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軽井沢-白糸の滝、浅間大滝 [自然]

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今年の夏は何かと仕事があり、ほとんど全く遠出できなかった。8月の唯一の例外は、2930日の週末に行った軽井沢、草津だ。本来は草津でゴルフの予定だったが、かなり強い雨が降り続いたため、ゴルフはキャンセルとなり、軽井沢のアウトレット(軽井沢・プリンスショッピングプラザ)やゴルフ練習場に立ち寄って帰京した。ただ往路で訪ねた白糸の滝、浅間大滝、(その直ぐ近くの)魚止めの滝などはよかった。道端の花はコスモスやオミナエシなど、既に秋。夏から秋にギアチェンジするいい旅となった。

 

<白糸の滝>

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<浅間大滝>

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<魚止めの滝>

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<軽井沢、草津の道端に咲く花>

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上野・不忍池 [散歩]

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毎年夏になると、上野・不忍池のハスの花の写真を撮らないと何か落ちつかない。そんなわけで昨日(88日)の朝、不忍池に出かけた。この日はたまたま立秋で、そのせいかどうか風もあり、数日間続いたギンギラギンの猛暑とはちょっと感じが違った。

 

池を2周し、一周目は標準系ズームで、二周目は望遠系ズームで撮影した。思ったのは、被写体がきれいだと、写真の腕がイマイチでもきれいに写る、ということ。もう一つは、周囲に随分タワーマンションが増えたなということ。いずれにせよ、この池の見事なハスはいつまでもこのままであってほしい。

 

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国営昭和記念公園 [散歩]

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一昨日(86日)の午後、久しぶりの写真撮影で立川の国営昭和記念公園に行った。お目当ては、ヒマワリ(キク科)とサギソウ(ラン科)だったが、初めて見るナツズイセン(夏水仙、ヒガンバナ科)が良かった。「水鳥の池」近くの日陰の傾斜地に百本くらいだろうか、淡いピンクの上品な花を咲かせていた。

 

ヒマワリとサギソウはいずれも直射日光がギンギンに照りつける中の撮影で辛かった。特にヒマワリは人気の撮影スポットらしく、若い女性やカップルなどで賑わっており、私も邪魔にならなうようにバシャバシャと雑な撮り方になってしまった。しかし、種類が豊富で本数も多く楽しめた。

 

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<ナツズイセン>

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<サギソウ>

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<ヒマワリ>

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「お天道様は見ている」か?-続 [経済]

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720日付の当ブログ記事(「お天道様は見ている」か?)で、新・国立競技場建設問題や東芝の「不適切」会計問題について触れた。そのうち後者については、720日の夜、東芝・第三者委員会の調査報告書(要約版)が、また翌21日には調査報告書の全文が公表された。それを受けての新聞報道等を見ると、

西田、佐々木、田中の歴代3社長による各社内カンパニー、トップ等に対する目標必達の強い圧力、

取締役会や監査委員会等の監査機能不全、

上司に逆らえない企業風土、

などの問題が大きく取り上げられている。

 

私の専門は人事・労働なので、個人的には、「上司の意向に逆らうことができないという企業風土」(報告書・要約版、64ページ)、(役職員に対する)「業績評価部分の割合の高い業績評価制度」(同70ページ)、「財務・経理部門に配属される従業員は入社から退社までの期間、継続して財務経理部門に配属されるという人事ローテーション」(同70ページ)などの指摘が興味深かった。最初の点は「直接的な原因」の一つとして、また、後の2つは「間接的な原因」の中で取り上げられている。ただ、いずれも多くの企業で程度の差はあれ普通に行われていることであり、これらを根本的に改めよと言われても困るのではないだろうか。

 

一方、一部の識者は、この報告書が監査法人についてほとんど突っ込んだ調査を行っていない点を問題視している。例えば、郷原信郎弁護士は、東芝の経営者が意図的に監査法人をだましたのか、監査法人に見逃してもらったのかが問題の核心だとする(2015723日付「日経ビジネスオンライン」)。また、久保利英明弁護士も、今回のケースでは、新日本監査法人は東芝に「だまされた」か「グルだった」かのどちらかだ、と同趣旨の発言をしている(2015724日付「日経ビジネスオンライン」)。元・日経新聞記者の磯山友幸氏がこうした点を新日本監査法人のトップにただしたところ、「煮え切らない答えが返ってきた」という(2015731日付「日経ビジネスオンライン」)。

 

「騙されたという部分もあるだろうし、我々の力不足だったと反省しなければいけない部分もあるだろう」というのだ。さすがに、「グルだ」という点に付いては否定したが、東芝を強く責めるそぶりはない。

 

磯山氏はさらに、つぎのように指摘する。

 

長年の優良顧客である東芝に対して、監査法人は強くモノが言えていなかった様子が見えてくる。

おそらく、東芝の方が会計処理で主導的な立場で、監査法人はなかなか口が挟めなかったのではないか。

様々な会計処理で、結果的に監査法人は東芝の「意思」を容認していたのではないか。

 

これらは、大変興味深い点だ。同じ組織の中で部下が上司の意向に逆らえないというのは一般的な傾向だが、実は独立した組織(あるいは個人)同士の関係においても共通利益という誘惑が正義や良心を上回ることは珍しくない。例えば、自営業者はサラリーマンのように「上司」を持たないが、「顧客」なしには収入が得られない。そして顧客を得るには、程度の差はあれ相手の要望に応える必要がある(2012820日付、当ブログ「ハイエクのサラリーマン社会論」を参照)。

 

こうした、功利主義的な考慮なしに、それらから超越した何らかの正邪の基準に従って不正を断罪する機関、仕組みは、人間の世の中ではそもそも不可能なのかもしれない。例えば、独裁国家の司法機関は独裁者の利害を反映した判断をするだろうし、民主国家の司法機関は国民多数の利害を反映した判断をするだろう。(ついでに言えば、戦争犯罪裁判は戦勝国の利害を反映した判断をするだろう。)誰の利害かという違いはあるが、そもそも人の利害から全く超越した「正義」はあるのか、という懐疑である。ホリエモンが「東芝の刑事事件化は検察の胸三寸」と言ったらしいが、一面の真実はあるように思う。

 

最後に、720日付の当ブログ記事の中で取り上げた、意思決定や評価を行うための能力、それに必要な情報、公正な意思決定や評価を行う動機の3要件についても補足しておきたい。これら3要件を全て兼ね備えた人物はおそらく、かなり稀にしか存在しない。なぜなら、まず、①能力の見極めが難しい。同じ社内で長年経験を積んだ人物の場合、その能力はかなりの程度把握できるが、その選考過程で社内政治・派閥といった要因が入り込みやすい。一方、他社からスカウトする場合、その能力は未知数の部分が大きくなる。②情報については、一般に社内出身者の方が多く保有していると考えられる。その結果、①や②を満たす候補者は、社内出身者か、当該会社(のトップ)と密接な関係を持つ者になりやすい。言いかえれば、当該会社(あるいはそのトップ)と密接な利害関係を持つ者とも言える。したがって、③の公正な判断を下せるかという動機の部分が怪しくなる可能性が増すのである。

 


「チャイルド44-森に消えた子供たち」(Child 44、2015年、アメリカ映画) [映画]

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1933年、ウクライナの孤児院を一人の少年が脱走するシーンから、この映画は始まる。(当時孤児が多数発生した背景には、半ば政策的に引き起こされたウクライナの飢饉がある。)少年は、拾ってくれた軍人から「レオ」と名付けられ、彼自身も赤軍の兵士となる。194552日、ソビエト赤軍がナチスドイツ軍を打ち破り、ベルリンの国会議事堂(Reichstag)の頂上にソ連軍国旗を掲げた有名な写真があるが、映画の中ではこの旗を掲げた兵士こそレオだという設定になっている。戦後、レオはMGB(国家保安省。KGBの前身)の一員となり活躍する。映画の主たる舞台は1950年代、スターリン体制末期のソ連だ。

 

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この映画のモチーフの一つは言うまでもなく、スターリン時代をはじめとする独裁体制につきものの自己保身、噓、裏切り、密告、人間不信の連鎖だ。レオも同僚で友人のアレクセイ、部下のワシーリー、妻のライーサなどとの間でこうした連鎖に巻き込まれる。しかし、彼は妻のライーサを裏切ることができず、その結果、ヴォリスクという地方都市に左遷される。

 

ところで、モスクワ時代にアレクセイの息子が不審な「事故死」をとげたが、驚いたことにヴォリスクやその周辺でも同様の少年の不審死が相次いでいた。レオは、妻のライーサやヴォリスクでの上司ネステロフ将軍を巻き込んで、犯人の追究に乗り出した・・・。

 

映画では、弾一発で簡単に人を殺すシーンと、身体的、精神的に人を追い詰めながら簡単には殺さないシーンが交錯し、観る者に不安や動揺を引き起こす。一方、レオはしばしば子供に対する強い愛情を示すが、それはおそらく彼自身の孤児院出身という出自とも関係しているのだろう。これはこの映画の救いにもなっている。エンディング間近のシーンでは、不覚にも涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 

最後に、この映画で印象深かったセリフを3つ挙げておく(いずれも、セリフそのものではなく、大意)。

「楽園では殺人事件はあり得ない」(体制側の者がしばしば使う言葉)。

「戦争で人を殺すのと、体制側の者が市民を殺すのと、自分のような個人が(快楽で)人を殺すのと、どういう違いがあるというのだ?」(孤児院出身の猟奇殺人者がレオに言った言葉)。

「彼(猟奇殺人者)がああなったのは、ソ連体制の出身者だからか、西側体制に毒されたせいか、自分にはわからない」(猟奇殺人者がナチの収容所帰りだったことから、彼が殺人鬼になったのは西側の体制のせいだと言った上司に対するレオの答え)。

 


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