまとひめのみこと)をお祀りしている。些末なことかもしれないが、手水舎の石の側面が工芸品のように見事に色づいているのが印象深かった。

 

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<神宮の博物館(神宮徴古館、美術館、農業館)>

倭姫宮と同じ敷地内に3つの博物館がある。神宮徴古館からスタートしたが、ここには神宮の歴史や御装束神宝などの資料が展示されており、外宮の入口近くにある「せんぐう館」とともに、神宮の歴史や行事の概要を知るには最適の博物館と思われる。つぎに訪れた神宮美術館はモダンな建物で、文化勲章受章者、文化功労者、日本芸術院会員、重要無形文化財保持者らから神宮に奉納された美術・工芸品が展示されている。最後に訪れた神宮農業館は3つの中で最も歴史が古く、農機具の変遷を展示したコーナーが私には興味深かった。

 

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